トシミツとミラクル・Ⅲ
睦美はゆっくり、白いサラブレッドの手綱を引く。ミラクルヒダカの目は、まだ何が起こったか分からない様子だ。やっと起き上がれるようになったときにいきなり歩かせるのはダメだと思うが、それも仕方がない状況だった。
「もうすぐだよ……」
すぐに、懐中電灯の光と、人々の喧騒、パトカーのサイレンが脳の中に入ってくる。
「あ、睦美さん! 来てください、早く!」
睦美はミラクルヒダカの手綱を強く引き、野次馬の中に強引に身を入れる。
「……お父さん」
父は、利光は土まみれで、青くシャキッと決まっていたはずのジャージはグシャグシャで血にまみれていて、おでこの辺りからも大量の赤いドロドロした液体が溢れ出ていた。
「……俺は、もう、ダメみたいだ……」
「そんなこと言っちゃダメ!」
「ブルブル、ブルブル」
ウマにも状況が理解できるのか、ミラクルヒダカは心配そうに目を潤ませて、利光の顔を舐める。
「おぉ、ミラクルヒダカ……歩けるようになったか。なら、もう、大ジョーブだ。お前は、睦美と一緒に優勝できる……」
「ブルブルブルブルブル」
「ミラクルヒダカ、睦美。二人で、なあ、俺はもう駄目だから……俺の、一生で最後の、とちゅーはんぱなやつで酒にまみれた人間の、願いを、叶えてくれ……ミラクルヒダカ、優勝だ……」
グッと利光は拳を突き上げた。
「全命重等……!」
それを何とか言うと、父は力尽き、バタッと上げた手が落ちた。
「お父さん……!」
そこで、記憶がすり抜けてしまっている。次の記憶は、日高の大きな病院からかかってきた
『残念ですが、先ほどお父様がお亡くなりになられました』
という電話だった。
お葬式が終わり、学校に行けるようになった。けれど、睦美はとても行く気なんぞ湧かなかった。
これまで、競走馬の調教について様々なことを教えてくれた父・利光。利光には、まだまだ教えてほしいことがたくさんあった。
そんな父が突如いなくなってしまったのだ。
「……睦美、大丈夫かぁ?」
祖父の享利が訊ねる。
「大丈夫じゃないさ」
「……そうかぁ、じゃあ、学校休みの連絡をしておくさ。無理はするなぁ?」
「うん」
享利が出ていくと、睦美はバタッとベッドに横になった。
利光との思い出がたくさん溢れ出てくる。初めてウマに乗った日のこと、小学校に一度、ウマに乗って登校したこと、小学校の卒業式で、将来の夢は調教師ですというと父が号泣したこと、中学校の入学式で乗馬のヘルメットをくれたこと……。
「……ダメだ」
ウマのことしか出てこない。利光とウマ、睦美とウマは切っても切れない繋がりがある。
「……行こう」
睦美はスパッと立ち上がった。
そして、ウインドブレーカーを着て外へ出て行った。
「ヒヒィン……」
弱弱しい鳴き声がする。
「ミラクルヒダカ!」
私は一目散に馬小屋へ飛び込んだ。
「……ヒィン」
目の前にいるのは、悲しそうな顔をした白馬。何年も一緒にいたのだから、ウマが思っていることくらい大体わかる。
今、ミラクルヒダカはとても悲しいのだ。この前のことで分かるのだ。愛する調教師さんを自分は失った、ということを。
「……ねぇ、ミラクルヒダカ。あんたもやっぱり悲しんだなぁ。私もヤバい……どうすればいいんだろうなぁ……」
自然に涙が出てきた。
その時、馬小屋の木の引き戸が開いた。
「……やっぱり、ここにいたか」
『睦美、愛子やおじいちゃんと協力して、どうにか大八木牧場をこれから何十年何百年もある牧場にしていってほしい。そして、お父さんが一生をかけて育てたミラクルヒダカと一緒に、レースの一着を取りに行ってほしい。これが、お父さんの最初で最後の願いだ』
享利から渡されたのは、利光からの遺書だった。
「……最初で最後の願いって何よ、そんな、もっといっぱいお願いされてきたじゃん……!」
また涙が流れてくる。
ペロペロペロペロ
ミラクルヒダカが顔を舐めてくれる。まるで、止まらない涙を拭ってくれているかのように。
「……ありがと、ミラクルヒダカ。グスッ」
腕で目の下をこすり、睦美は真っすぐにミラクルヒダカを見つめる。
「……なあ、ミラクルヒダカ。今、GⅡレースで優勝しないと、GⅠレースに出られないし、何の名前も残せないまま、引退させられて、それで殺処分されて、日本人の食卓に馬刺しとして乗っちゃうかもしれない。私は、そんなこと絶対に嫌だ。元々レースに出ていた馬の肉なんて絶対食べたくねぇ」
もう、涙は流さない。
「お父さん――利光が、私と一緒に優勝しろって言ってきた。どう? 私と一緒に、次の中山記念、私と一緒に優勝、しない?」
「ブルブル、ブルブルブルブル」
嬉しいときとかの合図だった。
「一緒に走ってくれる?」
「ヒッヒィン!!!!」
急に、ミラクルヒダカは後ろ足二本で立ち上がった。
「よし、決まりだ」
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