第5話 アープの何気ない初日の朝(2)




 水術と風術を使って寝ぐせを直し、身支度を整えたアープは部屋を出た。族長のときと比べると六畳程度しかない部屋は狭く感じたが、板張りなのが嬉しかった。加えて、誰も勝手に入ってきたりしないし監視の目もないというのは快適だった。


 そういうこともあってアープは上機嫌だったのだが、リビングに出ると更に気分が良くなった。板戸が外されていて、リビングとテラスが一体化し、庭が丸見えで解放感で溢れていた。


 アープは尻尾をぶんぶん振り回してテラスに駆け出す。いてもたってもいられない気分に流されるままに、木製の柵に掴まって遠吠えしようとした。


 が、ふと家の門の前で立ち尽くすデネブがいることに気づく。見るからに青褪めた顔でうつむいている。


(デネブ兄様?)


 アープは首を傾げた。あまり見たことのない表情をする兄に少し気後きおくれして声が掛けられない。


 どうしようと思っていると、デネブの方が先にアープに気づいた。引きった笑顔を向けて片手を上げ、「お、おはようアープ」と朝の挨拶をする。


 アープは「おはようございますー、デネブ兄様ー」と挨拶を返したが、それ以上のことは聞いてはいけないような気がした。だが飽くまでそういう気がしたというだけで、アープの口は既に動いていた。


「どうしたのですかー? ディーバラの臭いでも嗅いだのですかー?」


「移住して早々、郵便受けにそんな物が入れられている訳がないだろう」


 アープに歩み寄りながら、デネブは溜め息をく。手には紙。ミチルの置き土産の請求書である。請求額はきっかり五十万イェルク。金貨五十枚に当たる。


「貸衣装の請求書が入っていたんだが、聞いていた額より遥かに高いんだ」


いくらですかー?」


「五十万イェルク」


「ごっ――⁉」


 アープは目玉が飛び出そうになった。高いと言っても、せいぜいその五分の一以内の金額で済むと思っていたからだ。


 デネブはアープに請求書を見せた。そこには支払い期日も書かれていた。猶予は一週間。アープはステボで日にちを確認し、指折り数えてから泡を吹きそうになった。


「デ、デネブ兄様⁉ これはおかしいですよー⁉ アチシたちが田舎者だからって、だまされてるのかもしれませんよー⁉」


 デネブは目を回しそうになっているアープの目の前で請求書を裏返す。


 そこには『汚れ、生地きじいたみ等で請求額を増額させていただく場合がございますのでご了承ください。またそれらが顕著けんちょで、当店での貸し出しが不可能と判断された場合は、弁償していただくこととなりますのでご注意ください』と書いてあった。


 文字を読み進めるうちにアープの顔は段々と青くなっていき、やがてだらだらと汗が流れ始めた。怖ろしくてデネブの顔が見れなかった。


「つ、つまりー、アチシがやらかしちゃったってことですねー?」


「そういうことだな」


「ごめんなさいー」


 アープは素直に謝った。叱られるのは目に見えていたので覚悟も済ませていた。たとえそれで今日一日が潰れることになっとしても、それは目を開けて寝る時間が増えるだけだ。そうなった場合、今晩は眠れるかどうかという心配までしていた。


 だが、𠮟責しっせきの声は浴びせられることはなかった。デネブはただ溜め息をこぼしただけで、アープはそこから無力感のようなものしか感じ取れなかった。


 実際そうだった。デネブは自分の不甲斐なさを悔いていた。どうしてもっとアープの手綱をしっかりと握っていられなかったのか。これはすべて自分が招いたことだと自責の念に駆られていた。


 兄がそういう反応を見せたときは、本当に参っているのだということをアープは知っていた。いくらアープでも流石に心苦しく思った。


(まったく、アチシってやつはー……)


 寝不足から連想が続き、肌荒れの次に翌日のおっぱいの調子まで考えていた自分を恥じた。だが恥じただけで、反省はしていなかった。一時的にしたとしても、すぐに忘れてしまうことを知っているアープは無駄な努力はしないと心に決めていた。


「終わってしまったことはしょうがない。これは俺の分まで買い取り扱いになっているから、返却時にどれだけ減額してもらえるかだな。はぁ、どうせ買い取るなら綺麗なままにしておけば、ユーゴ殿にも披露ひろうできたんだがな」


 デネブはそう言って項垂うなだれたが、アープは雷に撃たれたような衝撃を受けてデネブの倍は項垂れた。もはや前屈のようになっている。そうなるほどにへこんでいた。自分が原因で借金を作ったことにではなく、ユーゴにドレス姿を見せられないという言葉がアープをそんな状態におちいらせた。


「しかし、一週間か。これは早々に稼がねばならんな……」


「そうですねー……。アチシを売るのだけは勘弁してくださいねー……」


「世界が滅んでもそんなことはあり得んよ。さあ、朝ごはんを食べよう」


 しょんぼりしたアープの頭を、デネブはわしゃわしゃと撫でた。


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