第8章 この気持ちの名前

 公園のベンチに座りながら、なぜか伊澄のことを考えている。

 大きく息を吸いながら顔ごと空へと向けると、綺麗な星空に唖然として、思わず息を吐くことを忘れてしまいそうになる。

 最近はどんよりした天気が続いていたこともあり、つい見入ってしまう。

 

 ——名前なんていうの?


 私が彼の名前を聞いた時のことをふと思い出した。

 間違えなく彼との会話で最も緊張した瞬間で、きっとこれからもあの時ほど緊張することはないだろうと思う。


 この一言にどれ程の勇気を振り絞ったことか。君は知る由もないんだろうな。

 まぁ、恥ずかしさのあまり俯きながら聞いたことだけは減点かもしれないけれど、それでも結果的には名前を聞けたことだし、あの時の自分には感謝しかない。

 「伊澄」と言う名前を聞いたとき、綺麗な名前だと思った。

 でも本人はあまり気に入っていない様子で話を聞いてあげたかったけどあの時の私にはそんなことできなかった。

 透き通る水のように綺麗な心を持つ君には、ピッタリだと思うんだけどな……

 これから少しでも君が自分の名前を気に入るようになってほしい。なんてそんなこと私に言われる筋合いないか。

 私は君が悩んでいたら、話くらいは聞いたあげられるようになりたいな。


 そして君の歌声、もの凄く綺麗だった。

 普段はカラオケに行かないって言うからあんなに歌が上手いなんて思いもしなかった。

 歌い始めから鳥肌が立ち、終わる頃には聞き入ってしまい、正直あまり覚えていないけどあの叙情的な時間は生まれて初めての感覚だった。

 絶対にまた一緒に行きたい。次はMrs. GREEN APPLEの「点描の唄」をリクエストしよう。

 それにしても、私って音痴だったんだな……

 何で今まで気が付かなかったんだろう。というより、何で誰も教えてくれなかったんだろう。

 そう思いながら、先程まで一緒にいた3人の顔を思い浮かべる。

 あの3人とは放課後に一度だけカラオケに行ったことがあって、その時はたしか……私が歌っている時だけ3人とも爆笑していた気がしないでもないな……

 やられた……

 そう確信して笑いが込み上がってくる。


 君が私のことを椿と呼ぶようになって、今までよりも関係が深まったようで嬉しかった。でも、今思うと少し複雑な気もする。

 髪型を変えてメガネからコンタクトにして私の前に現れた君は、本当に一瞬誰だかわからなかった。

 それに、あの日はどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。

 私が君の教室に行ったことがきっかけで嫌な思いをさせてしまったから。

 それなのに私はまた君に何もしてあげられなかった。

 でも君はそんな不安を吹き飛ばしてくれた。

 想像以上に顔が整っていて、にっと笑う君は曇天の中に雲の切れ間から差し込む太陽のようだった。

 そんなの反則。


 テストの点数で競ったときも私は本気で勝つつもりだったのに……

 夜通し勉強してそこそこ良い点数を取って、これなら負けないなんて思っていたのに君は軽く私の点数を超えてくる。

 勉強ができる陰なんかいっさい見せずに。

 いや、君のことだから、自分が頭良いだなんて思ってもいないんだろうな。

 私が勝ったら、命令という口実で「休日に遊びに行こう」って言うつもりだったのに。

 まぁ君は口実なんか無くても誘いに断らないんだけどね。

 電話で誘ったとき、私が緊張していただなんて君は思ってもいないんだろうな。


 星空と月明かりに微酔して、ここ数ヶ月のことを回顧していた。

 一息ついて私は思う。

 これが「恋」かと。

 これが人を好きになるということかと。

 先程まで登れそうになかった階段も、飛び越えられそうな感じがする。


 私は伊澄のことが好きだ。


——いつか伝えられたらいいな。

  その日が来るまで、この気持ちを大切に抱きしめておこう。



 

 



 

 


 



 


 

 

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