第二章

 私は立体駐車場にいる。

 本来、車が駐車されるべきところには、山積みになったデスクトップパソコンの残骸がある。それらは天井に達している。

 蛍光灯が切れて、暗闇に包まれる。そして、また電気がつく。

 私はのけぞった。

 三メートルほど先だろうか、焦げ茶色の木製のハト時計が急に現れた。おそらく、先ほどの話にでてきたものだろう。高さは二メートルほどであり、正面から見て一番上には、時間を知らせるためにハトが出てくるであろう両開きの赤い扉がある。その下に文字盤と針、その下にガラスの窓があり、奥で大きな振り子が左右に揺れているのが分かる。デザインは格調高く、草木を模している。

 天井の蛍光灯が点滅する。

 時計の針が急激に進みだし、一時をさす。

「パッポー」

 木製のハトが顔を出す。デフォルメされたデザインで、目が大きく白い体、黄色いくちばしで口の中は赤色に塗られている。尾から伸びているマジックハンドのような機工はハト時計の扉の奥へと繋がっている。

 ハトが中へと戻り、扉が閉まる。

 ハト時計が少し前に傾いたような気がしたので、集中をする。

 また時計の針が急激に動き出し、一時をさす。それと同時にハト時計が体を左右に振りながら、猛スピードでこちらに向かって突進してくる。

 私は驚きながらも横へと飛ぶ。とにかく進行方向からどかなければ。

 ハト時計は明らかに私を狙っていたようで、なんとか私が逃げた方へと体を傾けたが、大きくカーブをしながら立体駐車場の壁に向かっていった。

 デスクトップの残骸を跳ね飛ばして突き進む。

「パッポー」

 ハト時計のハトが飛び出る。

 立体駐車場の壁にくちばしからぶつかっていく。

 その瞬間。

 衝撃と音。

 地震かと思った。

 立体駐車場の壁が崩壊していた。できた穴は、大きさにして直径三メートルほどであり、その向こうに煌びやかなネオン街と高層ビル群が見える。穴の周りには大きなヒビが入り、そこから、コンクリートの破片が外側へ落ちていくのが見えた。

 砕け散って粉となったコンクリートが空気中を舞っている。私は、何故かアスベストのことを思い出して、余り空気を吸うべきではないと考え咄嗟に右手で口を抑えた。

 変に冷静であった。

 足元にデスクトップの残骸が転がってくる。足先にぶつかりそうだったので、足の裏で抑えるように止めた。

 ハト時計が音に気付いて素早く振り向く。

 時計の針がまたも急激に動き出し、十二時を指す。

「バッボーッ、ヴァッボォーッ」

 スピーカーを使った上で叫んでいるような、砂粒が混じった大音量の叫び声が私の体を押しつぶすように飛んでくる。立体駐車場の中を反響するせいで、前からだけではなく、横から後ろから頭の上から浴びせられ、圧を感じて顔が自然と歪む。

 音に合わせて飛び出すハト。当然ながら表情を変えない。

 恐怖で吐き気がした。

「ヴァッボォーッ、ヴァッボォーッ、ヴァッボォーッ、ヴァッボォーッ、ヴァッボォーッ、ヴァッボォーッ、ヴァッボォーッ、ヴァッボォーッ、ヴァッボォーッ、ヴァッボォーッ」

 鼓膜が痛いというような感覚を知ったのは、これが人生で初めてのことだった。

 ただ、生き残れないということはない。

 まず、このハト時計は猛スピードで近づいてくるが、急に曲がることができないため左右に逃げればハト時計のパンチを食らわずに済む。しかし、気を付けなければいけないのは、そのパンチの破壊力と止まっている時に正面の方向を変える素早さだ。故に、近づいてハト時計を中心に円を描くように走り続けるのは得策ではない。

 勝つためには近づかなければならない。近づくならば敗北を受け入れなければならない。

 逃げるしかない。

 この立体駐車場は時計回りに上り坂になっており、ハト時計は私よりも低い位置にいる。

 上へ上へと逃げられる。

 これしかない。

 私は全速力で走りだす。

 途中でハト時計の方を見る。突撃しようとする素振りがあったので直角に曲がってハト時計のパンチを避ける。それを二度ほど繰り返すと、ハト時計の動きが少しばかり鈍くなった。坂の角度が僅かだが急になったためだろう。ハト時計は左右に体を揺らしながら進むのは先ほど説明したが、そのように動く以上、一歩一歩が僅かしか進めないため回数で補うしかない。しかし、片側を大きく持ち上げないと進めないので、平面を走るよりも時間が倍以上かかるのである。

 こんな状況でも、目の前の怪物をしっかり分析できる自分の冷静さに惚れ惚れする。ここまで生き残ってきたことで培った、当然の分析力の高さと言える。

 声に出して自分を褒めたい。

 ある程度の距離をとれば、ハト時計も追跡を諦めるのではないだろうか。

 今回は、というか、今回もだが。勝ちは拾えないとしても負けることは避けるべきだ。死ぬなど言語道断である。次に望みをつなげるのも一つの手段だ。

 デスクトップの残骸によってできた山が見えてきて、その影から出るようにして、一つ上のフロアの駐車場へと到着する。

 しかし。

 私はそこで足を止めた。

 それが、見えたのだ。

 それは、二十メートル以上先にあるはずなのに、まるで目と鼻の先にあるように感じられた。

 白い一本足のテーブルに、赤と白のチェック柄のテーブルクロスがかかっている。その上に、粉チーズとフォークと水の入ったグラス。

 そして。

 白いお皿に乗せられた、湯気が立つできたてのナポリタン。

 ハト時計の足音が大きく聞こえ始め、近づいてきていることが分かる。

 どうする。

 あれは、あの男に教えてもらった、できたてのナポリタンだろう。

 立ち尽くしたこの状態で、私が死んでいないということは、まだその能力を発動していないということになる。どこまでが効果の範囲なのか分からない分、不安が加速する。

 体調に問題はないので、範囲内ではない。

 けれど、追い込まれている。

 というか、あれは本当に先ほどの男が話していた、できたてのナポリタンという怪物なのだろうか。本当は、誰かがあそこにナポリタンを置いて食べようとしていただけなのではないか。あれは、普通のナポリタンではないのか。

「ヴォルゥッヴォーッ、ヴォルゥッヴォーッ、ヴォルゥッヴォーッ」

 ハト時計の叫び声が聞こえてくる。ハトなのだから鳴き声が適切だとは思うが、一度聞いてみればいい。あんなものを鳴き声と表現する人間はこの世のどこにもいない。あれは叫び声であり、怒声であり、サイレンである。

 自分の進行方向の先にあるナポリタンを見つめる。

 普通のナポリタン。

 そんなわけがない。

 バカか、私は。

 なんの可能性に賭けたのだ。小火をダイナマイトで消火しようとするような発想だった。おかしい、冷静さを欠いている。

 ハト時計の足音が止まった。

 振り向く。

 目の前にハト時計がいた。

 ハトが出てくる扉は閉まっている。

 ハト時計の振り子が目にもとまらぬ速さで左右に揺れ始める。長針は時計回りに、短針は反時計回りに動く。ハト時計は中で何かが暴れているように小刻みに揺れ、鈍い音を立て続けている。

 圧で動けない。

 その時。

 ハト時計が急に動きを止める。振り子も、針も止まる。

 静かになる。

 ハト時計がこちらを見ている。そんな気がする。

 必ず仕留めようとこちらの呼吸音、目の動きを観察しているように感じられる。

 私は、ハトが出てくる扉を見つめていた。もしかしたら、そこ以外にも見るべき場所はあるかもしれない。しかし、余裕がない。余裕のない中では最善の選択をしている。

 と思う。

 いや、思いたい。

 殺されるとは思った。しかし、その膠着状態が五秒、十秒、十五秒、二十秒と続くと、そんな感情の揺れすら消えた。

 別に私が特別な人間であるということではないのだろう。この状況で生き残るという方向に力をすべて注げば自ずとそうなるということなのだと思う。

 今回だけ、今回だけでいいのだ。

 生き残りたい。

 私は初めて、心の底から自分のことを信じようとした。

 十秒。

 三十秒。

 四十五秒。

 もう、分からない。

 もうすぐ、一分か。

 ハト時計の、扉が小さく鳴った。

 その瞬間、私は横へと飛ぶ。

 ハトが飛び出す。

 ハトのくちばしが私の耳たぶをかすったことが分かった。わずかに、血が空中を舞っているのを目で確認する。

 肩から地面に着地し、鈍い音と鈍痛を感じながら自分の顔があったところを見つめる。

 マジックハンドのような機工がそこにあった。

 その先に視線を持っていく。

 扉から伸びているマジックハンドの機工は、四十メートル以上も伸び、その先のハトが遠くの壁に穴を空けていた。

 一撃で私の顔面を粉砕しようと力を溜めに溜めた結果であると思われた。

 正直、自分の顔面が砕け散って血肉と骨をまき散らすのが上手く想像できず、さほど恐怖はなかった。けれど、冷汗はいやというほどかいていた。

 延長にあったできたてのナポリタンは、地面に落ちていた。テーブルも倒れ、グラスも割れており、フォークは見当たらない。

 ねじの回るような音が小さく聞こえてくる。

 ハト時計がハトを自分の体の中へ戻そうとしているようだ。だが、伸びきってしまっているせいか、それとも上手く作動していないのか、スムーズに戻っているようには見えない。

 チャンスだ。

 逃げられる。

 私はとっさに上へと走ってしまった。

 あ、できたてのナポリタンのことを忘れていた。

 と思ったが、なんともならない。

 できたてのナポリタンの半径一メートル以内にはさすがに近づかなかったが、体に一切の異変はなかった。呼吸がナポリタン臭くなっているとか腹が苦しいとか痛いとか、そんなこともない。

 皿から落ちたからなのか。

 皿の上にあるからナポリタンという料理なのであって、地面に落ちたら食べられないので料理ではないということなのか。地面は冷たいので、ナポリタンは急速に冷やされ、できたてとは言えない状態になっているためなのか。

 分からない。

 分からないが、少なくともこちらの負けということにはならないだろう。

 私はとりあえず立体駐車場を上へ上へと走って進む。




 よう。初めましてだな。

 それにしても随分と凄いじゃないか、あんた。

 俺も、あのナポリタンと、ハト時計にはめちゃくちゃ困ってたんだぜ。いやはや、本当に助かった。

 ああ、ハト時計は一時的に動けない状態になっているだけなのか。まぁ、そんな細かいことはいいんだよ。とにかく、あの怪物たちを自由に行動できない状態にしたんだから大したもんじゃないか。

 あのハト時計は、一つ下のフロアの駐車場を根城みたいにして動き回ってるやつだから、ここまでは来ないさ。まぁ、確証なんてないけどなあ。あはは。

 でさ。あんたも知ってると思うけど。怪物に一回でも勝つと元の世界に戻れるだろ。つまり、ここの目的って怪物に勝てる人間を作り出すことなんじゃないのかな。

 怪物の存在で困ってる誰かが、この世界にいるのかな。

 あぁ、俺たちもそうだった。あはは。

 あんたってサラリーマンでもやってたんだろ、スーツ着てるし。ほら、俺もスーツ着てるけど、あんたと違ってサラリーマンじゃないんだ。本当は、役者。ここに転生させられた時、演劇をやっている途中でさ、客も入ってる本番だったんだぜ。だからこうやってその時の衣装でここにいる。ちなみに、社長の奥さんと不倫する平社員の役だったんだよ。こんなことなら、もっといい役を奪い取ってやればよかったって後悔してるよ。

 どうなってるんだろうな。俺たちのいない元の世界って。普通に上手いことやってんのかな。

 だとしたら。

 ちょっとキツイよな。

 俺たちがいなくてもどうにでもなるんだなぁ、へえ、みたいな寂しい気分になるよな。

 いや、実際どうにかなってるんだろうな。

 世界も、日本も、俺たちの所属していたコミュニティも。その全部がさ。

 あんた、帰りたいかい。

 俺は、もう帰りたくないんだ。さっきと言ってることが矛盾してるけどな。

 だって、あそこにいる俺は、定職にもついていなくて、演劇にも狂っていない、普通の四十代だ。いや、定職にも就いていない四十代なんて普通じゃないか。あはは。

 ここにいれば、急に連れて来られて困っている人間になれるだろう。自分で選択しなくてもここにいる理由や定義をもらえるんだ。なんていうのかな、学校に居場所がないって感じる時って授業中じゃないだろ、休み時間だろ。あれだよ、あれ。元の世界は一生休み時間で、ここは授業中だ。

 どうにかしなきゃとは思ってるよ。でも、どうにかしなきゃとか思ったり、口に出してる今の状況が心地いいんだ。

 こんな奴、きっとほかにもいるぜ。

 その追い詰められた状況によって、ようやく自分の居場所を手に入れられたやつ。

 どうにかしなきゃとか言いながら、どうにもならなきゃいいと思ってるやつ。

 気をつけろよ。

 正直な話。

 俺は、怪物なんかより、ここに居場所を見つけた人間の方がやべぇと思うよ。

 で、どうするんだ。次の怪物を探して、勝負を挑んで勝ちに行くのか。そうか、頑張れよ。応援はしてやるよ。

 なぁ、あんたは本とか読むのか。へぇ、ミステリーとか読むのか。例えば、国語辞典とか読んだりするのか。いや、聞いたことあるんだ。国語辞典とか諺辞典とか和英辞典を読むのが好きなやつがいるって。

 日本語に強いだけなら、椅子に座るなよ。

 ゲームに強いだけなら、椅子に座るなよ。

 日本語にもゲームにも強いなら、椅子に座ってもいいぜ。

 もしも、日本語にもゲームにも弱いのに椅子に座りたいなら。

 覚悟はしろよ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る