第6話 僕だけが知る君の姿
使沙の鼓動を聞いてから数日。これまで無垢な少女だと思っていた使沙が、唐突にわがままを言い出した。
「だからダメだって! クラスのみんながびっくりするだろ?」
「いーやーだー! 私、コータローと一緒に教室行くのー」
保健室を出ようとする幸太郎の制服の裾を掴みながら、使沙は駄々をこねていた。
急にどうしたんだよ、と幸太郎はため息を吐く。
「教室に行ってどうするんだ! 使沙の席なんてないんだぞ!」
「行くったら、行く!!」
「ダメったらダメだって!」
幸太郎がそう言うと、使沙はじっと幸太郎を見据えてからプイっと顔を背けた。
「コータローの意地悪! もう知らない!!」
使沙はそう言って頬を膨らませ、奥のベッドに引っ込んでいく。
ベッドに着くまで一度も振り返らなかった使沙を見ながら、寂しさと怒りの感情を覚えた。
一度天空へと上がった天使は、もう地上におりてきてくれないかもしれない――
幸太郎はそんな焦燥感に急かされる。
「僕だって、もう知らないよっ!」
何か言わなくてはと開いたはずの口は素直な感情を伝えられなかった。きっと、普段から言っていないせいだと幸太郎は思う。
教室に向かう途中、幸太郎は俯き加減で廊下を歩いていた。
「急に見知らぬ女の子が現れたら、きっとクラスのみんなは驚くよな。それと保健室に通っているのは、あの子に会うためかとか糾弾されそうだし」
はあ、と大きなため息を吐く。そして憂いを含んだその吐息は、誰もいない廊下に吸収されていくようだった。
「使沙、可愛いしな。僕以外のやつを見たら、僕のことなんて忘れてしまうかもしれない」
おそらく使沙が教室に行けば、多くのクラスメイトたちが使沙に興味を示すだろう。使沙もそのクラスメイトたちと接するうちに楽しくなって、みんなのように自分のことを避けるようになるのではないか、と幸太郎は考えた。
他のやつと楽しそうに話す使沙は見たくない。
あの保健室での時間がなくなるのは、嫌なんだ――。
幸太郎は強く掴まれているような胸の痛みを覚え、無意識に右手の手のひらを胸に当てる。痛んでいるのは壊れている心臓ではなく、心のほうだと察した。
「ああ、そうか。僕、使沙に見放されるのが怖いって思ってる」
教室に着いた幸太郎はそのまま着席し、次の英語の準備を始めた。しばらくすると、教室後方が少し騒がしいことに気付く。
「あれ、久しぶりじゃん。始業式以来?」
「急にどうしたの?」
幸太郎は自分には関係ない話だと思いながら、頬杖をついて授業の開始時間を待つことにした。
ぼうっとしながら、始業式に一度だけ顔を出し、それ以降は登校していないクラスメイトがいたことをふと思い出す。幸太郎はその日に体調不良で欠席していたため、噂の不登校の生徒の顔を知らなかったのだ。
その噂の不登校生が久しぶりに顔を出したのだろう。そうだとしても自分には関係のない話だ、と幸太郎は依然としてぼうっとしていた。
「ああ、ちょっと! 天江さん?」
「え……今、天江って」
幸太郎はその声の方へ顔を向ける。すると、そこには幸太郎へ向かってまっすぐに歩いて来る使沙の姿があった。
「使沙!? なんで来たんだよ!」
「えへへ。コータローと授業受けたかったから」
「だから――」
「え? 宮地君、もしかして天江さんと知り合いなの?」
きょとんとした顔でクラス委員長の鈴木はそう言った。
鈴木は普段、幸太郎が獄谷に絡まれている時にチラチラと気にかけている様子を見せながらも、絶対に声を掛けてこないクラスメイトだった。
学生服もかっちりと着こなし、黒い細縁の眼鏡が彼の真面目さを象徴しているようだと幸太郎は常々思っていたのだ。
その鈴木からの異例な問いかけに、幸太郎は少し驚き困惑する。
「ええっと。保健室で、よく会うから」
幸太郎はその言葉を口にして、ハッとした。
これじゃ、僕が使沙に会うために保健室に行っていると暴露しているようなものじゃないか!
鈴木は目を見張りながら、幸太郎を見つめている。
幸太郎は鈴木から何を言われてもいいようにと身構えた。
「へえ、そうだったんだ! 始業式以来ずっと登校してこないと思ってたら、保健室にいたんだね」
「う、うん――え? 始業式以来?」
「うん。宮地君はあの日に欠席していたから知らなったかもしれないけど、天江さんは一度だけ教室に顔を出していたんだよ」
ああ、そうか。使沙の名前を初めて聴いたとき、どこかで聞いたことがある名前だと思ったのはこういうことだったのか。
そう思いながら使沙の方を見ると、使沙は得意げな顔をしてこちらを見ていた。
「クラスメイトだったなら、初めからそういえばよかったのに」
「だって、びっくりさせたかったもん!」
ニコニコと嬉しそうに笑う使沙。それから使沙はクラスメイトたちが連れていってしまったため、幸太郎は一人で席に残る。
囲まれている使沙は、今どんな表情でクラスメイトたちと会話をしているのだろうかと考えた。
やっぱりこのまま使沙は僕から遠ざかってしまうのかな――
幸太郎は寂しく思いながら、頬杖をついて授業の開始を待つ。
英語の担当教師の
そして授業が始まり、幸太郎は使沙の意外な一面に目を丸くすることになる――。
「次の例文を――天江、読んでみなさい」
窓側の最前列にいる使沙の方を見て、浜谷は淡々とそう言った。
ふだん姿を見ない生徒がいると、当てたくなる教師の気持ちはわからないでもない。しかし、その要望に使沙が応えることはできないのではないか、と幸太郎は心配する。
「はい!」と使沙は元気に返事をして、教科書にある例文を読み始めた。
その流暢な発音に幸太郎は目を見張る。
ずっと授業も出ずに、彼女はいつ勉強をしているんだ――?
そんな疑問を抱きながら、使沙の背中を見つめた。しかし使沙は、その疑問には答えてくれない。
幸太郎は自分の知らない使沙の一面に困惑しながら、授業を終えたのだった。
英語の授業を終え、使沙に声を掛けようと幸太郎が顔を上げた時、教室に使沙の姿はなかった。
「いつの間に……僕には一言くらい声をかけてくれてもよかったのに」
と少々不貞腐れながらも、クラスメイトたちと仲良しそうにする使沙を見なくて済んだと幸太郎は安堵する。
「仕方ない。放課後、寄ってみよう」
僕と、使沙だけが過ごせるあの場所に――。
やれやれと言った顔をしながらも、幸太郎の口角は上がっていた。
――放課後。
「使沙。いるか?」
保健室の入り口でそう問いかけてから幸太郎は扉を開けて中に入る。問いへの返答はなく、保健室には誰の姿も見当たらなかった。
もしかしたら使沙はもう帰ってしまったのかもしれないと幸太郎は思う。
「僕も帰ろうかな……」
幸太郎は保健室を出ようと身体の向きを変えるが、一度ベッドだけ覗いていこうと再び内側に足を向け、その足を前に出した。
二台並んでおいてある左側のベッド(いつも幸太郎が眠っているベッド)の周りを覆う白いカーテンを右手で少しだけ開けて中を覗くと、スヤスヤと寝息を立てて眠る使沙の姿を見つける。
「なんだ。寝てたんだ」
幸太郎はそのベッドにそっと腰かけた。
いつも使沙がやっているように添い寝でもして驚かしてやろうかと思ったが、さすがにそんな勇気を持ち合わせていなかったため、寝顔を見るだけで済ませてやろうと小さく笑う。
その無垢な赤ん坊のような寝顔に吸い込まれそうな気持ちになった。
ただ可愛いとか、傍にいたいとかそういう感情とは違う何かが湧いてくる。
「使沙は本当に不思議な子だな……」
幸太郎はそう言って使沙の頭をそっと撫でた。すると、使沙はくすぐったそうにしてから、弛緩した表情になる。
そんな使沙を見て、幸太郎はクスクスと笑った。
今この寝顔は僕だけのもので、他のクラスメイトたちは知らない。
僕だけが知っている使沙の顔。
その優越感に幸太郎の心は満たされた想いになる。
「じゃあ、そろそろ僕は帰るね。また明日」
幸太郎は立ち上がりながら眠ったままの使沙にそう伝え、保健室を後にしたのだった。
僕も、一番に君のことを分かってあげられる存在になりたいと思っているよ――。
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