第9話 病室での日常

 入院生活三日目。朝九時頃、幸太郎の母は様子を見に幸太郎の病室へやってきた。


「おはよう幸太郎。今日も着替えを持って来たわよー」


 母はそう言って、ベッドの対面にあるチェストの中に持ってきた幸太郎の着替えをしまっていく。


 今日も母の服装はパートタイマーとして働いている清掃会社のグレーの制服だ。髪は雑に一本で束ねられている。家事を済ませてから急いできてくれたのだろうと、幸太郎は察した。


 どうやら母は、入院の手続きの時に来られなかったことを気にしているらしい。少しでもその穴を埋めようと、入院することになった翌日から仕事へ行く前に病室に顔を出すようになったのだ。


 入院手続きのすべてを袋井に任せたうえに、その日に顔を出してくれなかったことを少しは寂しく思っていたが、実際にこうしてない時間をわざわざない時間を捻出してもらうのは、正直こころが痛んだ。


「別に、無理して毎日来てくれなくてもいいんだけど」


 幸太郎はぶっきらぼうに言う。

 本当はこんなことを言いたいんじゃないと、チクリと胸が痛んだ。


「幸太郎は気にしなくていいのよ。母さんが来たくて来てるんだから」


 振り返って笑いながら答える母の顔が、幸太郎からはなんだか疲れているように見えていた。


 僕のせい、か――幸太郎の背に罪悪感が重くのしかかる。


 父は昔から仕事人間で家事の手伝いはほとんどしない。平日はもちろんのこと、休日も関係なく仕事へ行くような人なのだ。


 それだけ父が働いているおかげで貧しい暮らしをしているわけではなかったが、幸太郎の治療費はそれなりにかかるものだった。

 そのため、少しでも治療費の足しにしようと母もパートタイマーとして働いている。


 つまり母は、一人で家事をこなしながらパートタイマーとして働き、病気である幸太郎の世話をしているということだ。


 中途半端な自分の存在が母を苦しめているような気がして、その顔を見るのが日に日に辛く感じる。母の愛情を分からなくもなかったが、このままでは自分は罪悪感に潰されてしまいそうだと幸太郎は思っていた。


 そう思っていても幸太郎は「来るな」と母に強くは言えず、遠回しに伝えてみるも、それはそれでなかなか伝わっていないようだった。


 僕が病気でさえなければ、母さんだってもっと自由なのにね――。

 幸太郎は母に聞こえないよう小さくため息を吐いた。


「あ、そうだ。父さんも心配していたわ。見舞いに来れなくてごめんって」


 チェストに着替えをしまい終えた母は、ベッド横のパイプ椅子に腰を降ろしながら申し訳なさそうに言った。


 これだ! と思った幸太郎は、聞いた母が不快にならないようにと自然さを装って言う。


「……じゃあ父さんにも悪いからさ、母さんもしばらく来るのをやめてみたらいいんじゃない? 母さんだけが見舞いに来ているみたいで、父さんは後ろめたく思ってるんだよ、きっと!」


 これならば母さんも納得するだろう、と幸太郎は期待していた。しかし――


「そうもいかないでしょう? 母さんは幸太郎の母さんなんだから、心配させてよね」


 母は思慮深い笑顔でそう答えた。


 ――分かってもらえないのか。遠回しに言っても、別の意味に想いをのせても。

 そんなことを思うと、母の笑顔が急に憎らしく感じた。


 僕を利用して良い母親に見られたいだけなんじゃないのか。

 良い母親像を押し付けたいだけなんじゃないのか。


 膨らんだ憎悪の感情が幸太郎の胸を圧迫していく。

 息苦しく、唾をのみ込むことさえ辛かった。

 発作ではない胸の痛みを母にばれないよう、幸太郎は必死に耐える。


 それから母は痛みに耐える幸太郎に気付かないまま、家であった他愛ない話を幸太郎に話していた。


「――ああ、もうこんな時間か。じゃあ、母さんはそろそろ行くわね。また明日来るわ」


 母はそう言って立ち上がり、いそいそと幸太郎の病室を出ていった。


「はあ」と大きな息を吐くと、幸太郎は自分の胸を押さえた。

 するとその場に一時間もいなかったはずの母の残り香を感じ、思わず顔をしかめる。


「だから、もう来なくていいって言ってるのに……」


「コータロー? 怖い顔してるよ?」


 ハッとしてその声の方に顔をむけると、首を傾げて心配そうな顔をしている使沙の姿があった。幸太郎は慌てて、笑顔を作る。


「ああ、ごめん。おはよう使沙」


「うん! おはよー」


 使沙はベッドの横にあるパイプ椅子に腰かけた。


 母が座っていた時は胸を締め付けられそうな圧迫があったのに、使沙がいるだけで心がほっとするような感じがする。幸太郎の口角は自然に上がっていた。


「えへへ、コータロー嬉しそう」使沙はそう言って幸太郎の顔を覗き込む。


 見透かされたようで恥ずかしくなった幸太郎は「そ、そうかな……」と使沙から顔を背けた。そんな幸太郎を見た使沙はクスクスと楽しそうに笑う。


 使沙には今の僕ってどう映っているんだろうな――。

 幸太郎はそんなことを思いながら、ゆっくりと使沙の方へ向き直った。目が合うと、使沙はぷるんとした唇を引き上げ、ニコッと微笑む。

 その時、窓から差した陽光が使沙の栗色の髪に降り注ぎ、その髪を金色に染めた。


 僕の目に映る君は、どこにいても『天使』みたいだ――。


 幸太郎はぼうっと使沙を見つめ、そんなことを思う。

 

 しばらく見つめ合っていると、ニコニコしていた使沙が急にハッとした顔をした。


「お喋りしてる場合じゃないよ!」


 使沙はそう言って、コホンと咳ばらいをすると真面目な顔をつくる。


「それでは! 本日もお勉強を開始します!」


「はい」


 それから幸太郎はベッド横の棚に置いてあったノートと教科書を机の上で開く。使沙は少しだけパイプ椅子を持ちあげて、ベッドに近寄った。


「よろしくお願いします」幸太郎が軽く頭を下げてそう言うと、「よろしくされます!」と使沙もぺこりと頭を下げる。そしてマンツーマン授業は始まったのだった。


 幸太郎が分からないことを問うたびに、使沙は懇切丁寧に説明していた。その説明はどれもとてもわかりやすく、教室で授業を受けていた時間は何だったのかと思ってしまうほど。

 そして難しい問題を解くたびに使沙は幸太郎の頭を撫でるため、問題を解き進めるごとに幸太郎の勉強へのモチベーションは上がり続けていった。

 使沙はただ頭が良いだけじゃなく、人に教える才能もあるんだなあと幸太郎は素直に感心する。


「――はい。今日はここまでです。何か質問は?」


「途中で訊いたこと以外は特に」


「コータローは優秀だねぇ。じゃあ、ご褒美のぎゅうを上げます!」


 使沙はそう言って、幸太郎の身体を抱き寄せる。


 いつもきいている使沙の心臓の鼓動の音。優しくて温かく、親近感を覚える不思議な音――。


「コータロー」


 使沙は幸太郎を抱きしめたまま言った。


「何?」


「私の心臓の音、好き?」


「うん」


「そっか。よかった」


 授業の終わりはいつも使沙の鼓動を聞く。

 幸太郎はこの時間が好きだった。




 そして数日後。病室に顔を出す母に罪悪感を抱く日々と、使沙と過ごす幸せな時間は終わりを迎え、幸太郎はいつもの日常へ戻って行ったのだった。

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