8. 明日、この花が咲く
「明日、この花が咲くよ」
そんな透也の必ず当たる小さな予言が好きだった。
確認するために、また明日も二人でここに来られる。
幼い頃から繰り返される予言と確認が、何より大切な日常だった。
大学は、父親のいるスイスの学校に行くことは、ずっと前から決まっていたことだった。
渡航準備も着々と進んでいる。家はそのままにし、透也の家族がときどき管理に来てくれる話になっていた。
「必要な荷物はもうない?」
「ああ。必要なものは送ったし、山系のものはたいてい向こうで買える」
「そっか。柊くん登山好きだから、楽しみだよね」
「ああ」
透也は4才下の隣人だ。年齢的には中学生だが、小学生の頃から学校に馴染めず、ほとんど家にいた。人と接するより庭で植物を育てていることを好む透也は、しかし俺にだけは懐いて、育てた花を手によく遊びに来ていた。
「今日もお花をもってこようと思ったんだけど、海外には持っていけないからだめだって、お母さんが」
「そうだな」
「スイスには、エーデルワイスが咲いているんだよね」
「見つけたら写真送るよ」
うつむく透也のまるい頭を、やさしく撫でる。少し汗のにじんだ細い髪からは、夏休みの匂いがした。
俺がいなくなったら、透也はどうするんだろう。
心配じゃないと言ったら嘘になるが、同時に今離れるべきだとも思っていた。
俺がいると、透也はそれだけで満足して世界を閉じてしまう。それが満更ではない自分が嫌だった。
透也は、もっとたくさんの人や世界とふれあったほうがいいし、その妨げとなるような自分はいないほうがいい。潮時だった。
「……柊くんと一緒にいたくて、次の日に咲きそうな花をいつも探してたんだ」
うつむいたまま、透也がつぶやく。その肩が震えていることを知っていたが、あえて手を伸ばさなかった。
そろそろ、空港に向かわなくてはいけない時間だ。
「じゃあ、元気でな」
もう一度頭を撫でて立ち上がろうとした俺の腰に、透也は体当たりするように抱きついた。
思いがけない行動に体勢を崩すが、とっさに透也をつぶさないようなんとか自分を下敷きにして転がった。
「柊くん!」
普段おとなしい透也が声をあげる。
「ぼ、ぼく、いつか本物のエーデルワイスを見に行きたい! それで、それでスイスの学校へ留学して、植物の学者になる!」
突然の宣言に面食らっていると、透也は必死に言葉をつむいだ。
「そのために、学校にも行くし、植物採集で一緒に山にも登れるように体力もつけるから! だから……だから、待ってて」
最後にかけて消えそうなほど小さくなっていく声に、あたたかい気持ちが溢れる。
必死にしがみつく透也の幼い背中に軽く手を当て、「待ってる」と観念した。
それから、明日咲きそうな花を見つけては、写真にとって透也へ送っている。
見たこともない花だと透也は喜び、調べた結果の詳細を折り返し報告してくれた。
『この写真のエーデルワイスは、きっと明日咲くね』
『じゃあ明日また山に登るから、確認して報告するよ』
そんな日々のやり取りが何より愛おしい。
自分の庭から飛び出し、大人になった透也に会える日が待ち遠しかった。
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