保健室の天使
しらす丼
本編
第1話 絡みつく罪の意識
今も自分が生きているという現実に、僕は殺されそうになっていた――。
一台のパソコンとデスクランプだけが部屋を照らしていた。
「前回の検査データがこれで……先月までの行動記録は」
ぽつぽつと呟きながら手を動かして入力しているデータは、来週の会議で使用するものだった。
現在、幸太郎は国立研究機関の研究員として勤務している。
主な職務内容はクローン臓器の管理とデータ整理だ。
「こっちのデータ入力を終えたら、次は――」
突然、キーボードの音のみしか聞こえなかった部屋に甲高い着信音が響いた。
幸太郎は顔をしかめながらキーボードに向かっていた手をいったん止め、パソコンの左脇にある内線電話を取る。
「はい、宮地です」
「あー、コータローさん? 今空いてます?」
少し
「空いてない。会議の資料作ってる」
「それはつまり、空いてるってことですね!」
快活そうに奏はそう言って笑う。
こいつ、いつも人の話を聞いてないんだよな――と内心で舌打ちをする幸太郎。
「実は部長から書庫の整理を頼まれちゃって。一人じゃ無理ですって言ったら、コータローさんに手伝ってもらえって言われちゃって。今すぐ、書庫まで来てもらっていいですかねえ?」
部長もなんでそんなことをこいつの任せたのかと辟易したが、自分たちのチームに極力重要な仕事を回さないための嫌がらせなのだろうとすぐに察した。
この研究所のやることも、上層部のやつらも、心底腹立たしい――。
幸太郎は奥歯を強く噛む。
しかしここでいくら彼らを憎もうが、状況は何も変わらないだろう。
仕方がないと思った幸太郎は、大きくため息を吐いてから奏に答える。
「――わかった。じゃあ、少し待っていて」
「ありがとうございまーす! さっすが、コータローさん! 頼りになるぅ!! んじゃ、待ってますね!」
ガチャリと受話器を置く音とともに、通話が切れた。
「受話器の切り方、いつも教えてるのに……」
幸太郎はため息を吐きながらパソコンをスリーブモードにして、ディスプレイの電源をオフにする。ゆっくり立ち上がり、真っ暗になったディスプレイを一瞥してからのろのろと歩き出した。
扉を開けて部屋から出ると、幸太郎は廊下の明るさに思わず顔をしかめる。
そして自分が今までどれだけ暗い部屋にいたのか、ということを思い知らされた。
「気持ちが暗いと、部屋まで暗くしたくなるのか」
そんな自虐的なことを呟きながら、幸太郎は小さく息を吐く。
最後に心の底から明るい気持ちになったのは、いつだっただろうか――ふとそんなことを思ったが、すぐには思い出せなかった。きっとこれからも思い出すことはないし、明るい気持ちになることもないのだろう。
目が慣れてきたところで、幸太郎は『データ管理課』と書かれたプレートの部屋を後にした。
誰もいない白いリノリウムの床を進む。
「今ごろは決起集会でもやってるんだろうな、あいつら」
現在、この研究機関をあげて取り組んでいる大きなプロジェクトが、とうとう最終工程に入ったらしいと幸太郎は風の噂を耳にしていた。
そのことで他の研修員たちはそちらにかかりきり。実験棟で今か今かと実験の成功を待っているに違いない。
だからこそ、使い終えたデータを管理するだけの『データ管理課』がある管理棟になんて誰も足を運ぶことはなく、これだけ閑散としているのだろう。
「所詮、過去のことなんてどうだっていいってことなんだろな。誰に何があったとか、どうなったとか」
過去――それは幸太郎にとってかけがえのないものだった。自分と彼女を繋ぐ大切な時。
「あれから、十年か」
ふと彼女の顔が浮かぶ。栗色の髪、雪のように白い肌。長いまつげにぷるんとした唇。彼女の鼓動はいつも優しくて温かい音をしていた。
しかし、彼女はもうこの世には存在しない。
彼女を失ったあの時からずっと、僕の身体には罪の意識が絡みついたままだった。
幸太郎はそっと自分の胸に手を添える。
「本当はこんなこと、さっさと終わらせたいんだけどな。そしたら、僕はもう頑張らなくてもいいよね――
――辛い、苦しい。もうこんな人生から解放されたい。
幸太郎は今もまだ、彼女の残した罪悪感にとらわれている。
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