第16話 告白

「ここが、幸太郎の家」


 使沙はぼうっと見上げながら呟く。

 その使沙の視線の先には、黒い瓦屋根の一般的な二階建ての家屋があった。


「そんなにまじまじと見るほどの家でもないよ。似たような家は他にもあるんだし」


「そうだけど、そうじゃないよ。ここは幸太郎が住んでいる家。特別な家なんだよ」


 いいなあ、と使沙は羨望の眼差しで目の前の家屋を見据える。


「大げさだなあ」


 でも、使沙にとって実家というものは特別なところなのだろう。

 彼女の生い立ちは分からないけれど、幼いころに家族で住んでいた家があって、きっとその場所や時間を思い出しているのかもしれない。


 僕も、いつかはそう思える日が来るのかな。家や両親に心から感謝して、特別だと言える日が。

 

 それから幸太郎は使沙を連れて玄関扉を潜る。

 幸太郎が「ただいま」と言いながら土間で靴を脱いでいると、「お邪魔します!」と使沙は幸太郎の後ろから元気な声を上げた。


 すると普段、幸太郎が帰宅しても台所で返事をするだけだった母が、わざわざ玄関を覗きに来た。おそらく聞きなれない声を耳にして確かめに来たのだろう。


「おかえり、幸太郎……え、その子」


 母はハッとした顔で使沙を見る。その目は驚きと焦りが入り混じっているようだった。


「この子……僕の友達」


「お、お邪魔します!」


 使沙は緊張した表情でそう言ってぺこりと頭を下げた。


「え、ええ」


 今まで友人を家に招いたことのない息子が、急に異性の友人を連れてきたことに驚いたのだろうと母の顔を見て幸太郎は思った。

 そんなに焦らなくても段階をすっ飛ばしたりしないから。幸太郎は母にそう訴えるような視線を送り、その横をすり抜けた。


「僕の部屋、二階だから。いこう、使沙」


 幸太郎はそう言って足早に階段を駆け上がる。


「う、うん」


 使沙はそう答え、幸太郎の母に会釈をすると幸太郎の後を追った。


 背後に母からの刺すような視線を感じる。これから起こる得る犯罪を未然に防がねばとも感じられる視線だ。そんなに僕って信用がないのか、と幸太郎は視線に気付かないふりをして部屋に入っていった。


「優しそうなお母さんだね」


 何を思ったのか、使沙は笑顔で幸太郎に告げる。もしかしたら、母のあの視線に気づかなかったのかもしれないなと思った。


「そうかな」


「うん!」


 お母さんか、いいなあ――さみしそうな顔で使沙はそう呟く。


 今は亡き母の姿でも思い出しているのだろうか、と幸太郎は使沙の顔を見つめた。

 実際、使沙の家庭事情をまったく知らないため、単なる憶測でしかなかったが。


「コータロー、お部屋綺麗だねえ」


 耳に届いた明るい声色にハッとすると、使沙は忙しそうに部屋の中を見回していた。

 使沙のその様子にさっきの話題などすっかり忘れてしまったのだろうと、幸太郎は笑う。


「たんに物が少ないだけだよ」


 幸太郎の部屋はベッドと勉強机、本棚があるだけの質素な場所だった。

 患う病の重さから、何があっても良いようにと幸太郎は意識的に物を増やさない習慣がついていた。


 残される方が圧倒的に辛いことは分かっている。

 いくら父や母が自分に興味がなくとも、遺品を見ると少しくらい感傷に浸ってしまうかもしれない。もしもそうなった時、悲しみに打ちひしがれるのではなく、前を向いていてほしいと幸太郎は思っているのだ。


「本がいっぱいだ……そういえば、入院してた時もいつも何か読んでたね」


 本棚の前で使沙は呆然と佇んでいた。

 物は残さない主義だが、ライフワークである読書を実行するためには本がいる。棚に並べられている数十冊の文庫本は、幸太郎が残している唯一の物だった。


「まあね。友達がいなくても、本があれば一人じゃないように思うんだ。学生時代に青春を求める人は多くいると思うけど、本の中でも青春ってできると思うし、実際に自分が傷ついたりしないから楽だよね」


「へえ。そうなんだ」


 感心しながら頷く使沙。


「でも、私とはお友達になってくれたね」


 使沙はそう言いながら笑顔で振り向く。

 栗色の髪がさらりと動き、口角が上がっている唇はいつものようにぷるんとして艶やかだった。


「う、うん……前に言ったけど、使沙は、僕の特別だから」


「えへへ、ありがとう。でも、コータローも私の特別だよ」


 そう言って使沙はベッドにぽすんと座る。「ふかふかするぅ」と乗馬でもするかのように軽く弾んでいた。


 そんな無邪気な姿を幸太郎は愛おしく思う。


 僕と使沙はこれからどうなっていくのだろう。僕はどうなりたいと思っているのだろう。


 ――使沙の言う特別って、僕と同じ特別なのか?


「コータロー?」


 ぼうっと佇む幸太郎を心配したのか、使沙は幸太郎の目の前に立ち、顔を覗き込んでいた。黒く大きな瞳、長いまつげ。ぷるんとした唇。白い肌は透き通るように美しかった。


 幸太郎は使沙に手を伸ばし、そっと抱きしめる。使沙は驚いた顔をしてから、幸太郎の背中をぽんぽんと二回叩いた。


「どうしたの」使沙は優しく尋ねる。


 本当に僕はどうしてしまったんだろう。

 幸太郎はそう思いながら使沙の体温を感じ、呼吸を感じ、優しく温かな鼓動を感じた。


 僕は変わりたい。今のままじゃなく、使沙にとってもっと特別な存在に――。


「使沙……僕、使沙が好きなんだ。ずっとそばにいてほしい。君がいないと、僕は」


「そっか……ありがとう。でも。まだ、ダメなんだ。もう少し……もう少ししたら、ずっと一緒にいられるよ。だからそれまで待っていてくれると嬉しいな」


 使沙は小さな子供をあやすような声でそう言った。


 その言葉に幸太郎は抱きしめていた腕の力を緩める。

 それからすぐに幸太郎は使沙の身体から離れ、少し気まずい空気が漂ったまま時間は過ぎていったのだった。




「あ、そろそろ帰らないと」


 使沙は寝転がっていたベッドから身体を起こし、時計に視線を向けた。


「もうこんな時間かあ」


「着くころには真っ暗だろ? 危ないから家まで送るよ」と幸太郎は勉強机から視線を外しながら使沙を見遣る。


 すると、使沙は首を横に振り、「お迎えが来てるから大丈夫!」と答えた。ちょうどそのタイミングで玄関のチャイムが鳴り、下の階から「袋井先生が来たわよ」と母の声がする。


「残念……じゃあ、また明日学校で」


「うん!」


 それから使沙は袋井と共に宮地家を後にした。玄関の扉が閉じたのと同時に、「ほどほどにしておきなさいよ」と背後から母の冷たい声が刺さる。


 幸太郎はその言葉にムッとして母を睨もうと振り返るが、母はすでに台所に向かっており、その顔を見ることはできなかった。


 ほどほどにって何なんだよ。


 幸太郎は苛立ったまま部屋に戻り、扉をぴしゃりと閉めると、その扉に背中を預けてしゃがみこんだ。


「母さんに何が分かる。僕がどう想って、どう行動しようと勝手だろ……」


 部屋にはまだかすかに使沙の残り香が漂っていた。

 それからふいに使沙に言われた言葉を思い出す幸太郎。


『まだダメなんだ――』


 そう言われたとき、頭が真っ白になった。


 僕の特別と使沙の特別の意味は違う。その事実を思い知ったからだ。


 そして同時に、気付いてしまったことがある。自分はどうしようもなく、天江使沙という少女のことを好きで好きでたまらないということ。

 彼女の特別と自分の特別が違ったとしても、自分の特別はそう言うことなんだと、幸太郎はしっかりと認識したのだった。


 幸太郎は自分の頬に熱いものが伝っているのを感じる。


「僕、使沙のことがこんなに、好きだったんだな」


 拭っても拭ってもとめどなく流れ続けた。

 決壊したダムの流れが止められないのは、止めようとする手よりも水流の勢いが上回ってしまっているからなんだな。


「会いたいよ、使沙」

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