一之二 少女気絶

 悲鳴は学園中に響く。

 その声が教室にいる恵美子達の耳に届いた。悲鳴に皆は驚くが、恵美子はいち早く身体が動いた。駆け足で春花のいる場所へ向かう。幼い頃から彼女を見てきている恵美子。絶対に守ると決めており、いたっても居られず、思わず体が動いたのだろう。



 一方、玄関。春花の悲鳴に男性は驚いていた。


「なっ、い、いきなり、どうしたんだいっ!?」


 悲鳴を上げた本人は外に出ようと門へと逃走する。

 男性は気付いて、塀の向こうを見た。

 鼻歌を歌いながら、人が二輪車を転がしている。走っている速さは普通だが、ぶつかって怪我する可能性が高い。男性は素早く身体が動き、春花を追った。本人は我を忘れて走っている為、周りが見えていない。門の外に出た時、彼女は気付く。視界に二輪車が入ってきたとことに。


「うおっ!?」


 乗っている人も気付き、春花を避けようとハンドルを右にそらす。間に合わない。ぶつかる直前、春花の腕が引っ張られる。誰かの腕の中に閉じ込められた。

 ふんわりと桜の匂いに包まれる。安心する香りだ。見上げると、男性が優しそうに微笑んでいた。


「怪我はない?」


 春花は目を丸くする。がしゃんっと大きな音が道路に響いた。


「わっ、しまった。乗っている人の安全を確認しなきゃ!」


 男性は音で気付きに春花を置いて道路へ行く。

 彼が道路に行けば、ゴミ捨て場に見事に男性が突っ込んでいた。周りの人々が目の前に起きた有様に驚いている。男性はゴミ捨て場の方に駆け寄り、怪我がないか確認する。ゴミがクッションになった為、怪我はない。


「どうやら、怪我はないようだね。おーい、大丈夫ですか」


 聞いて、周りの人々は安心して、散り散りにその場を去った。男性は安心して、ゴミ捨て場にいる人物を再び見る。彼は呆然として、その人物を呼んだ。


「りゅ……うさん?」


 彼にとって意外な人物だったらしい。呼ばれた男は起き上がった。

 帽子は取れて地面に落ちている。黒髪は短く後ろに縛って、白い手袋をした手で頭を押さえていた。紺の袴に茶色い上着の着物を羽織って、その下に更に薄い赤の着物。熱くはないのか、赤のベスト、ワイシャツなど沢山着込んでいた。白い靴下に赤い紐の下駄。この男性も独特な格好をしている。


「いってて、よお。もみじくん」


 手を挙げて返事をする。目が少しつりあがっているが、なかなかの爽やかな人だ。手を差し出してゴミ捨て場から引き上げる。男性は立ち上がって、埃を払った。二人の男性はお互いに笑う。

 

「鼻歌を歌うなんて余裕だね。龍さん」

「思ったより早く仕事が終わったから、寄り道ついでに報告しに行く所だったんだ。もみじくん」

「わかったけど、ちゃんと前を見なよ」

「善処する」


 反省しながら、彼はゴミ捨て場にある二輪車を引き上げる。自分に付いたゴミを払い、友人に声をかけた。


「お前は女学校に何し来たんだ?」


 女学校は関係者以外の男性出入り禁止だ。問い掛けると彼は困ったように頭を掻いた。遠い目をして紅葉は笑い出し、風呂敷を見せた。


「あはは、これ」


 二輪車の男性は苦い顔をした。お弁当を持つ彼は諦めた目で顔を伏せる。


「上司のお手製弁当。奥さんの喜代子先生に届けに来た」

「はぁ、相変わらず、あの人は尻に引かれているよな」


 深い溜息を思わず吐き、思わず顔を片手で押さえる。

 説明しておこう。喜代子とは学校の中で有名な厳しい先生。春花達の担任の先生である。生徒達からは常に恐れられているが同時に生徒思いの優しい先生であり、二人は面識があるようだ。二輪車の彼は同情の視線を送りつつ、もみじくんという彼の肩に手を置く。


「お前も、貧乏くじを引いたな。今週のお弁当宅配当番」

「一葉の奴が容赦なくイカサマを仕掛けて、カードに勝つんだ。兎も角、ぼくはお弁当を喜代子先生に届けてくるよ」

「頑張れ」


 喜代子は彼らにとって、畏怖の対象でもある。基本的に彼らは宅配当番を引き受けたくない。彼は友人と別れ、女学校の中に戻った。





 恵美子は硬直している幼馴染みの肩を揺らす。


「春花。ねぇ、春花!」


 春花は思考停止させ、ゆさゆさと揺れるだけだ。恵美子は反応に困っていると男性が来る。彼が視界に入った途端、春花はふっと意識を途切れさせらしく倒れていく。

 春花を男性は受け止めた。


「大丈夫かい!?」


 彼は慌てて様子を窺う。倒れた本人は目を瞑って、微動もしない。男性は焦りながら、脈拍を計った。安定しており止まってない。ほっとして彼女をみる。


「よかった、精神的な圧力で気絶しただけだ。大丈夫、この子は少し休めば回復するよ」


 彼の言葉に恵美子は頭を下げる。


「本当にすみません。四月登校早々気絶をするとは思いませんでした」

「気にしないで。この子を医務室に運ぼう」


 恵美子では持てない。ご厚意に甘える。彼は気絶した春花を横抱きにした。




 恵美子が先生の荷物を持ち、校舎の廊下を二人は歩く。彼女の案内で彼は医務室の前に立つ。昔の保険室は様々な名称があり、ここでは医務室と統一する。


「失礼します。志村恵美子です。仲井先生はいらっしゃいませんか?」


 恵美子はノックをして医務室の戸を開けた。中に二つのベッドに、木造の机やら骨格標本などが飾られている。白衣姿で髭を生やした先生が顔を伏せて、何かを見ていた。学校医の背中に黒い靄が一瞬だけ見え、男性は目を丸くした。

 仲井は二人に気付く。


「……ああ、こんにちは。志村と?」

「すみません、いきなり失礼します。法泉紅葉と申します。学校関係者で喜代子先生の忘れ物を届けに来ました」


 彼は挨拶をすると仲井は「ああ、なるほど」と納得して頷く。時々、喜代子の元に来ることを知っているようだ。恵美子は紅葉を不思議に感じつつ、仲井に聞く。


「春花が気絶したので寝台を借りられませんか? 夜の時、あまりよく眠れなかったようで」

「そうか。寝不足はよくないな。どうぞ、寝かせてください」


 許可を得て、紅葉は春花を運びベッドに寝かせる。布団を掛けて、彼は優しく微笑んだ。恵美子は机にある写真立てに微笑む。


「奥さんと娘さんも良い笑顔ですね」

「ああ、もう妻と娘が土砂崩れで亡くなって十年になる。生きていれば、君達と一緒の歳で学校に通っていただろう」


 懐かしそうに笑う。その微笑みに二人は居た堪れなかった。しばらく黙り、仲井が明るく声をあげる。


「暗い話は良そう」


 恵美子は何か言おうと思ったが、言える雰囲気ではない。仲井は立ち上がった。


「しばらくベッドに寝かせた方が良いだろう。すまないが、志村。渡辺を見ていてくれ。私は用があって、少しの間医務室にはこられない」

「はい!」

 

 恵美子は喜んで返事をする。怖い先生の授業に出られないからだ。無論、仲井は見抜いている。


「小野先生にも、ちゃんと伝えておくからな」


 呆れながら見透かされて、彼女は固まる。仲井は可笑しそうに笑い、医務室を去った。仲井が去った後、恵美子は悔しそうな顔で拳を作る。


「あの先生の魔の手から、逃れると思ったのに!」


 普通の授業ならいい。喜代子の受け持つ授業は鬼、悪魔、魔王、不動明王とも囁かれる。悔しがるを見て、紅葉は明るく笑った。


「そっか、喜代子先生は相変わらず厳しいんだ」


 恵美子の言っていた先生を知っているようだ。彼女は忘れないうちに聞いておく。


「法泉さんでしたっけ。先生とはどのような関係ですか?」

「元教え子。この学校に先生が来る前にお世話になったんだ。僕は先生の身内の元で働いているんだ。それは、実家からの喜代子先生のお弁当だよ」

 

 にこやかに答えた。元教え子。納得いく理由でここに来ているようだ。女学校であるため、興味本意で入ろうとする輩も少なくない。男であるからか、恵美子は少し警戒していた。この人は悪人ではないようだ。彼は寝ている少女を見つめる。


「この子は春花ちゃんと言うのかい?」


 恵美子は頷き、彼は目を伏せて微笑する。


「そっか、彼女には怖がらせてごめんねと伝えておいて。僕は先生に荷物を届けるから」


 恵美子の持ってきた荷物を受け取る。一瞬だけ寝台の方を見て、紅葉と言う男性は医務室を出る。近くに空いている窓に顔を向け、吹いてくる風に彼は呟いた。

 早く来るんだと。





 怪しくも優しい人。恵美子の紅葉の印象であった。春花に興味があるのかと思いつつ、寝顔を見つめる。


「ねぇ、春花。貴女の朝に言っていた夢と関係があるの?」


 春花の頭を優しく撫で、床に足をつけた。


「そういえば、昔こんなふうに撫でたなぁ」


 恵美子は記憶を辿る。

 小さい頃、面倒を見ていた烏を優しく撫でていた。古い記憶だが、恵美子にとって思い出深い記憶。撫でていた手を見つめて、もう一度春花を撫でる。ベッドに両手を置き、顔を腕に埋めると、急に睡魔が襲って来た。あくびをして恵美子は数秒で寝息を立て始めた。




 ──医務室の隅に黒い靄が現われる。形が無く赤い目を持ち、じっと少女を見ていた。二人に纏わり付き、憑くように靄の中に呑み込んだ。

 窓ががらりと開く。窓辺には赤い花輪の下駄と白い足袋。外から桜の花びらが入り込む。

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