肆之一 真相之今昔物語 一
一之一 文禄
まだ紅葉が人としての年齢であった頃。文禄五年──一五九六年。数え年で十八の時。桜並木で紅葉は桜の少女に目を奪われている最中。彼女は気付いて声をかける。
「あの、そこの御方。どうなされました?」
「えっ、あっ、すみません。つい、見惚れてしまいまして」
声をかけられて慌てた。彼は勢いよく頭を深々と下げて謝る。が、紅葉はしまったと顔を青ざめた。つい見惚れたと口に出してしまったからだ。怪しまず彼女は顔を綻ばせている。
「ええ、綺麗ですよね。桜がとっても見惚れてしまうほど、美しくて。私もずっと見てしまいます」
どうやら桜を見惚れたと勘違いしているらしい。顔をあげて彼は息を吐く。
紅葉は今まで女性と接する機会はあった。目の前にいる少女のように美しい女性もいる。しかし、惚れてしまうほど彼女には出会わなかった。彼の顔は熱くなっており、首まで赤い。赤い姿に少女は心配そうに駆け寄る。
「大丈夫ですか!? 薬売りさん」
駆け寄られて紅葉はびくっと震えた。彼女から香しい匂い、愛らしい顔をしている。両手を振って、彼は何度も首を横に振る。
「だ、大丈夫! 本当に大丈夫です! ほ、ほら、こうたくさん動けますし!」
回ったのちに、宙返りをして見せた。顔を見ると、彼女はぽかんとしている。また彼は気付く。身体能力が高い場面を見せてしまったのだ。慌てようとする前に、彼女は拍手をして声をあげる。
「す、凄いです! 薬売りさん。そんなに身軽なのですね!
もしかして、元々は曲芸師さんなのですか?」
「えっ、……あっ……
額に汗がにじむ。人前で慌てることはない。しかし、彼女を前にすると動揺してしまう。彼は胸を掴む。心臓が熱く感じ、頭が混乱している。彼女は「あっ」と声をだした。
「そうだ。ちょうどよかった。薬売りさん。熱を下げるお薬はありますか?」
「……熱ですか?」
耳にして紅葉の顔に真剣味が帯びる。
「はい、私の父が床に伏せていまして。高い熱を出したのです。お代金は必ず支払います。お薬をください」
「ふむ……」
熱を下げるのはいいが、他にも症状がある。紅葉はただ薬をあげるわけにはいかなかった。正しい薬剤を提供したいからだ。彼は暫し考えて、彼女に顔を向ける。
「でしたら、貴女のお家に伺ってもよろしいですか?
薬売りの身ですが医を少々嗜んでおります故、少しは力になるかもしれません」
きょとんとする彼女ははっとして慌て出した。申し訳なさそうにおろおろとしだし、彼が落ち着かせる。落ち着かせたのちに、彼女は村へと案内した。
夕暮れ時につく。彼女が住まう村は田畑があり、小さなお社がある。他の村と比べ、辺鄙な場所であった。建物は藁と木等でできた木造のもの。紅葉は山の麓にある一軒の家にお邪魔をした。
彼女の母親と寝ている父親がいる。彼女の母親は美しかった。寝ている父親の方は温かな人に見えるが苦しそうである。汗を流して咳をしており、顔色もよくない。彼女が事情を話し母親が承諾して紅葉は診始めた。
父親がかかっているのは未来で言う風邪だ。当時の彼らのような人は薬を買うお金もない。民間療法しかなく、薬学を学ぶ機会も少ないのだ。容態を診て二人に告げる。
「大丈夫。これなら薬でよくなります。滋養があるのものを食べさせて、そのあとに薬を飲ませてください。あと、たくさん汗をかいたら体を拭いて、新しい着物に着替えてたっぷりと睡眠をとってください。三日分の粉薬を出しておきます」
背負っている包み箱の入れ物。未来でいうリュックサックの行李という物から薬をだす。紙で包装して、彼女の母親に渡しておいた。薬を見て少女の母親は深々と頭を下げる。
「本当にありがとうございます……! しかし、薬のお金がなく、なにを支払えば」
紅葉は首を横に振る。売ってはいるが少しでも命を救えればよかった。
「お気になさらず、お金は入りません。薬が効いているか確かめる為、二日後ほどにきますね」
微笑みだけを作って彼は立ち上がる。少女の声が聞こえた。家の玄関前で頭を下げて、紅葉は家から出ていく。
真っ暗な道を歩いていった。極力関わらない方がいいと早歩きになる。彼は自身の正体を知っており、人を嫌って恐れていた。彼女に見惚れたのは気のせいだと思い始めた時、背後から声が聞こえてきた。
「待ってください!」
振り返ると、息切れをしながら少女が走ってくる。紅葉の前で立ち止まり、彼女は両膝の上に手を置く。はぁはぁと顔を赤くした。
「薬売りさん。歩くの速いですね……流石です」
「……ええっと、どうしたんだい?」
彼は恐る恐る聞く。彼女は息を整えたあと、手にしているものを見せる。少し古びているが作りが良さそうな扇だ。桜の絵が描かれており、紐がついている。紅葉が見てもわかるほどの職人が作り上げた扇であった。
「……これは?」
「薬の代金です。足しにはなるのかはわかりませんが……」
足しにはなるが、紅葉が提供した薬以上の値段のものを買える。狡い人間は騙して受け取ろうとするだろう。彼は首を横に振った。
「いや、その扇は受け取れない。それは、腕のいい職人が作った扇だよ。家宝のようなものを受け取れない」
「ですが、ただで貰うわけにはいきません。お薬は滅多に買えないのにくださるなんて。これは一家の総意です。受け取ってください」
紅葉は入らないと断るが、少女は頑なに引こうとしない。困り果て彼は息を吐く。彼女の根は善良なのだ。丈に合わない代金や物は貰いたくはなく、頭を掻いて彼は思い付く。
「んー、じゃあ、薬が効かなかったら、また新しい薬を出すよ。そしたら、この扇を貰おう。もし効いたら、その扇は受け取らない。それでいい?」
「……わかりました」
条件を提示すると、少女はやや納得いかない顔をした。頑固だなと思いつつ、紅葉は去ろうかと考えた。彼女が聞いてくる。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
名を名乗るくらいは問題ない。
「僕は法泉之紅葉。紅の葉と書いて紅葉と言うだよ」
「ほうせんのこうようさま……法泉様ですね! 私ははると申します」
名を名乗り、はるは一礼した。
「この恩は忘れません。ちゃんとした機会に恩を返させていただきます」
周りの雰囲気が華やぎ、微笑みの花が咲く。彼女の微笑みは桜のようで、紅葉は目を丸くして胸の高鳴りを感じる。彼女がにこりと笑い、灯りがつく自分の家に帰っていった。
彼女の背が消えるまで、紅葉はぼうっと立っていた。次第に胸をつかみ、焦りを見せる。今までなかった感覚に気持ち。まだ胸の鼓動が激しい彼は口を結び、顔を上げる。月は眠そうな形をしていない。
「……どうしよう」
暗くてよかったと彼は息を吐く。彼の頬は赤く帯びてきたのだ。
紅葉は本部に帰ったあと、自室で頭を抱える。彼は自分の気持ちに鈍くない。彼はまた胸をつかむ。自分の気持ちを鷲掴みされたことに女々しく悩む。
「……こんなのないと思っていたのに。はぁ」
息を吐いて、はるの顔を思い出す。凛とした可愛らしい声も思い出してしまう。顔を赤くして、紅葉は「うわぁぁ」と畳の上でごろごろと転がった。声と音は大きい。隣の部屋にいる龍之介は何処かに遊びにいっていない。奇行を見られなくてよかったと息を吐く。
二日後、彼はまた会いに行くつもりだ。はるの父親を思いだし、目を細める。
「……なおっているといいな」
医学と薬学の知識は皆学んでいる。紅葉は自分から進んで、深い医の知識を身に付けていた。故に、自身の知識には自信ある。心配はしないが、はるを思うと彼は心配せずにいられなかった。
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