第11話 距離感
七月後半――幸太郎が退院して、二週間が経っていた。
教室の窓の外からはようやく地上に上がって来られた喜びを表すかのように、セミたちが大合唱をしている。すっかり夏だなあと思いながら、幸太郎は窓の外をぼうっと見つめた。
「それでは明日からの夏休みは事故や病気に気をつけて過ごしてください。特に、最近は自動車の信号無視が原因の事故が多発しているので、信号を渡る際には自分が大丈夫だと思っていても細心の注意を払うこと。良いですね」
「はーい」と誰かが適当に返事をすると、担任教師は教室を出て行った。
「帰ろうぜ!」
「どっか寄ってく?」
「ファミレスでご飯とかどうよ」
「いこいこ!」
クラスメイトたちは各々で予定があるようで、楽しそうな顔をして教室を出て行った。
僕も友達がいたら、あんな風になれただろうか。幸太郎はそんなことを思いながら、扉の方を見遣る。
「宮地も良い夏休みにしろよー」
背後から唐突にそう言われ、幸太郎はハッと振り返った。そこには最近少しずつ話すようになったクラスメイトの佐藤がおり、笑顔を向けている。
「あ、ありがとう。佐藤君も、ね」
「ああ! じゃあ、また新学期に」
そう言って佐藤は教室を出ていった。
「新学期に、か。こんなこと初めてだ」
幸太郎は自分にもいつか友人ができるかもしれないという期待に胸を躍らせながら、立ち上がり教室をあとにした。
幸太郎は廊下を少し進んだところで、「使沙の顔を見てから帰ろうかな」と体の向きを変えて、保健室に向かう。
終業式だったこの日はいつものような昼休みはなかった。そのため、使沙のところへ行く理由はないのだが、どうしても夏休み前に彼女の顔を見たいと幸太郎は思ったのだった。
廊下を進む途中、幸太郎はふと考える。使沙は夏休みの間はどうするのだろう、と。
「さすがに保健室にはこないと思うけど……袋井先生の家でずっと過ごすのかな」
今まで考えもしないことだったが、使沙の親はどこにいるのだろうと唐突に疑問が湧いた。
実はもう亡くなっていて、天涯孤独のところを袋井先生が救ったのだろうか。そもそも袋井先生と使沙の関係って?
「うーん。まあ、それを知っても知らなくても、使沙は使沙であることに変わりはないよな」
そして幸太郎が保健室の前に着き、入ろうと扉を引いてみたが、扉はびくともしなかった。「使沙いる?」と扉を叩いて呼びかけても中から返答はない。
「帰っちゃったのか……残念。夏休みにどこか一緒に行けたらいいなって思ったのにな」
それから幸太郎はため息を吐き、保健室を後にしたのだった。
幸太郎は夕食を終え、いつもの時間に机に着いた。すると、そのすぐ後に隣の家の部屋に明かりがともり、窓から奈々子が顔を出す。今日は制服ではなく、上下ジャージに首からタオル姿のいかにも運動部という格好だった。
「よっ! 一学期お疲れ様」
「奈々子もな。今日も部活?」
「そうだよ! 今年の夏こそは県大会に行くんだって、みんな気合入っててね! 今日もいい汗かいてきたんだ」と奈々子はタオルを右手でつまみ、ひらひらとする。
「そっか。それはお疲れさん」
運動をして汗をかくという感覚を幸太郎は知らない。そのため、こんな真夏に部活をする奈々子たち運動部は大変なんだろうなと漠然と思っていた。
「あ、ねえ。幸太郎は夏休み、どうするの? 何か予定とかある?」
「あいにく何も。奈々子みたいに部活をやってるわけじゃないし、友達もいないからな。おとなしく、家で勉強頑張るよ」
幸太郎は肩をすくめて答えた。
「そっかあ。予定ないのかー。それは可哀そうだ」
うんうんと頷きながら奈々子は言った。自分がリア充であることを自慢したいのか、と幸太郎は一瞬だけ眉間に皺を寄せる。
「じゃあさ! 私とどこか行こうよ! 買い物とか、海とかもいいなあ」
「部活漬けじゃないのか?」
「少しくらい時間作れるって! いいじゃん、行こうよ!!」
可哀そうな自分を憐れんでの提案なんだろうなと幸太郎は思い、なんだかいい気はしなかった。わざわざ時間を作ってやってもいいと言われるのも
「別にいいよ。僕に割く時間なんてもったいないだろ。奈々子は奈々子のしたいことすればいい。僕も僕がやりたいことをやるから」
あえて本音は口にしない。母へ伝えるときのように、幸太郎は遠巻きに奈々子へ伝えた。
変わろうって決意したのに、結局すぐには変われないものだな――と幸太郎は嘆息する。
「わ、私もやりたくてやってるんだって! 私だってもっと幸太郎と一緒にいたいのに――なんで伝わらないわけ!!」
そう言いながら奈々子は
実際の奈々子との距離はこの窓と窓との間だけ。しかし幸太郎は今、奈々子との距離を果てしなく遠く感じていた。
いつから奈々子とこんな距離が生まれてしまったのだろう――。
「想いが伝わらないのはお互い様だよ。今日はもういい? 部活で疲れたでしょ。明日に備えて早く寝なよ。自由に動く体があるんだから、大切にしないと」
幸太郎の言葉を聞いた奈々子は唇を噛む。それから肩を落とすと、「そうだね。おやすみ」と言ってカーテンをそっと閉めた。
それから幸太郎は奈々子の部屋から自分の机に視線を移動して、小さくため息を吐く。
「なんか最近おかしいんだよな、奈々子」
幼馴染として程よい距離感を保ってきたつもりでいた幸太郎だったが、最近の奈々子はその距離感を変えようとしているように感じていた。
奈々子は他の誰よりも近い存在で、彼女の優しさに幸太郎は何度か救われたこともある。これまでの感覚こそが自分たちにとってのベストだとも幸太郎は思っていたのだ。
でも最近の奈々子は明らかに様子がおかしい。学校での話をすると明らかに不機嫌な顔をする時があったり、何の前触れもなく急にどこかへ行こうと提案してきたり――。
「僕は今まで通り、変わらずにありたいのに」
幸太郎が頭を抱えていると突然、使沙の顔が頭に浮かんだ。
こういう時、使沙ならそっと抱きしめてくれそうだな――と時々きく彼女の鼓動も思い出す。優しくて温かい、親近感を覚える不思議な音を。
「使沙に会いたい……いつもみたいに安心させてほしいのに」
そして幸太郎は長い夏休みの始まりを迎えた。
使沙に会えない夏休み――幸太郎の心は、その始まりから不安でいっぱいになっていた。
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