11-4 隣の席の彼女を思い出す
作業机の上には、薄紙に包まれ四隅を洗濯バサミで止められた『水出しの魔法円』だけが置かれている。
それまでサノスが作業していた洗濯バサミだらけの『湯出しの魔法円』は棚へ戻した。
俺も広げていたメモ書きの全てを作業中の箱へ戻すと蓋をして棚へと戻した。
「イチノスさん、これで霧(きり)を拭けばいいんですよね?」
振り返って告げるロザンナの手には霧吹(きりふ)きが握られている。
俺とサノスはロザンナの後ろに立って、その問い掛けに答えた。
「そうだ。頑張れよ」
「ロザンナ、頑張って!」
ロザンナが軽く深呼吸をし意を決した。
手にした霧吹(きりふ)きを口に当て、薄紙で包まれた『水出しの魔法円』に向かって強く息を吹き込んだ。
ロザンナの吹いた霧(きり)は昨夜の霧雨(きりさめ)のように宙を舞う。
そして薄紙で包まれた『水出しの魔法円』へと降り掛かる。
サノスが前に出て、ロザンナが吹いた霧(きり)の掛かり具合を覗こうとするのを俺は肩を掴んで押さえた。
ロザンナが薄紙に降り掛かった霧(きり)の様子を確認すると振り返った。
「イチノスさん、この付近が掛かって無いんですが⋯」
ロザンナが心配そうな顔で『魔法円』の角を指差しながら聞いてくる。
そんなロザンナへサノスが声をかけた。
「ロザンナ、気にしないでそこに向かって、もう一度拭いて!」
「わかりました!」
サノスの言葉でロザンナは、もう一度、霧(きり)を吹いた。
霧吹(きりふ)きから出た霧(きり)が治まり、ロザンナが薄紙で包まれた『魔法円』を覗き込んでいる。
全体を何度も見渡したロザンナは後ろを振り返り、俺とサノスへニッコリと微笑んだ。
そんなロザンナにサノスが近寄り声をかける。
「ロザンナ、どう?」
「すごく緊張しました」
サノスの問い掛けにロザンナが緊張を残したまま、手に霧吹(きりふ)きを持って答えている。
「ロザンナ、霧吹(きりふ)きが済んだなら残った水を捨ててこようか?」
「は、はい!」
俺の声に台所へ向かうロザンナは、肩を回して少しでも緊張をほぐそうとしていた。
霧(きり)の掛かり具合を確認しているサノスへ問い掛ける。
「ロザンナは霧吹(きりふ)きを使うのが初めてなんだな?」
「私も最初は初めてでしたよ」
サノス、誰でも最初が初めてなのは当たり前だぞ。
「そういえば、サノスは上手に拭いていたな?」
「そりゃ、何回も練習しましたから」
ククク やはり練習したのか。
サノスは型紙を描くのは7回目と言っていたが、霧吹(きりふ)きの段階で失敗もしたんだろう。
「母さんから霧吹(きりふ)きを借りて、何回も練習しましたね」
「ククク(笑」
「師匠はどうでした? 初めて霧吹(きりふ)きを使った時は失敗しました?」
ロザンナの霧吹(きりふ)きの成果を見続けながらサノスが問い掛けてきた。
「俺か? 俺が初めて魔法円の模写を習ったのは魔法学校へ入ってからなんだ」
「じゃあ、学校で初めて霧吹(きりふ)きを使ったんですか?」
「いや、霧(きり)を降らせたんだよ」
「へぇ~ 霧(きり)を降らせた⋯ えっ?!」
サノスが慌てて振り返った。
「霧(きり)を降らせるって、なんですか?!」
「あの時は、このぐらいの大きさなら霧(きり)が出せたからね」
「ちょ、ちょっと待ってください。それって⋯ 水魔法ですか?!」
「俺だけじゃないぞ、隣で座ってた彼女もできたぞ」
俺は再びゴリゴリの魔導師の娘だった彼女を思い出す。
他の同級生がブーッと霧吹(きりふ)きを噴く中、彼女は両手を薄紙で包まれた『魔法円』にかざしてブツブツと何かを唱えていた。
フンッ!
そんな感じで気合いのこもった声を彼女が出すと、かざしていた両手の中が靄(もや)か何かで白くなった。
彼女がかざしていた両手を解くと白い靄(もや)の様な物が薄れて行く。
全ての白さが解けると、そこには十分に湿り気を帯びた薄紙に包まれた『魔法円』があった。
彼女は横に座る俺に緑色の瞳を見せ、ニンマリとした顔をしてきた。
口には出さないがどこか挑発的な笑みだった。
それならばと俺も『魔法円』の上に右手を翳し胸元の『エルフの魔石』から魔素を絞り出す。
俺の仕草を見つめる彼女と目があった時、翳した右手から霧(きり)が出るのを強く願った。
途端に翳した右掌が湿り気を帯びて行く。
水魔法で霧(きり)を出した俺は、そのまま御返しとばかりに口角を上げてみた。
すると彼女の緑色の瞳が点になった。
『い、イチノス君も出来るの?!』
あの時の彼女の驚いた顔と言葉が今では懐かしいな。
「サノス先輩、霧吹(きりふ)きは洗って台所に置いてます」
はっ! 作業場へ戻ってきたロザンナの声で魔法学校時代の思い出から俺は引き戻された。
「ロザンナ、ロザンナ! 師匠は霧吹(きりふ)きを使わないんだって!」
「えっ? 先輩、何の話です?!」
「だからね、師匠も学校で同じことをしたんだって。その時に師匠は水魔法で霧(きり)を降らせたんだって!」
「サノス先輩⋯ 何の話ですか?!」
「だからね、水魔法!」
「水魔法??」
ククク
サノス、ロザンナに通じていないぞ(笑
俺の霧(きり)を降らせた水魔法の話で熱くなるサノスを放置して、ロザンナの成果へと目を向ける。
「これで乾けば薄紙がピンと張るだろう」
「イチノスさん、上手く出来ましたか?」
(水魔法⋯ 水魔法⋯)
ロザンナもサノスの熱しように諦めたのかサノスを無視してるな。
ブツブツ言うサノスが少し煩わしいぞ(笑
「まあ、失敗したら薄紙に皺が寄るだけだからな(笑」
「えっ?! 皺が寄ったらどうするんですか?」
(水魔法⋯)
「またやり直しだね(笑」
ロザンナの目が点になる。
「まあ、だんだん上手くなるよ(笑」
ロザンナが少し肩を落とした気がした。
先ほどから感じていた空腹に時計を見れば11時を過ぎている。
イルデパンの話では1時に迎えが来ると行っていたよな。
少し早いが昼御飯にするか?
「サノス、腹が空かないか?」
「水魔法で霧(きり)を⋯」
「サノス!」
「は、はい、何ですか師匠!」
「腹が減らないか?」
「はい! 今日は母さんからロザンナの分も持って行けと云われました!」
「ロザンナはどうだ?」
「し、皺が寄ったら⋯ やり直し⋯」
「ロザンナ!」
「は、はい、何ですかイチノスさん!」
「お腹が空かないか?」
「はい! 空いてます! 今日はミネストローネです!」
「じゃあ、皆で食べよう。ロザンナはそれを空いている棚へ片付けてくれるか? サノスはミネストローネを温めてくれるか?」
「「はい!」」
二人が元気に返事をして動き始めた。
◆
今日の昼食はロザンナの言葉のとおりにミネストローネだ。
もちろん給仕頭の婆さんが捏ねたらしき固めのパンとのセットだ。
うん、なかなか上手いぞ。
「今日はバジル無しです」
サノスがポツリと呟く。
「バジルが無くても十分に上手いぞ」
たしか先週もミネストローネを食べたよな?
あの時には、裏庭で採れたバジルが添えられていたな。
「サノス先輩、バジルがあるともっと美味しいんですか?」
「ロザンナは、先週のミネストローネを食べて無いの?」
「食べてないです」
ロザンナが少し残念そうな返事をする。
「ほら、裏庭でオオバとバジルを採取したでしょ? あの日は食堂のスープがミネストローネだったの」
「あの日ですか? 美味しかったですか?」
「採れたてのバジルだから香りが強くて美味しかったよ」
「へぇ~ いいなぁ~」
二人の会話を聞いていて、俺はロザンナの昼食が気になった。
明日からロザンナが店に来るとして昼食をどうするんだ?
俺はサノスに昼食の買い出しをお願いすることが多いから、サノスの分も頼むが、ロザンナの分はどうするべきなんだ?
「ロザンナ、ちょっと聞いて良いか?」
「なんですか? イチノスさん?」
「普段⋯ そうだな、見習い冒険者で薬草採取や伝令の仕事をしてる時は、昼食はどうしてたんだ?」
「朝、家を出る時にパンに色々挟んで持って出ます」
なるほど、サンドイッチだかバケットサンドだかにして持って行くのか。
そういえばサノスも作業場でそんな物を食べていたな。
「師匠、私も同じですよ。見習いは弁当を持って薬草採取へ行くんです」
「天気が良いと持ってきたお弁当を外で食べたりしてます」
外で食べるか⋯
今日は雨だが天気が良い日は、ピクニック気分で食べれるな。
今度の休みには俺もやってみたいな⋯
「そうねぇ~ 外で食べるのも美味しかったね」
「サノス先輩が来なくなってから、私はギルドで食べてますね。エドとマルコが伝令にしようってうるさくて⋯」
ククク あの二人は薬草採取より伝令希望か(笑
「あの二人は、ロザンナと違って薬草採取は下手だからね(笑」
「そうなんです。何回教えても変な草が混じってるんです」
「ギルドで食べるって?」
俺は何気なく二人に声をかけると、ロザンナが答えた。
「朝からお弁当を持って薬草採取に行って、昼にはギルドに戻るからギルドで食べるんです」
「ギルドで食べる時は、あの研修所か?」
「お昼にはあそこで集まる事も多かったね。ロザンナ、今も同じでしょ?」
「えぇ、同じです。サノス先輩は⋯ そうかあ⋯ 先輩はイチノスさんのところで食べてるんですね」
ロザンナとサノスは明日からの昼食をどうするんだ?
ここは素直に二人に聞くべきか?
「サノス、それにロザンナ、明日から店を開くが昼食はどうする?」
「私は自分の分を持ってきますよ。ロザンナは?」
「私も祖母から自分で持って行くように言われました。そうだ、帰りに忘れずにパンを買って帰らないと⋯」
二人の会話を聞きながら、俺は自分の昼食だけを考えれば良いのかと思い直した。
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