第9.5章 恋は魔法
7月1日金曜日。
ついこの間までは椿が成宮先輩を振ったという話題で学校中が賑わっていたが、気づけば夏の訪れとともに忘れ去られていた。
まるで夏を空っぽの状態で迎え入れるために断捨離をしているかのように。
——今年の夏は特別になりそう。
そんな予感にドクッと鼓動が高鳴る。
自分の恋も、誰かの恋も、青春といえる瞬間を夏に託すように。
「やっと終わった……」
ひたすら書き続けた結果、予定よりも1週間早く脚本が完成した。
解放感に満ちた大きな伸びをして一息つく。
ふと部屋の時計を見るとすでに日付が変わった3分後だった。
ここ数日の疲労が一気に襲いかかってきて、何も考えずにベッドの上に仰向けになる。
——演劇を見た椿はどんな顔をするだろうか。
彼女のことを考えただけで、この疲労さえ心地の良く感じる。
恋をしている自分がどうにも気恥ずかしく、耐えかねた俺は部屋の電気を消すことにした。
部屋が暗くなった途端に疲労が睡魔へと化けて意識が朦朧とする。
抗わずに俺は今日に別れを告げた。
——物語は15歳を迎えようやく人間の世界に行けるようになった人魚姫が船に乗っていた王子様に一目惚れするところから始まる。
その時、突然嵐が訪れ、船と王子様を襲う。
嵐に襲われた王子様は落船し、海へ落ちてしまうが人魚姫が王子様を助け、浜辺まで運ぶ。
しかし、目を覚ました王子様は修道院から来た女性に助けられたと勘違いしてしまう。
その様子を見た人魚姫は自分も人間になり、王子様のそばにいたいと思うようになる。
人魚姫は魔女のところへ行き、美しい声と引き換えに尻尾を人間の足にする薬を貰う。そして、魔女から王子様の愛を貰えなければ海の泡となって消えることを告げられる。
それでも人魚姫の意志は変わらず、人間の足で歩くたびに刺されるような苦痛を伴いながら王子様の元へと向かう。
しかし、王子様は隣国の姫様と結婚することになる。
2人の結婚式が迫ったある日、人魚姫は姉たちからナイフを貰う。
このナイフで王子様の胸を刺して殺せば海の泡にならずに済むと言われ、王子様の寝室に忍び込む。
しかし愛する王子様を殺すことができなかった。
けっきょく人魚姫は自らの死を選び、海に身を投げた。
その結果、風の精に生まれ変わり、人々に幸せを運ぶ。
——ガサ、ガサガサ
俺しかいない部屋の中から何か物音が聞こえて、目を擦りながら重たい瞼を開ける。
「ん、あ、碧?」
「あ、おはよう伊澄。起こしちゃった?」
「ここ俺の部屋だよね?」
「そうだね」
「……」
よかった、ここは俺の部屋で間違えないようだ。
……いや、そうじゃなくて、なぜいる。
「月曜日に英語のテストあるんだけどさ、自分の部屋だと集中できないじゃん?」
「勉強しないからな……」
「クソが!」
「……」
「そういえばこれなに? 人魚姫?」
謎の罵声を浴びせた後に、何事もなかったかのように碧が言う。
まだベッドの中にいる俺には「これ」と言われてもわからないが、おそらく1枚の紙に書いた脚本のプロットを見たのだろう。
「学園祭のやつ」
「え、今年はサボらないの!?」
「まぁ、そんなとこ」
「これも椿さんのお陰かぁ」
「……なんでだよ」
あの日以来、「椿」という名前にいちいち反応してしまう。
まるで心臓が椿を求めているようにドキドキする。
「また書くの?」
「いや、昨日終わった」
「そうじゃなくてさ」
「——」
「二度寝すんな!」
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