第2話
異世界管理局。
現代とは異なる世界を管理するための機関のことで、一係、二係、監察の三つが主要となっている。
一係はオリジナルの異世界を管理し、二係は漫画や小説などで知られる異世界(俗に言う二次元)を管理し、監察は一係と二係が不正な行いなどをしていないか監督している。
仕事の邪魔にならないように長い髪をひとつに束ね、動きやすいようにパンツタイプのスーツを着て、ようやく慣れたチャンキーヒールのストラップ付のパンプスを履いている。
仕事を終え、異世界から戻って来た夕霧の探し人はなかなか見つからない。行きそうな所は片っ端から探してみたが姿はなく、まだ探していない休憩室へと向かっていた。
休憩室のドアを開ければ、先客がいた。ほろ苦い香りが鼻腔をくすぐる。休憩室にあるコーヒーの匂いだ。
「あ、夕霧ちゃん。おかえり〜」
気が抜けるような、ふにゃんとした笑みを黒髪の青年は浮かべる。夕霧と同じ黄金色の瞳が弧を描く。
夕霧の捜している人物ではなかったが、彼の笑みにつられるように、目じりをふにゃりとゆるめて柔らかな笑みを浮かべた。
「ただいまです、
「帰って来た報告ならあとでいいと思うよー? ここで休憩して行きなよ。幽冥さん、現在進行形で頭痛と格闘してる最中だから」
「ああ……群発頭痛」
それならあとでいいか。と思い、休憩室のドアを閉め、空いているイスに腰かけた。
夕霧と月影の上司である幽冥は群発頭痛を患っていた。
群発頭痛は『自殺頭痛』『人類最悪の痛み』と云われ、自殺したいほどの辛い痛みが二ヶ月ほど続くことが多く、具体的に云うのであればその痛みは片側の目の奥が抉られるような強烈なものらしい。心筋梗塞・尿路結石と並ぶ、世界三大激痛のひとつとされている。
「医者に診せればいいのにね〜」
「診せたくない理由でもあるんですよ、きっと」
「医者が嫌いとか?」
月影は立ち上がると、夕霧専用のマグカップを手に取る。焦げたパンみたいな犬のイラストが描かれた可愛いマグカップの中に、たっぷりとコーヒーを注いだ。
ちなみに、夕霧は犬派ではなく猫派だ。
「かわ、ンンッ。……そもそも、幽冥さんに嫌いなものってあるんですかね」
「わはは! さすがにあるよ、さすがに……うん、あると思うよ? はい、どーぞ」
零さないように気を付けながらマグカップを受け取る。
「ブラックでよかったよね?」と訊かれたので、頷いた。
「ありがとうございます」
「どーいたしまして」
イスに座り直して冷めたコーヒーを飲む月影。夕霧は猫舌なので湯気が立ち上るコーヒーを飲むことがまだできない。
「今日はヒロインでもないのに、逆ハーレムを築こうとしていた子の対処だっけ?」
「はい。おまけに魔法も異能もスキルもない世界なのに、
夕霧は「愛されたいだけなのに」と叫んだ少女を思い出す。あの少女は愛して欲しいから魅了を手に入れた。
自分の力じゃない、
「ほら、ね? 神様はイレギュラーなことが好きだからぁ……今回も面白半分で許可しただけでぇ……」
「後処理をするこっちの身にもなってほしいですけどね」
そういう世界線じゃねぇんだから、軽率に能力系統の
眉間にシワを寄せる夕霧を見て、月影は話題を変えることにした。懸命な判断だった。
「この仕事には慣れた?」
「……もう三週間も経っていますから」
夕霧──桐下ゆうは三週間前に自殺した。
自殺した理由はこれと言ってなかった。家族仲も、職場の環境も、人間関係もよかった。否、自殺した理由はあるにはあるのだ。ただ、それが理解されないだけで。
死にたかった。それだけ。理由がなくとも死にたいと思うことは誰だってあるんじゃないかな、と夕霧は思う。
人生に疲れていたわけじゃない。人間関係が悪かったわけじゃない。環境が悪かったわけじゃない。
ただただ、死にたかった。それだけのこと。
それでも自殺しようと思ったことは一度もなかった。死ぬのは怖いことだから。けれどあの日、死ななければいけない、と強迫観念のような何かに突き動かされて、夕霧は自殺した。
夕霧は、死ぬ勇気がなくて自殺していなかっただけでちょうど良かったのだ、と思うようにしている。
それでは何故、自殺したはずの彼女が生きているのか。
簡単なことだ。彼女は罪を贖うために『夕霧』の名前を与えられ、死神として生きることになった。
では、彼女の罪とは何か。自分をないがしろにし、自殺した罪だ。
その罪を償うために、彼女は『異世界管理局』二係に配属された。
一係も二係も監察も地球出身の人間が転生またはトリップしてくるため、そういう知識がある人間が配属されるようになっている。もちろん、異世界管理局に所属している者は夕霧と同じように自殺した人間だ。
死神は自殺という罪を犯した人間しかなれないのだから。
余談だが、地球にも死神はいる。彼らも自殺した人間で、彼らは死んだ人間の魂を回収し、魂を狙う『屍』と呼ばれる化け物を殺すのが仕事となっている。
「そっかぁ。もう三週間なんて月日は早いものだねぇ」
「そうですねー」
ようやくコーヒーが飲める温度になったのでちびちびと飲み始める。ミルクも砂糖も入れていないコーヒーは少しだけ苦かった。
ガチャッ、と休憩室のドアが開く。
休憩室に入って来たのは、神経質そうな灰色の髪の青年。着崩したスーツを着ているが、高校生くらいの年齢に見えるせいか、ちくはぐな雰囲気。眉間にシワを寄せ、黄金色の瞳が二人を射抜く。
「頭痛治りましたぁ? 幽冥さん」
「……月影、見て分かれ。俺は今、猛烈な痛みと格闘中なんだ」
夕霧が捜していた、幽冥である。
「飲み物でも淹れましょうか?」
「いい。自分で淹れるから座ってろ」
「解りました」
腰を浮かせた夕霧を制して幽冥は休憩室に入り、棚の中から自分のマグカップを取り出す。軽く水ですすいでからコーヒーを淹れた。イラストが描かれていないシンプルなブラックのマグカップと角砂糖が入った瓶を持ち、月影の隣に座る。
「夕霧」
視線で応える。幽冥は角砂糖の瓶の蓋をキュポッと開け、角砂糖をポチャンと落とす。
「報告書は」
「はい」
「休憩が終わったあとでいいよ」
「はい」
「おかえり、夕霧」
「……ただいま、幽冥さん」
ポチャン、ポチャン。角砂糖がマグカップの中に吸い込まれていく。
「あのぉー、ずっと前から気になっていたんですけど、幽冥さんの
脈絡もない唐突な質問に、夕霧はコーヒーを吹き出した。慌ててハンカチを取り出して汚れた口を拭う。幸いなことに、スーツは汚れていなかった。
ポチャン、と角砂糖がまたひとつ、ふたつとマグカップの中に沈む。
「わぁ、夕霧ちゃん大丈夫?」
「お前のせいだぞ」
「えぇっ、俺のせいなのぉ?」
「え、ちょっ、月影さんっ」
そんなこと聞いていいんですか……!
夕霧が慌てた理由は、異世界管理局にある暗黙の了解を月影が破ったからだ。
ひとつ、自殺した理由を聞いてはならない。
ひとつ、生前のことは聞いてはならない。
ひとつ、自殺してはいけない。
配属されたその日にそれを教えられるのだが、暗黙の了解だとか暗黙のルールだとかそういうものが嫌いな夕霧は心の中では、クソだな、と思っていた。面倒な事態になるのはもっと嫌なので、守るようにしているが。
「いいよ、夕霧。こいつは暗黙の了解とか気にしないタイプの人間だから」
「えへっ。だってそういうのって面倒じゃないですか。気になるものは気になりますし、俺は気になったらすぐに聞いちゃうタイプの人間ですから」
「知ってるよ。何回俺がお前の尻拭いをさせられたと思ってるんだ。……ああクソ、思い出したら胃も痛くなってきた……!」
「幽冥さんしっかり」
「誰のせいだ、誰の」
「俺ですねぇ」
へらり、と月影が笑う。
角砂糖をコーヒーの中に入れた幽冥は深いため息をついて。
「俺のこれは死神になってから」
と、言った。角砂糖が三つ、ポチャンとマグカップの中に落ちていく。
「へー」
「自分で聞いたわりに興味なさそうだなお前……いいけど」
「あの、注射とかは打たないんですか? 群発頭痛には薬じゃなくて注射が手っ取り早いって聞いたことありますけど」
「そうなの?」
「そうらしい。夕霧、よく知ってるね」
「前に調べたことがあったんです。偏頭痛が酷くて……今は大丈夫なんですけど」
「今は大丈夫でも、酷かったら薬を処方してもらった方がいいよ。辛いだろ」
「私よりも幽冥さんの方が辛いと思いますけど……」
夕霧の言葉に幽冥は肩を竦めた。
「医者に診せる気も、注射や薬で痛みを和らげるつもりもないよ」
「それはどうして?」
幽冥は微笑み、口元に人差し指を当てる。それ以上は秘密、とでも言うように。
まだ聞きたそうに幽冥を見る月影だが、夕霧はこれ以上はさすがに拙いだろうと話題を変えることにした。
話題はポチャン、ポチャン、とさっきから何個も何個もマグカップに入れられている角砂糖についてだ。
「……ところで幽冥さん、角砂糖何個入れる気ですか。十個は余裕で超えてますよね、それ」
「あと六個くらい」
「それはもうコーヒーじゃなくてコーヒーの味がする砂糖水です」
「休憩室に泥水しかないのが悪い」
「コーヒーのことを泥水って表現するのやめてくれます? その泥水を私と月影さん飲んでますからね」
「……君ら、味覚おかしいな。医者に診てもらった方がいいぞ」
「あんただけには絶対それを言われたくない」
思わず敬語が外れた。月影と幽冥は敬語じゃなくてもいいと言うが、さすがに上司と先輩にタメ口はダメだろうと敬語で話すようにしている。
「コーヒー以外の飲み物、たまに飲みたいときありますよね〜。俺はハイボール飲みたい、もしくはリキュール」
「それお酒じゃないですか。職務中にお酒を飲むのはダメですよ」
「わはは。夕霧ちゃん真面目だね」
「別に真面目ってわけじゃ……、幽冥さんは何が飲みたいですか?」
「いちごミルク」
「かわいい……」
「飲み物じゃなくてマシュマロとか置くのもいいと思う」
「かわいいっ……!」
「幽冥さんあざと〜い」
それぞれのポケットに入れてある端末が短く震え、三人の雰囲気が変わる。端末を取り出し指を滑らせてザッと内容を確認すれば、次の仕事についてだった。
夕霧はがくっと項垂れる。
「報告書、まだ書いてもないのに……」
「わはっ。俺が行くから夕霧ちゃんはゆっくり報告書書いてなよ〜」
「夕霧も連れて行け」
「えー? 夕霧ちゃん、さっき帰って来たばかりですよ? それなのに行かせるんですか?」
「夕霧はお前のサポートだよ、月影。きちんと内容は読んだのか」
そう言われ、月影はもう一度内容を確認する。納得の息を漏らした。
「あー、なるほど。了解です。ごめんね夕霧ちゃん、俺と一緒に行ってくれる?」
何がなるほどなのか夕霧には分からないが、解ったような顔で頷いた。
「はい、大丈夫です。仕事ですから」
「わはは、真面目だなぁ。大丈夫だいじょうぶ、これの報告書は俺が書くから。いいですよね〜? 幽冥さん」
「ああ。そこら辺はお前に任せる」
月影はイスから立ち上がり、夕霧はマグカップに残っているコーヒーを飲む。一気に飲んだせいか舌がピリピリと痛んだ。
「よーし、じゃあ、デスサイズ取りに行こっか〜」
「分かりました」
放置された月影のマグカップと自分のマグカップを片付けとする夕霧を、幽冥は手で制する。
「いい。片付けは俺がしとく」
「ありがとうございます」
「おーい、夕霧ちゃーん?」
「今行きます」
休憩室のドアが閉められる。残された幽冥はマグカップの中身をぐいっと、一気に飲み干した。
溶けきれなかった粒がざらざらと舌と触れ合って、そのまま舌先に甘さが残る。ぐっと幽冥の眉間にシワが寄せ、舌を出した。
「あっま」
立ち上がり、水ですすぐ。口直しのために新しくコーヒーを入れ直して、何も入れずに口をつける。
苦味で口の中の甘さが中和され、ほっと息をついた。
「あんなの人間の飲み物じゃない」
そう言って、口を抑える。きょろきょろと周囲を見るが、休憩室には幽冥しか居ない。
安堵の息を漏らして沈黙。ちいさな、泣きそうな声でつぶやいた。
「……おねーちゃん」
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