肆拾漆・言動獣録
この場ですぐに飲もうと思ってしまった。
でも、リックが止めてくれて助かった。そんな魔法なんか使って、本当の美味しさ――命のきせきが生んだ味――を味わうことができないところだった。
そんな、そもそもこの素晴らしい世界に別のものを持ち込むことはルール違反なのだ。そこはもっともっと、勉強しないといけないかもしれない。ひょっとすると、これからはこの二つの世界を行き来したりして――?
「……ほい、OKか? なんか質問とかないかぁ?」
「あ、ええっとそうですね、なんでこの牛乳はそのまま飲むことができないんですか?」
「……どうだ?」
源藤さんは少し考えこむと、すぐに源次郎さんにバトンを渡した。
「ええっと、搾りたての牛乳は脂肪球っていうのがいっぱいあって、ウシさんは飲めるんですけど人間は飲めないわけなんですよ。売っている奴はさっきも言ったように殺菌と、それと脂肪球をコントロールして下痢しないようにするわけなんです。あとは、細菌もいっぱい、例えば大腸菌とかそういうのがいっぱいあるんでね……まあ、つまり飲めないことはないんですけど、飲まない方がいいんです」
「ほえぇ……あ、それと源次郎さんはなんで日高の言葉じゃないんですか?」
と、源次郎さんはビックリしたような顔をした。
「ええっと……そもそも、なんで僕の名前を……?」
「……あ、えと、それはその、源藤さんがずっと源次郎源次郎って呼んでたので……」
「あ、そういう。ええっと、これはまあ僕が北海道出身じゃないからですね。ま、詳しくはおじさん説明してください」
「……ああ、それはこの複雑な家系のせいなんだぁ。結構いろいろなものがあるからな。話は長くなってしまうが。まあ、これはさすがにうちの家じゃない人間には話さないでおこう」
「えーっ」
わざとエマは肩をすくめる。
「……どうしても知りたかったらぁ……」
ニヤリとほっぺの皺を深くして、源藤さんはポン、と私の頭を叩いた。
「この源次郎と、結婚することだべ」
「まあ、そういう感じで良質な高地の牧草と、お山から湧き出す水と、音楽を流すことが大きいなぁ。うん、いい環境で暮らしてるわけだから、良質な牛乳を出してくれるんだべ」
「ほぉ……」
言動獣録という、言動を異世界獣、ここではリックに覚えさせる魔法を使って、源藤さんが言うウシを育てるテクニックを記録する。
この魔法は、文章獣録や風景獣録などなど、様々な場面に応じて形を変えて活躍してくれるのだ。
「お、お次の場所が見えてきた」
今度は王宮の馬小屋ほどの大きさの三角屋根の建物が三つある場所と草原だった。ウシほどではないが、そこそこ広いそこには黒い点とピンク色の点がたくさんある。
「ブヒィッ」
「ブゥッ、ブゥッ」
これは初めて聞く声だ。ウシやウマ、ヒツジはドワーフ王国にもいるのだが。
「あそこはな、ブタの飼育スペースだ。まずは、子豚の飼育舎に入ってみるか」
三つ並ぶ三角屋根の小屋のうち、一番草原に近く、面積が小さい小屋の扉を開ける。
「あれ、もう一つ扉があるじゃないですか」
「北海道ではよくあるもんだぁ。こっちはしばれるから、二重の扉を使う。今は夏だからそれほど寒くはないが……」
「へぇ、そうなんですね」
言いながら二つ目のスライドドアを開ける。
と。
「ブヒィィィィッ!」
「ブヒ、ブヒ」
「ブォォッ、ブォォッ」
「え? え? え?」
なにやら、ピンク色の生き物がたくさん……。
「このプリンセスたちはブタだぁ。肉にするために飼ってるんだべ」
「へえ」
「彼女らはまだ子供でなぁ、子供はできるだけ、栄養分の少ない質素なえさを与えてよく運動させる。そうするといい赤い肉ができる、というわけなんだぁ」
し、か、も、と源藤さんは三本指を立てた。
「ブタの毛をうちはたくさん、末松屋本舗っていうとこに出店してるんだがなぁ、豚毛は良いブラシになるんだ。ペット用でもそうだし、人間の髪の毛では静電気を起こさないから、本来の人の髪のツヤを作ることができる、って言うわけなんだぁ」
ドヤァ、と源藤さんは口角を上げ、腕を組んだ。
「なるほうわぁぁぁぁぁぁ!!」
と、思うと急に黒い子豚がロケットみたいな勢いで飛びかかってきた。
「ブフッ、ブフッ、ブヒィッ!」
「うわ、ちょっとちょっと……キャッ!」
子豚ちゃんは服の上で必死に足をバタバタさせて顔をペチャペチャペチャと舐めまくる。
「ハハハハハ、こりゃあもっと来るなぁ、クフフ」
源藤さんの不敵な笑みがそれを呼んだのかは分からない。
瞬く間に、私の足元はピンクと黒の動物と、ブホッブホッという鳴き声でおおわれてしまった。
「疲れたんですけれども」
「まあ、そうだなぁ。さんざんなぁ、可愛がられたもんなぁ。いやぁ、本当に動物って可愛いんだよなぁ。これをあっちに運ぶときは心が痛むんだなぁ。まあ、良い餌あげてるからなぁ」
なぜか少し悲しげに見えるのは私の気のせいだろうか。
「ひとまず、次はウズラを見に行こうかと思う。北海道で、これまでウズラを飼っている農園は一か所だけだったんだが、ほんの一年前にウズラにチャレンジしてみてなぁ。それで結構卵を産んでくれているんだぁ。北海道の水と、餌をくれる貝沢さんに感謝だなぁ」
「貝沢さんって何ですか?」
「貝沢さんは、
ウズラの飼育地は管理事務所の向こうにあるらしい。延々と続く青い草が生えた高地に、髪をさらりとなびかせる風。
先ほどのニワトリの場合、水や音楽、エサで様々なことが決まるらしい。ウズラの場合も同様だろう。
エマの頭の中では、どんなものを持っていけば二コラ応対氏が喜んでくれるかでいっぱいだった。
ドン
と、急に固い壁に頭がぶち当たった。
「あ、ごめんなさい……」
紅色と紺色のチェックのセーター。源藤さんだ。
「見ちゃだめだぁ、多分、なまらこわいと思うからなぁ……」
「何ですか? 怖い?」
さっと横にずれてみる。
気づけば管理事務所の前に来ていて、目の前にはトラックが止まっている。
「はい、じゃ、運んで行ってくださーい」
「冷凍オンにしてくれよぉ」
「おぉ、今回もやっぱり新鮮そうだなぁ。大八木牧場の豚は世界一だぁ」
木にくくりつけられて、ピンク色のものがだらんとぶら下げられて、大型トラックの荷台へと運ばれていく。
「ブタが」
源藤さんは何も言わない。
「死んだブタがトラックに乗せられて……」
血が垂れているブタや頭が取れているブタが順次トラックへ、冷徹な人間によって運ばれていく。
さらには、幸せそうな顔をした、黒い小さめのブタも……。
体温が日高の雪くらいにぐんと下がっていくのを、エマは感じていた。
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