第10話 変化

 幸太郎が久しぶりに教室へ顔を出すと、そこにいたクラスメイトたちはぎょっとした顔で幸太郎を見つめた。


 その視線に気づきながらも幸太郎は何食わぬ顔で着席する。ちらりと一つの席を見つめ、その席が空であることを確認して視線を逸らす。


 獄谷は本当に停学中になんだな――。


「あ、あの! 宮地君」


 クラス委員長の鈴木がおずおずと幸太郎に声をかけてきた。

 幸太郎は「何?」と淡白な返答する。


「えっと……身体はもう大丈夫?」


 その問いに幸太郎は目を丸くした。

 今まで体調不良で急に休んでも、誰からも声なんて掛けられたことはない。こうして心配されることも。

 鈴木のその変化に、幸太郎は心底驚愕していたのだった。


「だ、大丈夫……その、迷惑かけてすみませんでした」


 そう答えてから、自分がなぜか敬語を使ってしまったことに気付き、幸太郎は顔が赤くした。コミュ障にもほどがあるぞ! と内心で叫ぶ。


「よかったあ。みんなもあの後心配していたんだよ。いつも見てるだけで、あの時に動けていたらもっと違ったんじゃないかって」


 鈴木は少し申し訳なさそうな顔でそう言った。


「そう、なんだ」


 そういえば、突き飛ばされたときに彼が寄り添ってくれたっけ。きっと獄谷のことが怖かっただろうに――幸太郎は発作の前の記憶を思い出す。


 彼は彼なりに出来ることをしてくれていたのかもしれないのに、自分が可愛いのは当たり前だと心の中で罵ったことが少し恥ずかしく思えた。


「あの……あの時は、ありがとう。本当は怖いのに、励まそうとしてくれた、だろ」


 幸太郎は緊張で声を震わせながら、普段は言えない素直な気持ちを口にした。


「ううん。それでも結局怖くて、宮地君はあんなことになった。本当にすまない」


 鈴木はそう言って頭を下げる。


 今までクラスメイトなんて、同年代の奴らなんてどうだっていいと思っていた。僕へはれ物を見るような目を向けられているように感じていたからだ。


 しかし、こうして話をちゃんと聞いてみて、自分が勘違いをしていたということに幸太郎は気付く。


 彼らも彼らなりの想いがあり、行動をしているのだと。これまでのことを許そうとかそういうことではなく、これからはもっと友好的に関わっていけたらいいなと幸太郎は思ったのだった。


「僕も今までごめん。それと、心配してくれてありがとう」


 そして鈴木は顔を上げてニッと笑うと、「これからまたよろしくね」と言って席に戻っていく。

 幸太郎はその背中を見ながら、これまでクラスメイトに感じたことのない温かいものが胸の中に満たされていくような気がしていた。


 正直、あの発作のあとに教室へ行かなければならないということが億劫だった。クラスメイトからどんな目を向けられるのだろうと心配していたからだ。


 けれど、その考えは幸太郎の杞憂に終わる。鈴木も他のクラスメイトたちは幸太郎が思っているようなことを考えておらず、ただどう声を掛けたらいいのかと困っていただけのことだったからだ。


 幸太郎は授業の準備をしながら、嬉しさで顔を綻ばせた。


「あとで使沙にも話してやろう」


 そして幸太郎は使沙の授業の方がわかりやすいなあと内心で思いながら、午前の授業を終えたのだった。




 昼休み、幸太郎は保健室に向かった。


「使沙、いるか?」


「あ! やっときた、コータロー!!」


 幸太郎が保健室に入ると、使沙は満面の笑みを浮かべながら駆け寄った。

 病院で会っていた時とは違い、今日の使沙は学校指定の制服を着用している。今までブレザーを着ていたはずなのに、カッターシャツにカーディガンという装いを見て、もうすぐ夏なんだなと思った。


「弁当、食べちゃったか?」


「ううん、コータローと食べたくて待ってた! こっちこっち」


 使沙に手を引かれ、幸太郎は保健室の中央にある長机につく。


「あれ、袋井先生は?」


「ちょっと用があるからって出て行っちゃった。午後も戻らないからって」


「へえ。じゃあ、午後は寂しくなるな」


 体育と昼休みの時にしか幸太郎はこの保健室を訪れないため、一日の大半を使沙は袋井と過ごしている。袋井と二人でどんなことをしているのかは知らないが、おそらく使沙一人では退屈してしまうのではないかと幸太郎は思ったのだった。


「私も教室行こうかなー。コータローと一緒にいたいから」


 使沙は弁当を包む袋を開けながら呟く。


「す、好きにすればいいんじゃない? 決めるのは使沙だし」


 顔を反らしながら幸太郎はそう言った。

 一緒にいたい、という言葉を違う意味で捉えそうになる幸太郎だったが、小さく首を振ってなんとか自制心を保つ。

 きっと仲の良い友人としてって意味なんだ、と。


「あーでも。教室に行くと、幸太郎とお話ししにくいよね。クラスの子たちが珍しいもの見たさで、寄ってくるからなあ」


 珍しくため息交じりでそう言う使沙に、幸太郎は首を傾げた。


「嫌なの? 前は楽しそうに話してたじゃん」


「うーん。嫌ってわけじゃないけど、コータローが遠くに行っちゃうから、寂しいっていうか。私はコータローとお話したいのにってこと!」


 使沙はそう言って、ミニハンバーグをぱくりと口に入れる。


 そんな使沙を幸太郎はぼうっと見つめた。

 使沙は僕を、僕のことをちゃんと見てくれる。それがたまらなく嬉しいのだ。


「じゃあ教室行ったら僕がずっと使沙の隣にいるよ。絶対に離れない。遠くにも行かない。約束する」


「うん、絶対に約束ね! じゃあ、午後は教室行く!」


 そして弁当を食べ終え、午後の授業が始まる少し前に幸太郎たちは保健室を出た。




 廊下を歩きながら、浮かない顔をしていた幸太郎。


 ただ教室に戻るだけのことなのだが、なぜか保健室に向かう時よりも足が重く感じたのだ。スポーツ選手が己の身体に負荷をかけるため、手足へ重りをつけているのと似たような感覚だった。


 さっきはあんな約束をしたけれど、本当にできるだろうか。使沙はなんだかんだで僕の元を離れていってしまうのではないか――。


 幸太郎がちらりと隣を見遣ると、使沙は軽やかな足取りで歩いている。


 栗色の髪、長いまつげにぷるんとした唇。細くて白い手足。まじまじと見ると、やはり使沙は美少女なんだと思わされた。

 使沙と一緒に教室に入ったら、やっぱり獄谷に言われたように冷やかされるのか、と幸太郎は不安を覚える。


 せっかく彼らへの見方が変わってきたのに、また嫌悪感を抱いてしまうのだろうか――。


「コータロー」


 使沙から唐突に声を掛けられ、幸太郎はハッとする。


「どうした?」


「楽しみだね、教室!」


 使沙はそう言ってぷるんとした唇を引き上げて微笑んだ。


「――ああ」


 幸太郎は使沙と同じように微笑み、抱いていた不安を放棄する。

 微笑むだけで心を救える彼女は、やはり本物の『天使』なのではないかと思った。


 顔を正面に向け、幸太郎は使沙と並んで教室に向かっていく。先ほどまで感じていた重さはなく、とても軽やかな足取りだった。


 一度、使沙とは教室で会っているし、獄谷の件もあったからクラスメイトたちが僕らに危害を加えるようなことはしないだろう。

 仮に何を言われても、堂々としていればいいんだ――。


 そして教室前に着いた幸太郎は、使沙と共に教室に入る。幸太郎たちを見たクラスメイトたちは一瞬だけぎょっとした顔をしたが、すぐに何事もなかったように中断した雑談などを再開していた。


 その光景を少し異様に思いながらも、気を遣われたんだと思うことでそれ以上の勘繰りはやめた。


「コータロー、これから何の授業なの?」


「現国だよ。教科書はある?」


「うん! ロッカーに入ってる!」


 それから使沙は自分のロッカーから教科書やノートを取り出し、席に着く。その後、すぐにチャイムが鳴って現代国語の担当教師が教室にやってきた。その教師は使沙が席にいることに驚いている様子だったが、何かを言うでもなく、そのまま授業を始めたのだった。




 以前は使沙がいると積極的に関わろうとしていたクラスメイトや教師たちが、この日はほとんど関わることなく、むしろ普通の生徒だと思わせるように自然な接し方をしていた。


 なぜだろう――という疑問はある。しかし、使沙がこれから教室で授業を受けやすいように配慮をしてくれているのかもしれないと幸太郎は思った。


 みんなも使沙を受け入れようと、認めようとしている。

 僕も使沙もここにいてもいいんだ――。


 ずっと自分の気持ちが周囲の人へ伝わらないことにモヤモヤしていた幸太郎だったが、その人はその人なりに受け入れようとしてくれていることに気付いた。


 本当に分かっていないのは僕の方だったってことか――幸太郎は今までの傲慢な自分の態度を恥じる。


 そして、これからは彼らのように変わろうと決意したのだった。

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