第7話 彼女がもたらした影響

 使沙が教室に来たの日の晩。幸太郎はいつものように奈々子と夜の雑談をしていた。


「――もしかして、その天江さんと会うために保健室へ行ってるの? 毎日お昼休みにさ」


 奈々子はどこで聞きつけたのか、使沙のことを何度もしつこく尋ねてくる。

 眉間に皺を寄せ、幸太郎はため息を吐いた。


「だから、どこでそんな噂を聞くんだよ……」


「実際はどうなの?」


「まあ、たぶんそうなんだと思うよ」


「たぶんって何?」語句を強めて奈々子は言った。


 あまりにもしつこい奈々子に幸太郎はムッとする。


「というか、なんでそんなにしつこく聞いてくるわけ? 奈々子、いつも言ってるじゃないか。一人じゃ寂しいだろって。僕が誰かと一緒に居ることをむしろもっと喜んでくれてもいいんじゃないの?」


 幸太郎がそう言うと、奈々子は明らかに狼狽した。

 いつもと違う奈々子に、幸太郎はモヤモヤとした気持ちになる。


 奈々子の言いたいことも考えていることもよく分からない。僕にどうしてほしいのか。どうなってほしいと思っているのか。

 僕がそんなことを考えているなんて、奈々子はつゆほども思っていないだろうが。


「そうだけど……そうじゃなくて! もう、いいよ。今日はもう終わり。じゃあおやすみっ」


 奈々子はそう言ってから窓をぴしゃりと閉める。いつもならカーテンを閉めた後に手を振ってくれるのだが、今日はそれもなかった。


「何なんだよ」


 幸太郎は不満そうな顔をして呟き、机に向かう。いくら奈々子の様子がいつもと違っても、学校からの課題はいつも通りにあるので幸太郎はいつものように課題を進めることにしたのだ。


 課題に向かいながら奈々子の異変を気に留めていた幸太郎だったが、集中して取り組んでいるうちにそのことをすっかりと忘れていた。

 明日になれば元通りになる――そんな自信があったからかもしれない。


 そうして幸太郎は、この日を終えたのだった。




 翌日。幸太郎が教室に行くと、いつもよりクラス中に緊張感が走っているような気がした。その根源は、机でしかめ面のまま座っている獄谷のせいだろうと察し、今日は絡まれませんようにと静かに祈る。


 しかし、そんな願いを神様が聞き届けてくれるはずもなく、三限の体育の授業前に事件は起こった。


 いつものように保健室に行こうと幸太郎は席を立ち上がる。すると、


「待てよ。またサボりか?」


 獄谷が毎度のように幸太郎が絡んできた。無視をしてやり過ごそうとするも、左の肩をガシッと掴まれ、それ以上の進行は許されない。


「なんだよ」


 幸太郎が獄谷の方を見ると、獄谷は凄んだまま幸太郎を睨み返す。


「女に会いに行くためにサボるのか?」


「はあ?」


「天江に会いに行く為だろ」


 何言ってんだ、こいつ――と内心で舌打ちする幸太郎。


 僕が体育の時間、保健室で過ごさなきゃならない原因を作ったのはお前だろ。それを使沙に会うためだって?


「ふざけんな……ふざけんなふざけんなふざけんな! お前のせいだろ! 僕だって、保健室に行きたくて行ってるわけじゃないんだ! お前がうるさいから行く羽目になってんだろ! 使沙のせいにするなっ!!」


「うっせぇんだよ!」


 獄谷は幸太郎を突き飛ばす。その拍子に幸太郎は机の角に背中をぶつけ、床に倒れ込んだ。


「お前、自分が病気だからみんなに優しくされてるってわかんねえのか! いつまでも周りに甘えてんじゃねえ!!」


 僕は、甘えてなんか――幸太郎は倒れたまま、拳をぎゅっと握る。


 自分でできることはやってきた。やってはいけないこと以外はできる限界まで頑張ってきたつもりだった。


 それを、甘えている? 何もわかっていないくせに、勝手なこと言うなよ――


 幸太郎の胸に沸々と何かが沸き上がる。その沸き上がっていく感覚と呼応するように、胸の鼓動が高鳴った。ドロドロとした何かが、体内を駆け巡っていく。


「宮地君、大丈夫!?」


 倒れたままの幸太郎に、鈴木は顔を真っ青にして駆け寄った。


 いつもは見ているだけの鈴木が、危険を顧みずに駆けてきてくれたことをほんの少しだけ幸太郎は嬉しく思う。


「先生を呼んできた方が――」


「ああん? てめぇもこいつみたいになりてぇのか?」


 獄谷は鋭い視線を向け、鈴木へそう告げた。「俺は本気だ」という恫喝をその視線から感じ取る。


 ビクッと肩をすくめた鈴木は、


「ごめんなさい……」


 そう言って幸太郎から離れていった。


 何も言わず、離れていく鈴木を見遣る幸太郎。

 そして、手のひらから希望がすり抜けていく感覚を覚えていた。


 彼は悪くない。仕方がないことなんだ。


「おい、宮地。いつまで死んだふりしてんだ。起きろよ!! 病人様だからって、俺は甘やかしてやらねえぞ」


「――わかってるよ」幸太郎は身体を起こしながら答えた。


 獄谷は嘲笑を浮かべながら幸太郎を見つめる。


「お前、本当に病気? 実は仮病なんじゃねえの? 弱った姿を見せたほうが、女が寄ってくるからなあ」


「は? 仮病? んなわけないだろ! そんなん、僕だって何度願ったことか! これが嘘だったら、夢だったらって何度も何度も……でも――」


 幸太郎は入院していた小学生時代をふと思い出す。


 病院のベッドの上。繰り返し起こる発作に、何度も何度も死を意識した。

 自分は他の人とは違って、欠陥品なんだ。吹けば飛んでしまうほどに軽い命しかないのだと、思い知らされてきた。


「当たり前に生きてるお前なんかに何が分かる! 一度でも死にかけてみろよっ!!」


「はいはい。どうせ健康な俺にはわかりませんよ。お前、病気でよかったな」


 思えば、この言葉がトリガーだったのかもしれない。


 幸太郎は無意識のうちに獄谷の左の頬を殴っていた。もちろん威力はたいしてあるわけでもなく、獄谷は一瞬怯んだものの、すぐに幸太郎の頬に拳をお返しした。


「ちょっと、二人ともやめろって!」


 クラスメイトが仲裁に入るものの、幸太郎と獄谷はもみ合ったままだった。


 病気で良いはずないだろ――こんな身体、僕は嫌だった。

 それなのに……なんでわかんないんだ!


「お前なんか、お前なんか――!」


「ああ、もう! うぜぇんだよ!!」


 獄谷が幸太郎を突き飛ばす。その時、幸太郎の胸を突いていた。

 そして突き飛ばされた幸太郎は先ほどのようにべたりと床に倒れ込む。


 床で背中を打ち、痛みが走った。起き上がろうとした時、幸太郎は自身の身体に違和感を覚える。鼓動が鳴りやまない――興奮していたせいもあるだろうが、他にも握り潰されそうな痛みが幸太郎の胸を襲う。


 幸太郎はその場でうずくまったまま動けなくなった。


 痛い。痛い痛い痛い痛い、痛い――


 呼吸が荒くなる。意識が遠のいていく。


 クラスメイトの叫び声をいくつか聞いてから、幸太郎の意識はそこで途切れたのだった。

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