10-12 雨の中、彼女と帰ることになりました
大衆食堂で俺の名を叫んだヘルヤさんは、それが当たり前だと言わんばかりに俺の向かい側へと座った。
そんなヘルヤさんの装いは、今まで見たことが無いものだ。
黒のフォーマルな感じのスーツに身を包み、バッチリと化粧を施している。
トレードマークの赤髪は、街娘な感じの時と同じ様に後ろに広げているのだが、妙に艶やかでサラサラな感じがする。
その身に纏う装いや髪の手入れだけで、女性はここまで変身できるものなのかと感心させられる。
そんなヘルヤさんをオリビアさんがまじまじと眺めている。
オリビアさんもヘルヤさんの変身ぶりに何かを感じてるのだろう。
ヘルヤさんが、これだけ着飾った装いで俺を探していると口にしたのだ。
俺とヘルヤさんの関係を勘違いするのが大好きなオリビアさんなら、更に変な勘違いをしてくるだろう。
そんなオリビアさんが俺の視線に気がつき口を開く。
「イチノスさん、待ち合わせ?(ニヤリ」
オリビアさん、予想通りの勘違いな台詞(セリフ)を口にしないでください。
ん? なんか焦げ臭くないか?
くんくん⋯
やはり何かが焦げるような香りが漂っている。
「イチノス殿、何処に行っていたのだ!」
ヘルヤさんが再び俺の名を叫ぶ。
だが、俺はそれを手で制して、焦げ臭さの元を鼻を効かせて辿って行く。
どうやら厨房の方から焦げ臭い香りが⋯
「オリビアさん、串肉が焦げてる気がする」
「あっ!」
オリビアさんが駆け足で厨房へと走って行った。
厨房へと向かうオリビアさんを見送りながら、ヘルヤさんを制していた手の指を一本立てる。
それを自分の口の前に持って行き『お静かに』のポーズをすると、ヘルヤさんが固まった。
その姿のままで、俺は囁くようにヘルヤさんへ声を掛ける。
(ヘルヤさん、他のお客さんに迷惑です。お静かにお願いします)
(⋯!)
ヘルヤさんはグルリと周囲を見渡すが、俺とヘルヤさん以外に他のお客さんなど誰一人として居ない。
(⋯ 誰もいないが?)
「ヘルヤさん、落ち着いて話しましょう(ニッコリ」
「そ、そうだな⋯」
「何か飲みますか?」
「おぅ! イチノス殿と祝杯を上げたくて探していたのだ」
ヘルヤさんが落ち着いてくれたようだ。
◆
「「「かんぱーい」」」
オリビアさんも参加して3人でエールのジョッキを掲げた。
ヘルヤさんは満面の笑みだ。
オリビアさんは、何処かニヤついていないか?
何にニヤついているかの想像はできるが⋯
「それでだな、ウィリアム様が商工会ギルド長へ言ってくれたのだ」
「それでそれで」
オリビアさんがヘルヤさんの言葉を良い感じで促している。
「私の住まいと工房の候補を、今月中に決めるようにウィリアム様が言ってくれたのだ」
「それは良かったですね」
ヘルヤさんの喜びがこもった言葉に俺が応えると、オリビアさんが俺をチラリと見ながら口を開く。
「じゃあ、いよいよヘルヤさんはこの街に住むのね?(ニヤリ」
オリビアさん、俺を見ながらの『ニヤリ』は何回目だ?
「こうして良い結果を得られたのは全てイチノス殿のお陰だ」
「あらぁ~ イチノスさん、頑張ったのねぇ~(ニヤリ」
オリビアさん、そろそろ『ニヤリ』に疲れて来ないか?
ここまでヘルヤさんが熱く語ってくれたのは、今日の昼から領主別邸で開かれたウィリアム叔父さんとの会合の話だった。
なぜヘルヤさんがと思ったが、東町街兵士副長のパトリシアさんが、ヘルヤさんを連れて行ったと言うのだ。
「ヘルヤさん、結局、その会合には誰が来てたんですか?」
アイザックを通して断った俺だが、少しばかり会合の様子が気になる。
「そうそうたる面子だったぞ。まずはウィリアム様とフェリス様だろ、それに街兵士長官のアナキン殿、ギルマスのベンジャミン殿、東町のパトリシア殿、商工会ギルドのギルド長、あとは何と言ったかな⋯」
危ない危ない、そんな面子の集まりに行かなくて本当に良かった。
「そうだ、アンタアレとか言う商会の会長だ」
アンタアレ? 何処かで聞いたような名前だな⋯
「まさに『良いこと尽くめ』だ。このところ悩んでいたことが全て解決したのだ」
「とにかく、ヘルヤさん良かったわね」
オリビアさんの促す言葉にヘルヤさんが更に加速する。
「更に良いことがあったのだ。これについては、後でイチノス殿へ話すからな」
「なになに、もしかしてぇ~(ニヤリ」
オリビアさん、俺は『ニヤリ』に飽きてきたぞ。
バンッ!
急に食堂の入口が開き、給仕頭の婆さんが入ってきた。
「いやー、降ってきたよ」
婆さんが体に着いた水滴を払いながら、俺達の座る長机に寄ってくる。
「女将(おかみ)殿、降り出してるのか?」
「あぁ、こりゃ明日の討伐は中止だね。連中は誰も⋯」
そこまで言った婆さんの視線はヘルヤさんへと向かう。
ヘルヤさんを見たまま、婆さんの首が傾いて行く。
それに合わせるようにヘルヤさんの首も傾いて行く。
「もしかして⋯ ヘルヤさんかい?」
「あぁ、ヘルヤ・ホルデヘルクだ」
「あらまぁ、綺麗な格好で⋯ そうかいそうかい(ニヤリ」
婆さん、俺を見て『ニヤリ』とするな。
俺はオリビアさんの『ニヤリ』でお腹が一杯なんだ。
◆
現在、魔導師のイチノス・タハ・ケユールは、それまで座っていた長机から移動し、隣の長机で一人で夕食を食べております。
給仕頭の婆さんとオリビアさんの『ニヤリ』攻勢に、俺は深い諦めを感じました。
そこで俺はヘルヤさんを生け贄にして夕食を召喚し、一人隣の長机に移動して食べることにしたのです。
なんと召喚された夕食は昼食と同じで、キャベツのポタージュスープとパンであります。
先ほどまで座っていた長机では、ヘルヤさんが骨の髄まで婆さんとオリビアさんにしゃぶられております。
あの二人が揃うと、ヘルヤさんと俺の仲を直ぐに勘違いしてきます。
そんな理由から、俺が大衆食堂に居る時には、ヘルヤさんには来て欲しくなかったのが本音です。はい。
さて、夕食も済ませたから帰って寝よう。
明日は昼からウィリアム叔父さんとの会合が待ってるからな。
俺は下げ物を厨房前の下げ物置き場へ出し、変な盛り上り方をしている婆さんとオリビアさん、そしてヘルヤさんへと声を掛けた。
「悪いけど先に帰るな。ご馳走さまでした」
「待て、イチノス! ヘルヤさんを送って行かんか!」
「そうよ、雨の中を女性一人で歩かせるの?!」
「⋯⋯?」
婆さんとオリビアさんが、ヘルヤさんを送って行けと変な圧力をかけてくる。
その圧力に巻き込まれるヘルヤさんは首を傾げた。
「はいはい。ヘルヤさんを送りますよ」
ここで二人の意見を否定したり断ったりすると、不要な説教が待っている気がした俺は素直に従うことにした。
これが『折れる』と言うことなんだな⋯
「いや、ワシはもう少し呑みたい気分だ。イチノス殿も呑もうではないか!」
「ダメよヘルヤさん!」
「そうじゃ、イチノスに送ってもらうんじゃ!」
「そ、そうか⋯」
ヘルヤさんが婆さんとオリビアさんの圧力に折れ始めた。
「オリビア、傘は有ったよな?」
「有りますけ⋯ 一本で十分ね(笑」
オリビアさんが駆け足で棚から一本の傘を持ち出して俺に渡してくる。
「はい、イチノスさん(ニヤリ」
「すいませんね、お借りします」
「返すのは、サノスにでも持たせて」
「あぁ、そうします⋯」
「そうだ、明日はサノスが行っても大丈夫かしら?(ニヤリ」
「大丈夫です。何もありませんから(キッパリ」
俺は少しだけ『ニヤリ』に抗ってみた。
「そういうお二人は大丈夫ですか?」
俺は話題を変えるために婆さんとオリビアさんへ問い掛けると、二人が揃って壁の時計を見た。
その目線に釣られて俺も時計を見れば、8時になろうとしている。
「大丈夫だよ。もうすぐ巡回の街兵士が来るね。オリビア急いで片付けるよ!」
「はい!」
なるほど。
普段なら冒険者連中の誰かが婆さんとオリビアさんを送って行くが、連中が居ない時には巡回の街兵士が送って行くのか⋯
そんなことを思っている俺の目の前では、婆さんとオリビアさんがサクサクと片付けを始めている。
それまで飲んでいたエールのジョッキやら何やら、長机の上の下げ物を次から次へと厨房へと運んで行く。
その様子でヘルヤさんが完全に折れた。
ヘルヤさんも下げ物を運ぶのを手伝い始めた。
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