第8話 事情
床に脱ぎ捨てた衣服を身に付け、タァヘレフは水差しに冷たい水を部屋に持ってきてくれた。ベッドサイドに小さな灯りが点る。電気はちゃんと来ているようだ。
「ドクター達にここまで来ていただいたのは、わが部族の兵士を治療していただきたいからです。」
上半身は晒したまま、綿パンツだけを身につけた刀麻は陶器に注がれた水を受け取った。派手な刺繍の絨毯の上に座って、ベッドに背中をつけている。
「・・・兵士、ねぇ?」
嘘だろう。兵士ではなく参謀クラスのナンバー2、あるいは指導者そのものである首長の治療のはずだ。でなければあんな危険を冒してまでドバイくんだりまでやってくる意味がない。
「患者を診てみない事にはなんとも返事できないぞ。それに、丸腰じゃ治療は出来ない。俺なんて眼鏡さえないんだ。包帯を巻いてやることくらいしか出来んよ。」
「薬や医療器具は出来るだけ揃えます。どうかお願いします。部族には彼を治療できるほどの医者はいないのです。」
「NPOやボランティア組織を頼ることは出来なかったのか。」
タァヘレフは顔を伏せて首を横に振る。
「・・・そうか。」
情事の後のけだるさを微塵さも感じさせず、彼女は静かに刀麻の隣りに腰を下ろす。
刀麻は医者だった。それはどこにいても同じだ。日本だろうと、ドバイだろうと、このサハラ砂漠のタマランセットであろうと。乞われれば出来る限りの治療を施すのが彼の務めだ。患者が政府の要人だろうが、近所の悪ガキであろうが、紛争中の部族であろうが関係ない。
「マックスは、ドバイへ返してやってくれないか。奴は俺と同じ腹部外科の専門医だから、同じ専門医がいても意味がないだろう。」
「わかりません。医療についてのことはわたくしには・・・。」
大きく溜め息をつく。刀麻は受け取った水を全部飲み干した。
どうやら患者に会って見ないことにはどうにも話は進まないらしい。
この目の前の美しい女性も、辺りを警戒する作業服の衛兵達も、その患者が来ないことには動きが取れないのだろう。刀麻とマックスをここへ留めおくのはそのためかもしれない。隣りの部屋で出歯亀のように情事の様子を窺っていただろう、同僚をどうやって先進医療チーム戻すべきかを考えた。
「ドクター・・・、どうか、明後日には首長がここへ参りますから。」
「出来ることはやるけれど、とにかく俺の眼鏡ないと、どうにもこうにも。」
「あら、眼鏡がなくてもわたくしのことはあんなに愉しませてくださったわ。」
媚を含んだような声で彼女が言う。
隣りに座ったタァヘレフの手を引き寄せてぐっと自分の膝の上に乗せる。長い髪を振り乱して、倒れ込んだ彼女はびっくりしたような顔で刀麻を見上げる。そこが妙に可愛らしい。
「あんた、夫はどこにいるんだ?」
「・・・夫はいません。」
「娘がいるという事は、夫がいるんだろ?」
「いいえ。この国にやってきたナトー軍の、将校だったと思いますが、・・・向こうも覚えてはいないと思います。わたくしも勿論、覚えてはいません。まだ15でしたし、一度っきりの事でしたので・・・。」
気まずいことを尋ねてしまった。
彼女の言葉の意味するところは、その軍人の一度限りの相手にさせられたと言うことだ。
「そっか・・・ごめんな。余計なことを聞いちまった。」
「いいのです。この辺りでは珍しいことではありません。わたくしも私生児でしたから・・・。」
「・・・そうか。」
それ以上何も言えなくなる。彼女の事情に口を出す権利など、刀麻にはないからだった。それこそ、刀麻だって一夜限りの相手なのかもしれないのだ。
「ドクター・トーマ・・・貴方は?お国に大切な方がいらっしゃるのでは?わたくしに向かって、タカオ、と。」
一瞬だけ身を強張らせたのが、膝の上のタァヘレフにもわかった。
「・・・婚約者、だった。」
「だった?」
「死んだんだ。二年も前に・・・。」
ぽとり、と温かい水がタァヘレフの顔に落ちる。
「トーマ・・・。」
「愛してたんだ。誰よりも。・・・何と引き換えにしてもいいくらいに、大好きだったのに。」
ドレッドの房が小刻みに震える。次々に涙が彼女の上に落ちてきた。
「なんにもしてやれなかったよ、俺は・・・そばにいることさえろくにしてやれなくて。」
刀麻の膝を優しく擦りながら、タァヘレフは黙って彼の嗚咽を聞いていた。
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