弐拾捌・治癒包愛

 ***


「はぁ……」

 宝屋は溜息を一つ、テン君を眺める。

「キャンキャンキャン! キャン!」

 状況を理解できないおじいちゃん犬は私を励まそうとしてくれているのか、尻尾を振って明らかに広すぎるゲージを駆け回る。

「何でや……」

 と、扉が開いた。

「宝屋、院長室に来い」

 静かな顔をした心造が言った。

「はい……」

 テン君がコチラに駆け寄ってきた。

「クゥン、クゥン」

 ペロペロとゲージに添えていた手を舐め、足でトントンと励ましてくれる。

「……ありがと、テン君」

 宝屋はスッと立ち上がった。

「大丈夫や、私は正しいことをしたんやから」

 自分に言い聞かせるように一人言う。

「キャンキャン!」

 その鳴き声に後押しされるように、宝屋は動物のロッカールームから出て、院長室へスタスタと歩みを進めた。


「来たか」

 院長は自室兼院長室でマッサージチェアに座っていた。

「宝屋」

「はい」

「何であんなことを言った?」

 東京から移転してきた院長は標準語でまず初めにそう問うて来た。

「シルクで何円うちの夜ご飯が粗末になるのか分かってるのっって彼女、由奈ちゃんは言いました。まるで命のことを軽んじているかのような言論です。取り乱したのは悪かったと思いますが、あそこはこれからを担う人材に言うところだと思って言いました。ワンちゃんはお人形ではありません」

「……そうだ、その通りだ。だが、君は貧困層の人間のことを軽んじているのではないか? 彼女たち一家は苦しい家計の中、およそ五年もシルクちゃんを手放さずに生きてきた。これで手術をするんだ、そりゃあ苦しいだろう。もっとも、うちも金が有り余っているわけじゃない。金はとらなきゃいけない。だがな。最終的に判断するのは患者さんの飼い主さんたちだ」

 ――分かってるよ、それぐらい。

 宝屋は内心毒づいた。

「犬の立場になって考えてみろ。貧困にあえぐ飼い主の財布の金を消し、さらに苦しませる。それまでのことになって自分のことを救おうとする。犬はそれで喜ぶか? 手術をすることだけが選択肢じゃない。結石の回復はあとで傷も残る。君は犬は懸命に生きようとしているから手術しなきゃいけないと思っているかもしれない。だがな、私は犬も何らかの感情を持っていると思うんだよ。そこはよく考えてみてくれ」

 ハッとした。

「……私は間違えていたんでしょうか。患者さんに手術を押し付けるような、押し売りして」

「押し売りじゃないだろう。命は売り買いするものではないというのは君が言ったのだろう? 手術を進めたことは立派だ。命の大切さもしっかり伝えてくれた。その信念は評価する」

「え?」

「そうだろう。命を人形とみなさない精神は一番大事だ。何も病院を首にするなど言ってるわけじゃないんだ。ただ、患者さんに対してあのいい方はない。看護師は医師、ペット、飼い主の心を繋ぐ仕事なんだ。飼い主さんの心を繋げなければ本来の役割をしていないことになる。ただそれだけだ」

 一呼吸おいて、心造は言った。

「私はな、東京に居るころ、一度ネコが連続で殺害された事件に合った。悲しかったよ、あの惨状は。それを見て、私は命を軽んじているやつを心から恨んだ。君も一緒だ。……反省はしたか?」

「はい」

 小さな声で返事する。

「……そうか。なら、引き続き頼むぞ」

「え? 良いんですか?」

「当たり前だ」

「……ありがとうございます!」

 心造はヒョイと手を上げ、話は終わりだとばかりに、マッサージチェアのスイッチを押した。


 ***




「何だ、院長いい人じゃん。普通に。猫が連続で殺されるって……」

 まるで、ドワーフ王国の現在じゃないか。

「この人いいなぁ。けどさ、結局これ手術するの? 高い手術費で。それか、そのままアンラクシってやつをするのかな……」

 アンラクシ、という言葉を口にした時、ふとニカを向いてしまった。

 寒さに震えている足が取れた小ガニ。それでも、懸命に生きている。助からないかもしれないけれど、それでも最後の最後まで生きようとしている。最後は私に見守ってほしいのだろうか。

 治癒包愛という回復魔法があるが、使っていいのだろうか。ニカはそれを望むのだろうか……。

「ヴェフォン!」

 と、急にリックがわめきだした。

「え? どうしたの?」

「ヴェヴェヴェヴェヴェ!!」

 もはや何を言っているのか分からないが、ひとまずマズいということは感じて、鏡に目を戻す。と、写っているのは倒れた犬の姿だった。




 ***


 帰ってきた直後のことだった。

「ギャンギャンギャン!!」

 ロッカールームから声が聞こえる。この高いけたたましい声はテン君だ。だが、なにか様子が違う気がした。

「……何?」

「グェボボボ」

 と、鳴き声が鳴りやんだかと思うと、ものすごいグロテスクな音が聞こえたのは数秒後だった。

「待って、ヤバいかも」

 急いで駆けつけてみる。すると……。

「え……テン君?」

 スペースが余り過ぎているゲージのド真ん中にいるぐったりとしたテン君。

「グェェェブボボ」

 ものすごい、吐いていた。

 腫瘍のせいで貧血なのか、そこに倒れている。

「グェホッ、グェホッ……ゲボ」

 咳と嘔吐を繰り返している。これは危ない状態かもしれない……!

 宝屋は急いで携帯を取り出し、たった今さっき会った院長にかけた。

「もしもし! 院長! 英秀さん所のテン君が今、吐いています! 倒れていて、咳もアリ。多分結構危ない状況です。すぐ来てください。はい、分かりました。連絡します。それじゃあお願い……待ってください……今、テン君が気を失いました……」


 ***

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