第2話 保健室にいる少女
十年前――幸太郎は高校二年生だった。
「今日の体育、サッカーだってさ」
「グラウンド行こうぜ!」
目の前で楽しそうに話すクラスメイトたちの声を聞き流し、幸太郎は立ち上がる。
どうせ僕には関係のない話しだ――
立ち上がった幸太郎を一瞥した先ほどのクラスメイトたちは、無言で顔をそらした。
幸太郎は幼いころから患っている心臓の病のせいで、普通でいることの幸せというものを知らない。同年代の人たちとは違って、自分は少し異質な存在だということも分かっていた。
それは周囲の目にどう映っているのかは幸太郎にも分からなかったが、好意的なものではないことくらいの判断はついている。だからこそ、彼らとはあえて一定の距離を保って過ごしていたのだった。
「宮地ぃ。今日も体育サボりか?」
その声の方に顔を向けると、少し長めに刈られた頭髪で鋭い目つきをしているクラスの問題児――
ほとんどのクラスメイトたちが幸太郎の行動に言及しないのに対し、獄谷は体育の時間の前になると、なぜか決まって幸太郎の席の前に現れる。
しかし幸太郎はそんな獄谷のあおりを無視して、そのまま教室を出た。
「ちっ。感じ悪りぃな……」
獄谷のそんな独り言を耳にしながらも、幸太郎は何食わぬ顔をして教室から遠ざかった。
そもそも感じ悪いってなんだよ。お前の方がよっぽど悪いだろ! と内心思うが、幸太郎はわざわざ口に出して言うことはしない。
バスケ部で活動する彼は運動に少し自信があって、だからこそ体育に参加しない僕のことを目の敵にしているのだろうと思っていたからだ。
獄谷に絡まれるようになってからと言うもの、体育の授業をゆっくりと見学ができないため、幸太郎はいつも保健室でサボることにしている。
この日も例のように保健室にやってきて、保健教諭である
「あいつ、いつから僕に絡んでくるようになったんだっけな。というか、僕ってあいつに何かしたか?」
そんなことを考えているうちに瞼が重くなり、いつのまにか幸太郎は眠りについていたのだった。
***
『コータロー、今日は何して遊ぶ?』
楽しそうに尋ねてくる声。えっと、誰だったっけ。小学生のクラスメイト? いや、違う。
『今日は検査があるからダメだよ』
無意識に言葉が出ていることに幸太郎は驚く。
ああ、そうか。夢を見ているのか。そういえば、さっき保健室に来たんだっけ。そんなことを冷静に思った。
『ええー。じゃあ今日は諦める。明日は絶対だからね!』
『うん』
小学生の時に病院でよく会っていた少女だ。顔も名前も思い出せないけれど、彼女の放つ明るいオーラみたいなものだけは覚えていた。他の人たちとは違う感覚。それが何だったのか、結局わからないままだったけれど。
幸太郎は踵を返して向こうへ歩いていく少女の背中を見ながら、そんなことを思った。
彼女は今、どうしているのだろう。病院にいたということは何か病気だったのではないか。今は元気に暮らしているのかな。そんなことを考えていると、突然視界がぐらついた。
そろそろ夢から覚める時間か――。
そこで幸太郎の視界は真っ暗になった。
***
良い香りがする。女子が横切るときに嗅ぐような香り。シャンプーかな?
幸太郎は夢から覚めて最初にそんなことを思った。そしてゆっくりと目を開けると、目の前に栗色の丸い物体を知覚する。細い線状のものが見え、それが頭髪だとすぐに気がついた。
「……え?」
あまりにも突飛な出来事に幸太郎は混乱する。
ただ眠っていただけ、少し夢を見ていただけ。でも、目の前には栗色頭の誰かがいる――?
状況がうまく呑み込めない幸太郎は、再びを目を閉じた。
さっきのは何かの間違いだ。きっと昔の夢を見ていたから人肌を感じたくなって妄想を作り出してしまったに違いない。
幸太郎は小さく息を吐いてから、再びゆっくりと目を開ける。
「妄想じゃ、ない……」
視線の先には先ほど同様に栗色の頭が映った。
そして規則的に動いているその頭を見て、どうやら同じベッドで眠ってしまっているらしいということがわかる。
「んんん……」
寝言だろうか。生まれたての赤ちゃんのような、幼い感じだと思った。
声変りをしていないように聞こえたその声色に、おそらく女子生徒のものだろうと察する。
いや、待て……。
はっとした幸太郎はまじまじと栗色頭を見つめた。
――女子生徒ってそれはまずいだろ!?
「気付かれないうちに、そっとここから離れないと」
あらぬ誤解を掛けられては、たまったもんじゃない!
それから幸太郎がゆっくりベッドから這い出ようとすると、
「んー、あれ。起きたのー?」
栗色頭の少女はむにゃむにゃと目をこすりながら身体を起こす。
胸の位置まである栗色の髪、雪のように白い肌。長いまつげにぷるんとした唇。
――可愛い。もしかして天使が舞い降りた?
幸太郎はそんなことを思う。
しかし、意識はすぐに現実に引き戻された。
この子と同じベッドで、僕は――。
「え……あ、その。えっと」
完全に目を泳がす幸太郎。
どうしよう、このままじゃ変態扱いされる。
「おはよー。気持ちよさそうに寝てたから、つい添い寝しちゃったよー」
えへへ、と笑いながら栗色頭の少女は言った。
そうか。僕の方が先に来て眠っていたわけだし、変態扱いをされる言われないよね。幸太郎はほっと胸を撫で下ろす。
「君、だれ? なんで僕のベッドに?」
先ほどまでの狼狽え具合など皆無で、幸太郎はやや強気に栗色頭の少女へ尋ねた。
「んー。コータローが気持ちよさそうだったから?」
きょとんとした顔で栗色頭の少女は答える。
「気持ちよさそうとか、それだけのことで普通はベッドに入らないだろ!?」
「えへへ、ごめんごめん」
あれ、そういえば今僕の名前……。
幸太郎は怪訝そうな顔で栗色頭の少女を見た。
「ねえ」
「ん、どうしたの?」
「なんで、僕の名前知ってるんだ?」
彼女に名乗った覚えもなく、会ったこともないはずだ。それなのに、なぜ彼女は僕の名前を知っている?
もしかして、彼女は本当に天使なのか――そんな馬鹿げたことを幸太郎は考えていた。
すると彼女は栗色の髪をサラサラと揺らし、右手の指を顎に添えて答える。
「うーんとね。袋井先生に聞いたからだよ! コータローが寝てるから、静かにねって!」
「先生、何を勝手に教えてくれてるんだよ」とため息交じりに幸太郎は呟いた。
すると同時に保健室にチャイム音が鳴り響き、幸太郎はハッとする。
壁に掛けられている時計を確認し、今のチャイムが三限目終了のチャイムと知るとホッと胸を撫で下ろした。さすがに次の数Aをサボるわけにはいかないからな。
「じゃあコータロー、何して遊ぶ? トランプ? それとも本の読みあいっこ?」
目を輝かせて身体を寄せる栗色頭の少女を幸太郎は両手で静止し、ベッドを出る。
「これから授業だから遊ばない。君がどこの誰だか知らないけど、早く教室に戻りなよ。じゃあな」
「ええー、また来てよー」
幸太郎は振り返って、不貞腐れた声でそう言った栗色頭の少女を見遣る。
窓から差す陽光が少女の栗色の髪を輝かせ、白いベッドや布団にもその光が反射し、眩しく感じた。
まるで天使の寝床みたいだ――幸太郎はそんなことを思う。
栗色頭の少女の視線を感じ、幸太郎はハッとしてすぐに目を逸らした。
「また来るとは思うけど、君には会わない」
それだけ告げると、幸太郎は足早に保健室を出た。
幸太郎は廊下を進みながら、先ほどの栗色頭の少女との邂逅を思い出す。
不思議な少女だと思った。いきなり目の前に現れたり、名前を呼ばれたり。
他の同級生達は僕に対してそんなことを絶対にしない。
「『会わない』なんて言ったけど、もう一度くらい会ってみたいかもしれないな……」
天使の寝床にいる天使のような少女。
彼女はこの学校の生徒なのだろうか――ふとそんな疑問が浮かび、また保健室にいった時にでも袋井へ尋ねようと幸太郎は思う。
「あ――そういえば、袋井先生に何も言わず出てきちゃったな。まあ、いいか」
そして幸太郎は教室に戻っていったのだった。
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