トシミツとミラクル・Ⅱ

「全命重等。今日も一日頑張ります。早くミラクルヒダカが元気になりますように」

 今日も利光は神棚に向かって二回の礼と二回の拍手、そして一回の礼を済ませた。

 ――本当に、この世の中に神様なんているのかぁ?

 昨日一昨日と四日が過ぎても、ミラクルヒダカは一向に回復する気配がない。ずっと、温かい馬小屋でボーっと寝ているだけなのだ。これまで、そんなことはほとんど無かった。低体温症などがあっても、に三日ですぐに回復し、また走っていた。

 何かがおかしい。これは、ただの低体温症ではない。

 という考えが利光の頭の中心部分にあったが、そのたびにそんなはずはないと片隅へと追いやっていく。それの繰り返しが馬小屋につくまでの道程の中で何十回も続いていた。


「あ、お父さん、おはよう」

 やはり、これまでずっとミラクルヒダカを見てきた睦美も最近は元気がない。明日から学校だというのに、このままではしばらく休んでしまうのではないかと不安になる。

「お父さぁん、ミラクルヒダカはぁ治るのかぁ?」

「お、愛子じゃねぇか。珍しい。とちゅーはんぱに来るなら毎日こりゃ良いのにさ」

「だってぇ、受験勉強があるじゃねぇかぁ。いろんな動物のことやるんだから、そんな毎日顔出せねぇさぁ」

 愛子は北海道の十勝にある酪農高校へ通うつもりらしい。その高校は酪農の大学の付属校のため、高校大学の合わせて七年間も酪農を学ぶことができる、というわけだ。

「まあ、そういうわけでなぁ、分からん。今日はもうすぐマルティネスさんが見舞いに来る。ちょうど入れ違いくらいで、十二時から獣医さんが来てくれるそうだぁ」

「マルティネスさん? やった!」


「ブルブル、ブルブル」


 と、これまでほとんど何のシグナルも送らなかったミラクルヒダカが弱弱しいが、確かに鼻を鳴らした。

「あ、ミラクルヒダカ、マルティネスさんが来るって言って、嬉しいんだなぁ」

「ブルブル、ブル」

「よし、もうすぐマルティネスさん来るからねぇ?」

「コンニチハ、ミナサン」

 と、丁度その時にマルティネスさんが来た。マルティネスさんはスペイン出身の騎手でハンサムでほどよく焼けた顔がカッコいい人だ。GⅠではまだ優勝経験はないが、GⅡでは豊富な優勝経験と知識がある。

「ミラクルヒダカ、ダイジョーブデスカネ?」

「ああ、マルティネスさん。まだ分からない。ちょうど、今十時だが十二時にお医者さんに来てもらう予定なんだぁ。その間、まあ、何だ? ざんぎでも食っとけ」

「オー、ザンギ、ダイスキデス。デスガ、クルシンデイルミラクルヒダカノマエデ、ザンギナンテタベレマセーン」

「そうか……じゃあ、ちょっと寄り添ってあげてくれ。本当にざんぎいらねぇんだなぁ?」

 利光の父、享利たかとしが大八木牧場で育った鶏肉を揚げたざんぎは本当にジューシーだから、マルティネスさんの好物なのだが、この口ぶりから彼のミラクルヒダカへの愛が感じられる。




「ソレデハミナサン、サヨーナラ。マダエネロデスガ、シッカリナオシテフェブレロニ、ミラクルヒダカトハシレルヒヲタノシミニシテマース」

 エネロとフェブレロはそれぞれスペイン語で一月と二月という意味だ。

 マルティネスさんはゆっくりとした足取りで戻っていくが、その肩は落ちていて、姿勢が丸くなっていた。

「……さて。あと十分くらいで獣医さんが来る予定なんだが……」


 そのまま二十分くらい待つと、やっと獣医さんが来た。

「すみません遅れました。ちょっと雪用タイヤがパンクして普通のタイヤで来たんですよ」

 この獣医さんは大野おおのさんと言い、愛子が進学する予定の高校の教師でもある。

「さぁ、ちょっと診ましょうか……」

「……ブルブル」

 コチラにヘルプを求めるように見てくる。病院嫌いのミラクルヒダカだが、ここは頑張ってもらうしかない。

 大野さんは口の中や目など様々な部分を見て回る。

「あぁ……低体温症になったということですが」

「そうです。プール調教をしていて……」

「急激に体重も落ちたんじゃないかと思います」

「はい、そうですね……先生、これは何なんですか? すぐ治りますよね?」

「……多分、これは馬インフルエンザかと思います」

「え? 馬インフルエンザって……? 本当ですか、それならあと一、二週間で治るんですよね?」


「……それが、少々まずいかもしれません」


「は?」

「このウマは少し重症かもしれません。まあまあ年も行ってますし……時期的には恐らくレースに出られるかと思いますが、問題はリハビリです。長い間寝たきりで、そのまま調整するのはかなり難しい。ベストコンディションで出られない可能性が現時点では高い、と思っておいてください」

「……ウソ、ですよね?」

 ――ベストコンディションで、出られない? 何をバカなことを言っている。うちのミラクルヒダカが、そんなはずがないじゃないか。

「……非常に、残念ですが……」

 利光がバタッと倒れた。

「そ、そんなの、ウソだ……」

 涙がジュワッと溢れてくる。

「そんな、ミラクルヒダカが優勝できないなんて、そんな……」

 大野さんも、睦美も、愛子も、ミラクルヒダカも、誰もがこの状況を呆然と見守るしかなかった。




 その日からも、利光は毎日馬小屋に通うのをやめなかった。

「よぉ睦美ぃ。おぉ、ミラクルヒダカ、元気そうじゃねぇか?」

「え? 全然そうは見えないでしょ? もしかして、酔ってるんじゃないかぁ? 酒の臭いがプンプンする」

「んなわけねぇじゃねぇかぁ」

 そう言いながら、倉庫に飼料を取りに行くが、どう見ても足取りがおぼつかない。

「あぁ、ミラクルヒダカぁ。今度こそ優勝だぁ。なぁ?」

 なんと、容器に入れず干し草に直でエサを出した。

「……ブル、ブル」

 彼女も怪しげな目で利光を見返している。

「あぁ? 早く食べなぁ。ホイホイ」

「お父さん! そんなにお酒飲まないで! ミラクルヒダカも戸惑ってるよ!」

「あぁ? なんだ、酒ってぇ。睦美も早く学校に行かなきゃなぁ。遠いからさぁ」

 睦美の魂の叫びは全く届かない。

 そして、悲劇は起きた。




 一月二十三日。

 急に部屋に、修行中の生吹いぶき君が入ってきた。

「睦美さん! 早く前の道路まで出てきてください!」

「ん? どうしたの?」

「利光さんが! 利光さんの運転する軽自動車がトラックと衝突して、今利光さんんが、危篤……あ、あの、ひとまず早く……」

 体の力が、一気に抜け、睦美の頭が、グラリと傾いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る