肆拾陸・毒可食加
「キャッ、舐められた」
「ハハハ、めんこいべ。この牛たちはマリア様だぁ。たくさんの牛乳をくれて、わしらに儲けをくれる。わしらはこのマリア様達にすべてを捧げねばならん。このマリア様達人をベロンと舐めてくれるのはな、彼女がわしらを信頼してくれてる証なんだべぇ」
源藤さんは銀縁眼鏡の奥のしわしわの目を細くして、感慨深げに語った。
「まりあ様って? めんどくさいんですか、この子たち。お世話大変なんですか」
「そりゃあなまら大変だべ。だがなぁ、本当に立派に育って、たくさんの牛乳を出してくれる。日本の乳牛はどんどんおらんなっとる。気候変動もあってな。だが、絶対に引き継がなきゃいけねぇんだぁ。分かるか?」
ちょっと悲しげに源藤さんはこちらに目配りする。
「分かります。あの、めんこいって……」
「おぉ? あぁ、そうかぁ。本土の奴らにも良く言われるわなぁ。めんこいってのはな、北の言葉で可愛いってことだべ」
「あ、そういうこと……なまらっていうのは?」
「たくさん、ってことだべ。あ、で、マリア様のことだったなぁ。マリア様は牛さんたちのことだぁ。わしらにたくさんの恵みをくれる子たちのことだべ。尊い命だからなぁ、わしはわしらを守ってくれるキリスト様の生みの親、つまり命の母でもあるマリア様の名前を借りているんだぁ」
きりすと様? まりあ様? 命の母ということは神様なのだろうか。そう言えば、厚い胸板にかかっている、銀色の十文字のネックレスは何なのだろう。
「そうだぁ、乳、搾ってみるか?」
「ちち? お父さんですか?」
「牛乳の元だぁ。なんだ、日本に来てまだそんなに立ってねぇか、よく出来てる方だと思ったがなぁ、まだまだだぁ。方言なんて余計分からんべ、ハッハッハ」
な、何を愉快がっているのかはさっぱりわからないが、良い体験をさせてもらえることは間違いないらしい。
「おぉー
室内の“ぎゅーしゃ”というらしい建物の小さな小さな部屋に私は招かれた。中では青い作業着にFと書かれた水色のキャップを被った青年がほうきで干し草をはいていた。
「あ、父さんお疲れ様! ……ええっと、こんにちは! お一人様ですか?」
「……ん?」
「あ、あなたに言ってます」
「あ、そうでしたか? すみません、わかりませんでした。あ、で、なんでしたっけ」
「お一人様ですか?」
「はい」
「へぇ……」
と言って私の体を舐め回すように見てくる。
「どうしました? なんか変な服装ですか?」
「あ、いえいえ、ちょっと一人で牧場に乳しぼりに来られるって珍しいなぁって思って……」
そうなんだろうか。失敗しただろうか。怪しまれているのだろうか。
「あのな、源次郎、この人は、なんかの事情を持ってここに来られた方らしいんだぁ。まぁなぁ、わしのそういうことはよくあることだろう? ここも一つ、頼む。ロコミで広めてもらえばいいだろぉ?」
「あのね、何度も同じ会話したと思うけど、“ろこみ”じゃない、“くちこみ”。分かった?」
――アレ? 日高の言葉じゃない。
「こいつはなぁ、本土の出身なんだべ。だから、標準語なんだぁ。分かったかなぁ?」
まるで私の心を読んだかのように言う。
「ま、ひとまずやってみなぁ」
「モーン」
やってきたのは一匹の牛。白黒の牛だ。
「こいつはなぁ、一番最初に一緒にいた牛だぁ、ほら、あんたをなまら舐めてたウシだべ」
「え? なんで分かるんですか」
「キャンキャン!」
「おわ、犬の鳴き声。どこから……?」
まさか、この小さな小さなポシェットに入っているマカロンというイヌです、とは言えない。
「まあ、いいや。それも何かの事情だろう。で、だな。この子は一番最初に舐めてくれたマリア様だ」
「あぁ、あの子! え、この子も牛乳出せるんですか?」
「そうだべ、はい、源次郎、こっからは説明しろ」
「はい、ええっとですね、まずね、ウシさんのお乳は四本あります。ここで売っている牛乳は二種類あって、一つは機械で一斉に絞っているもの。もう一つは、少ししか回っていないもので、ここに乳しぼりに来てくださったお客様と、私どもが毎日一回行う乳しぼりで出来た牛乳を合わせた、その名も『人情ぎゅうぎゅう乳』です」
「へぇ」
いいネーミングですね、と続けようと思ったらウシがブホワッと鼻息をかけてきた。
「ハハハ。まあ、なので三分の二はお客様に差し上げ、三分の一は私どもが使わせていただきます。ご理解をよろしくお願いします。それでは絞ってみましょうか」
素早く源藤さんが動き、バケツを持ってきた。
「それでは行ってみましょうか。はい、今から搾るからな」
と、言うとピタリとウシは止まった。
「まずは、ウシさんの乳首の根本をしっかり、親指と人差し指で輪っかを作るように握ってみてください」
言われたとおりにやってみる。
「……あったかい」
ジワジワと、ほんのり、人間の手のような柔らか味を持った温度が伝わってくる。
「ムォーン」
「で、次に中指、薬指、小指と順番にお乳に手を添えてください。はい、オッケーです。それでは、ギュッとウシのお乳を搾ってみてください!」
ムニュッ
握ってみるとすぐに、勢い良く白い半透明な液体が飛び出してくる。
「……すごっ」
「はい、そのままどんどん搾っていきましょう。もう出なくなったら次のお乳を同じようにやっていってください」
楽しい時間はあっという間に過ぎ、バケツに牛乳が溜まった。
「これ、もう飲めるんですか?」
「いや、残念ながら飲めないんですよ。ちょっとこれから殺菌処理とかしないと安全じゃないので……」
なら、飲めるようにしようか。ちょっとだけ。
「魔術覚醒――毒可食加」
ヴェフ!
「あれ、何か聞こえました?」
「え……気のせいです」
――やっぱ、そうだよね。
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