異常をきたす、熱
「葉月さん、朝食の用意ができました」
ドアの向こうから使用人の声が聞こえる。それに適当に返事をして、私はため息をついて渋々制服に袖を通してリビングに向かった。
「……おはようございます」
「葉月、今日から高校生だというのに気が緩んでいるんじゃないか。これからは中学の頃のようなことは無いようにするんだぞ」
「…………」
父は新聞から顔を上げず私の顔を見ないまま話し続ける。私が睨んでいることも知らずに。
「だいたい、雪翔が余裕を持って合格した高校に入るのに苦労する時点でおかしいんだ。本来ならもっと上を目指して……」
そこまで言ったところで、隣に座っていた兄が立ち上がり話を遮った。
「父さん。それより昨日言ってた会議の件、考えたほうがいいんじゃない? 俺も軽く資料作ったから、後で見といてよ」
兄の言葉で会話は変わり、私はそのまま朝食を食べ終えることができた。
「金田さん、ごちそうさまです」
「はい。ありがとうございます」
使用人に挨拶をして部屋に戻ると、後ろから雪翔に話しかけられた。
「父さんは相変わらずだな。別に高校なんてどこ行っても変わんないと思うけどね」
「それは雪翔が選べるくらい学力があるからだろ」
「そういう意味じゃなくて。葉月も無理して俺と同じ高校受けなくてもよかったのに」
雪翔は優しさでそう言ってくれているのだろうが、それを受け入れられるほど私は大人にはなれない。返事をしないで立ち去ろうとすると、雪翔がさらに続けた。
「あ、もしかしてお兄ちゃんと一緒に学校行きたかった? 何だよー、それならそう言ってくれればいいのにな。ちょっと待ってろ。俺もすぐ支度して……」
ごちゃごちゃ言ってる雪翔を無視して、私は家を出た。
永野家は祖父の代から続く衣類の輸入会社を経営している。父が会社を継いでからは更に事業を拡大してファッション雑誌の編集やアパレルショップの経営を行う子会社も作られた。
兄にも会社を継がせる準備をさせていて、既にアルバイトという形で仕事を手伝わせている。
私はというと、そんな優秀な雪翔とは違い父の仕事のことは避けていた。何がそんなに気に入らないのか自分でも分からないが、とにかく向かい風を受けていないと歩いている実感が得られなかった。
――――――
「新入生代表挨拶。新入生代表、染谷天音」
名前を呼ばれた生徒が壇上に立ち、この学校で頑張りたいということを伸ばした文章を読み上げる。この次には在校生代表として雪翔が挨拶を行う。それを聞く気にはなれず、私は真面目に並んでいる新入生の列を割って、先生に体調が優れないと伝え保健室に行く許可を貰った。
ちょうど雪翔が挨拶を始めるところで、それを歓迎する新入生の拍手の音を背に私は体育館を出た。
「今年の新入生は身体の弱い子が多いのかしらね」
保健室に入ると先生にそんなことを言われた。どうやら先客がいるらしい。カーテンの向こうのベッドから微かに寝息が聞こえる。
本当に体調不良なのか、私のようにサボっているのか。どちらにしろ私には関係ない。窓から差す春の陽気から身を隠すように布団を被り、私は眠りについた。
大変、まずいことになった。
「お待たせいたしました。こちら、ブレンドです」
コーヒーを持ってきた店員さんに顔を上げないままお辞儀をしたせいでめちゃくちゃ深々と頭を下げた形になってしまう。しかし顔を上げることはできない。顔を下げたまま九十度右を向き、不自然なほどに窓の外を見る。何も無い。向かいの住宅の壁を穴が空くほど見つめる。
「天音がまさかこんな近くに店を出すとはな」
「私も驚いたよ。葉月とこんな早く会えるなんてね」
申し遅れました。私は天崎伊織です。決して今の会話を聞いていて名乗ったわけじゃないです。話は数分前に遡り……
――――――
「ここか……」
美怜がバイトを始めると聞いたときは、お金のことなら私が何とかすると思った。が、美怜曰く社会に慣れたいということらしく、両親も納得しているということで引き下がった。しかし大切な妹を預ける場所のことは知っておきたく、美怜がバイト先に選んだ喫茶店を美怜がいない時間、平日の昼間に訪れた。なぜこの時間を選んだかというと、美怜がいる時間に行くと私が美怜がいる時間を狙ってわざわざ来たみたいになると良くないと思ったからだ。そういう長い前置きがそもそも気持ち悪いとかそういう話は置いといて。
外観はいかにも個人の喫茶店という具合で、人によっては入りづらさを感じるだろう。しかし私はこう見えてそういうお店ほど得意だ。逆に賑わっているチェーン店のほうが苦手だったりする。
「どれ、お手並み拝見……」
ドアノブを引いて店内に入ると、コーヒーの香りが流れてきた。内装はレトロな雰囲気がありつつしっかり綺麗だ。
「いらっしゃいませ。こちら、どうぞ」
若くスラッとした店員さんが席に通してくれた。この時点で雰囲気の良さにかなり好印象を持っていたが、直後にお手洗いから出てきたお客さんの顔を見てそれどころではなくなってしまう。そこにいたのは私が住んでいるアパートの大家さんである、永野葉月さんだった。
このときの私の反射神経は凄まじく、大家さんを視界に捉えた瞬間に私は顔を伏せた。幸い気づかれてない、はず……。
別に知り合いなんだから隠れないで声をかければいいじゃないかと思われるだろうが、もうこれは癖なのだ。街中で知り合いを見つけると反射で隠れてしまう。そして一度隠れると出るタイミングを見失う。そして、今に至る。
盗み聞きをするつもりは無いのだが、静かな店内では嫌でも二人の会話が耳に入ってしまう。こうなったらコーヒーを一瞬で飲み干してお金を置いて逃げるか。いやそのほうが怪しまれるか……
「桜来、大きくなってたな。履歴書で名前を見るまで気づかなかったよ」
「そりゃそうだろ。最後に会ったのが二歳の頃なんだから」
必死で別のことを考えようとするが会話が聞こえるとどうしても思考がそれに引っ張られる。桜来、とは宮下さんのことだろう。あの店長さんは宮下さんが二歳の頃に会ってるということか。しかもそれを大家さんも知ってる。
「永愛も元気にしてる?」
「……ああ。桜来が、面倒見てくれてるからな」
一体、この人は宮下さんたち姉妹とどんな関係なのか。いつの間にかそれで頭がいっぱいになっていた。
「それでね。私もただ理由もなくこっちに戻ってきたわけじゃないんだよ」
店長さんの発言で空気が変わるのを感じた。私は次の発言を待ち息を呑んでいたが、店長さんの言葉を遮るように大家さんのほうが先に口を開いた。
「いや、その前に……伊織ちゃん、こっち来いよ」
「へえっ!?」
突然名前を呼ばれて声が裏返ってしまう。恐る恐る顔を上げると、大家さんがニヤニヤとこちらを見ていた。
「あ、あー。大家さん、いたんですか。全然気づかなかったです……」
「いやそれは無理があるだろ……」
ヘラヘラと笑いながらグラスを持って大家さんの隣に座る。店長さんは私の事を知らないらしく不思議そうに見ていた。
「葉月、この子は?」
「うちの部屋を貸してる天崎伊織ちゃん。桜綾の後輩だ」
桜綾さん。聞き覚えの無い名前だ。そもそも私に先輩の知り合いなんていない。
「天崎、って……ああ、なるほど」
店長さんは何か納得した様子だが、私は全くピンと来ない。
「えっと、桜綾さんっていうのは……?」
「桜来と永愛の母親で、私と天音の同級生」
――――――
「はぁー。めんどくさいことになったわね」
お昼、四人でお弁当を食べていると遥香が大きくため息をついた。
「遥香ちゃん、どうかした?」
「文化祭。わざわざ合同で演劇なんて……めんどくさいったらないわ」
そう。今回の文化祭は私たちのクラスと美怜たちのクラスの合同で演劇をすることになった。なんでも、両クラスの文化祭実行委員が同じ中学で仲がいいらしい。
「遥香は演技得意でしょ。いつもみたいに猫かぶってたらいいじゃん」
軽く意地悪を言うと、遥香の眉間にシワが寄った。
「まあ、桜来よりは上手いでしょうね。だいたい、いつも仏頂面で接客のバイトなんか出来てんの?」
「遥香、自分がまともに接客出来てると思ってる? 笑顔がわざとらしいって、きっも明雪さんも引いてるよ」
「そ、そんなわけないでしょ!? 綾乃さんはいつも褒めてくれるんだから!」
「ご飯食べてるときに喧嘩するな。二人とも」
ヒートアップしてきたところに亜衣が割って入り、お互い口を閉じる。
「実際、私や遥香はバイトのシフトを減らすわけにいかないしあまり表立って参加は出来ないだろうが、美怜と桜来はどうするんだ?」
「私はせっかくなら文化祭のほうを頑張りたいかな。お姉ちゃんにも来てほしいし」
来てほしい人。自分が何かを頑張って、それを見てほしい人なんて今までいなかった。褒めてくれる両親なんて、いなかったから。けど、今は……
「桜来は?」
「……私、今まで行事とかまともに参加したこと無くて。けど、亜衣と美怜と……遥香のおかげで、最近学校が……ちょっと、楽しくて。バイトも、美怜に誘ってもらって、初めてで全然出来ないけど、店長さんもいい人だから……」
頑張りたい。それを、見てほしい。永愛に、永野さんに。そして……明雪さんにも。
「どっちも、頑張りたいなんて……わがまま、かな」
まだ自信が持てず、俯きながらそう言うと美怜が私の手を取った。
「そんなことないよ! 私、応援する!」
「まあ、そこまで言うなら仕方ないわね……」
「素直に言えよ。遥香、目が真っ赤だぞ」
「みんな……ありがとう」
明日に希望なんて持てなかった私の人生に、光が差したような気がする。私も、楽しんでいいんだ。
――――――
「文化祭?」
バイト先の店長にも文化祭のことを話した。美怜はそのためにシフトを少し減らすこと。私は通常通り働くということを伝えた。
「演劇をやるんです。もし時間があったら店……天音さんも、見に来てください」
ここの店長は「店長」と呼ばれることを嫌がり、名前で呼ばせようとしてくる。美怜は何とか頑張っているが私はまだ恥ずかしくて呼ぶことを避けている。
「へえ。桜来はシフト減らさなくていいの? うちは全然大丈夫だけど」
「大丈夫です。全部、頑張りたいので」
私がそう言うと、店長は少し目を開いて私を見た。私、というよりその向こうの何かを見てるような目だ。店長はたまにそういう目で私を見る。それを見る度、私は永野さんのことを思い出す。
「あんまり、無理しないでよ」
「ありがとうございます。でも……私、お世話になってる人がいて。妹と住んでる部屋を貸してくれてる人なんですけど、昔から色々面倒見てくれてて。そういう恩返しとか、全然してこなかったので、これからは、していきたいなって……」
話してから、何をバイト先の店長にこんな身の上話を聞かせてるんだと急に恥ずかしくなった。
「す、すみません。行きますね」
慌ててホールに出ようとすると、店長に呼び止められた。
「桜来。……きっと、上手くいくから」
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