仮面の向こう

 ぐつぐつと沸くお湯の中にそうめんの束を入れていく。こういうのは大抵多く茹ですぎてしまうのだけど、何だかんだ食べてしまう。

 おかずにエビやナス、まいたけの天ぷらを揚げ、私は苦手だけど他のみんなのために薬味を用意して居間に向かう。いつの間にかテレビの音しか聞こえなくなっていた居間を見ると、葉月さんと永愛ちゃんが並んで眠っていた。二人ともふわりとウェーブのかかった茶髪なので、こうして見ると親子のようだ。

「葉月さん、こんなところで寝てたら風邪ひきますよ。永愛ちゃんも」

 揺さぶってみるが葉月さんは唸るだけで目を開かない。キャミソールから覗くお腹には無駄な脂肪が無く、かといって細すぎもしない健康的なものでやはり年齢が分からない人だなと思う。

 とはいえクーラーの効いた室内は寒いらしく、葉月さんは寝ぼけながら永愛ちゃんから温もりをとろうと抱き寄せている。

「……はづきー?」

 永愛ちゃんが目を覚まし葉月さんの名前を呼んだ。その声でようやく葉月さんの目がぼんやりと開いてきた。

「永愛……?」

 一瞬の静止の後、葉月さんは状況を理解したのかばっと飛び起きた。永愛ちゃんが不思議そうな顔をしながら続いて起き上がる。一部始終を見ていた私は思わず笑ってしまった。

「あ、綾乃ちゃん……。見てたなら起こしてくれよ」

「起こしましたよ。でも起きなかったんです」

「ああ、そうか……。悪い」

「いいですけど。何だか二人、そうしていると親子みたいですね」

 軽い雑談のつもりだったのだが、そう言うと葉月さんは少し困ったような顔をした。

「そう、か……。桜来、呼んでくるよ」

 桜来ちゃんの部屋に向かう背中を見送りながら、私は先程の発言が気に障ったのかと思った。が、葉月さんの反応はそれとは違うような気がした。

 お昼ご飯のそうめんを食べながら、ふと先日のことを思い出した。

「桜来ちゃん、神崎さんと知り合いなの?」

 神崎さんの家の前で桜来ちゃんと美怜ちゃんに会ったとき、神崎さんは何故かやたら焦って帰ってしまった。

「知り合い、というか……同じ学校なだけ、です」

「ふうん。顔見知りって感じ?」

 そう聞くと桜来ちゃんはさらに困ったような顔になってしまった。

「顔見知り、って言うのかな……? 知っては、いますけど」

「仲良くはないの?」

「仲良くはないです」

 そこだけハッキリ答えられて逆に驚いてしまう。神崎さんほど愛想のいい子なら知り合ったらすぐ友達になりそうなものだけど。

「神崎さん、すごくいい子だよ? 仲良くしたほうがいいと思うけど……」

「あいつがいい子? 明雪さん、本気で言ってるんですか?」

 桜来ちゃんの纏う空気がピリつく。前まではここで私もムキになっていたけど、そうするとまた不用意に刺激してしまう。ここは大人の対応をしよう。

「桜来ちゃん、そんなこと言っちゃダメだよ?」

 にっこり笑ってそう言うと、何だか自分がとても大人なような気がして優越感が湧いてくる。その時点で大人じゃない気もするが。

 しかし桜来ちゃんの反応が予想外で私は優越感など感じている場合ではなくなった。

「っ、は、はい……。ごめんなさい……」

 顔を赤くして目を逸らされる。それを見て、私は瞬時に泣かせてしまう、と焦った。優しく答えたつもりが逆に高圧的に見えてしまったのだろうか。

「い、いや、大丈夫だよ! 全然怒ってないから!」

 慌てて桜来ちゃんの隣に移動して頭を撫でる。しかし桜来ちゃんはまだ目を合わせてくれない。

「そ、そういうのじゃないです! ごちそうさまでした!」

 そう言い残すと、桜来ちゃんは自分の食器をさっさと片付け自室に戻ってしまった。永愛ちゃんも後に続いていってしまい、残った葉月さんに笑われた。

「綾乃ちゃんと桜来も、見てて面白いよ」

「面白いとかじゃ……。もっと普通に、仲良くしたいんですけど」

「桜来にはその普通が今まで無かったんだ。綾乃ちゃんに会ってからだよ。あんな色んな表情するようになったのは」

 そう言われると、悪い気はしない。どころか、かなり嬉しい。

「これからも、桜来に色々教えてやってくれ」

「ま、任せてください!」

 完全に調子に乗ってしまい、胸を張って答える。でもちょっとくらい調子に乗ったっていいだろう。それだけ頼ってもらえるのなら。

――――――

「明雪さん、ゴミ出し終わりました!」

「ありがとう、神崎さん。そしたら休憩行こっか」

 神崎さんの家に行って以来、ますます懐かれるようになった気がする。それはそれで嬉しい反面、桜来ちゃんの言っていたことが気になってしまう。

 一緒に休憩室で並んでお弁当を広げる。前から神崎さんがお弁当を持ってきているのは見ていた。親から持たされているのかと思っていたけれど、あの様子だともしかしたら手作りだろうか。

「神崎さんのお弁当、もしかして自分で用意してるの?」

「はい。家族のお弁当も私が作ってるんです」

「すごい、偉いね。早起き大変じゃない?」

「そうなんです。バイトで夜遅くなっちゃうと辛くて……」

 そうか。普段は学校があるから夕方しかバイトができないんだ。それで早起きしてお弁当を用意するなんて、本当に偉い。

 感心していると、隣に座っていた神崎さんが距離を詰めてきた。

「明雪さんみたいな頼りになる大人の女性、憧れちゃいます」

 神崎さんはそう言うと、私の肩に頭を乗せた。自然な仕草に何だかドキドキしてしまう。

「あの……綾乃さん、って呼んでも、いいですか?」

 上目遣いでそんなことを言われると、また鼓動が早くなってしまう。

 悟られないよう冷静なふりをして答える。

「うん。いいよ」

「ありがとうございます! ふふ、綾乃さん。お姉ちゃんができたみたいで嬉しいです」

 さらに私に寄りかかる神崎さんはやたらかわいらしい。本当に桜来ちゃんと同い年なのだろうか。

「あ、そういえば……。神崎さんって桜来ちゃんと知り合いなの?」

 桜来ちゃんからは曖昧な返答しかなかったけれど、神崎さんはどう思っているのだろう。聞いてみると、神崎さんも一瞬顔が強ばったが、またすぐ笑顔に戻って答えた。

「隣のクラスで見かけたことあるくらいですね。この間は急だったのでちょっとびっくりしちゃったんです」

「そうなんだ。桜来ちゃんはあんまり仲良くないみたいなこと言ってたから、気になっちゃって」

 ただ関わりが無いだけということか。それなら納得だ。そう思っていると、神崎さんは目に涙をためて声を震わせた。

「私……人見知りなので、もしかしたら失礼な態度とっちゃったのかも……。嫌われちゃったのかな……」

「そんなことないよ! 桜来ちゃんはいい子だから、きっと仲良くなれると思う」

「ありがとうございます……。綾乃さんにそう言ってもらえると、嬉しいです」

 桜来ちゃんの交友関係が広がるのは良いことだと思うし、神崎さんのような子が友達になってくれたら私も嬉しい。

「よし! 私が桜来ちゃんと仲良くなれるようにしてみるよ!」

 胸を張ってそう宣言すると、神崎さんの表情が少し強ばったように見えたが、すぐ笑顔に戻り距離を詰めてきた。

「ほんとですか? ありがとうございます!」

――――――

 バイトを終え、スーパーで夕飯の材料を買い家に向かっていると、車道を挟んだ向こう側にガードレールに寄りかかる葉月さんの背中が見えた。声をかけようとしたが、誰かと話しているようだ。車の陰から見えたのはスーツ姿の男性だった。

 何の話をしているのか気になって見ていると、後ろから声をかけられた。

「綾乃さん、こっちこっち……!」

 驚いて振り向くと、香里ちゃんが口元に指をあてながら私の手を引いた。

「か、香里ちゃん、どうしたの?」

「しーっ。葉月さんにバレちゃいますよ」

 香里ちゃんに連れられるまま植え込みの陰に隠れ、そこから葉月さんたちの様子を見た。

「……怪しいと思ってたんですよ。葉月さん歳いってるって言う割に見た目若くて独身ですし」

「え、それって……あの男の人と葉月さんが、ってこと?」

「絶対そうですよ! きっとあの男の人に言い寄られてて、でも葉月さんは桜来ちゃんたちのことがあるからって断ってて。でもそれも綾乃さんに任せられそうだからもしかしたら……」

 香里ちゃんがみるみる早口になって話が飛躍していく。

「そ、そんなまさか……」

「あ、あーっ! 綾乃さん! ほら、車に乗り込んでますよ!」

 肩をバシバシ叩かれ指をさされた方向を見ると、確かに葉月さんと男の人が一緒に車に乗っていった。そしてそのまま車は発進し、私たちは取り残されてしまった。

「え、本当に……?」

「……すごいとこ見ちゃいましたね」

 他人の色恋にあれこれ口を出すべきではないなんてことは分かっているが、私たちは見てしまった秘密につい心が踊ってしまっていた。

 家に帰り夕飯の支度をしている間も葉月さんは帰ってこず、そのまま桜来ちゃんと永愛ちゃんの三人で夕飯を囲んだ。

「永野さん、遅いですけどどうかしたんですか?」

 夕飯を食べていると、桜来ちゃんから当然の疑問が出た。私は先程見てきたものを話すか迷い、何となく誤魔化してしまった。

「そ、そうだね。どうしたのかな」

 動揺を悟られないよう、私は慌てて話題を変えた。

「そういえば、神崎さんが桜来ちゃんに嫌われてるんじゃないかって心配してたよ」

「……なら、そう思わせておけばいいんじゃないですか」

 途端に桜来ちゃんの機嫌が悪くなった。その意地悪な物言いが少し気になってしまう。

「桜来ちゃん、相手のことをよく知らないうちから嫌ってちゃダメだよ。神崎さんともちゃんと話せば仲良く……」

 話しているうちに桜来ちゃんの機嫌が益々悪くなっていくのが分かった。こうなるとまたムキになっちゃうかな、と心配していると、桜来ちゃんも自分で気持ちを落ち着けようと思ったのか、息をたっぷり吐いた。

「……私は、明雪さんみたいにはなれないです」

 何か嫌味を言われるのかと思ったが、桜来ちゃんの口から出た言葉はどこか悲しげだった。そして桜来ちゃんはそのままごちそうさまを言うと、食器を片付け部屋に戻ってしまった。

――――――

 自分の部屋に入りドアを閉めると、そのままドアにもたれて座り込み頭を抱えてため息をついた。

 何で私はこうも感情を伝えるのが下手なんだろう。というか、明雪さんに対してだとすぐ感情が昂ってしまう。その理由を探ろうとすると、心の奥のモヤモヤした部分に埋もれてしまいそうで逃げてしまう。

 神崎遥香は都合のいい人間に対しては愛想を良くして取り入ろうとしてるんだろう。明雪さんもそれに騙されている。そう言えばいいのかもしれないが、私が言っても明雪さんは信じないかもしれない。むしろ神崎遥香を悪く言ったことでさらに怒らせてしまうかもしれない。

 明雪さんは、私よりも神崎遥香のほうを信用するかもしれない。そう思うと、モヤモヤしたものが膨らんでいくような気がした。



 悩んでいるとまた塞ぎ込んでしまいそうなので、次の日は永愛を連れて公園に遊びに来ていた。永野さんはあの後夜遅くに帰ってきてたようで、私たちが家を出るときもまだ寝ていて顔は見ていない。明雪さんに何があったのか聞いたが「ちょっと用事があったみたいだよ」としか教えてくれなかった。そのときの明雪さんは何故かやたら動揺していた。

 亜衣も美怜も用事があって、永愛と二人で遊んでいた。ボールを転がしたり、遊具で遊んだり。

 砂場で永愛が作る砂山を固めていると、永愛と同い年くらいの女の子が近づいてきた。しかし話しかけるでもなく、私たちのほうをチラチラと見ながらもじもじしている。

「……どうかした?」

 心配で声をかけてみると、その子は肩をびくっと震わせ、私を見た。安心させようと笑顔を作り近づいてみる。こういうときは笑えるのにな、とまた自分の感情表現に文句が出る。

「お姉ちゃん……」

「え?」

「お姉ちゃん……いなくなっちゃった」

 そう言うと、女の子の目はみるみる潤んでいって、今にも泣き出しそうになっていた。慌てて頭を撫でて安心させようとする。

「そ、そっか。大丈夫。私が探してみるから」

 そうは言ったものの、どう探せばいいのだろう。この公園は子どもを見失うような広さじゃない。ということはこの子の姉は公園にはいないということだ。そうなるともう無闇に動くのも危ないかもしれない。

 私が悩んでいると、永愛が女の子の手を引いて、作っていた砂山のほうに連れていった。どうやら手伝ってもらおうとしているらしい。女の子もそれで気が紛れたのか、涙が引っ込みせっせと砂山を固めはじめた。

 とりあえず焦って動かないほうがいいと思い、近くのベンチに腰掛けどうするか考えることにした。今頃、この子の姉が必死に探しているに違いない。以前、永愛が迷子になっときの心境を思い出す。あのときは気が気じゃなく、初対面の明雪さんを誘拐犯だと勘違いしてしまっていた。そう思うと、早くお姉さんに会わせてあげたいと思う。

 名前だけでも聞いておこうと近づくと、公園の外から声が聞こえた。

「遥輝!」

 声の主は走って近づいてくると、女の子の姿を見て安心した様子を見せた。しかし私はその顔を見て絶句していた。

「すみません、妹が迷惑を……」

 目が合って向こうも私に気づいたらしく、言葉を失っていた。そこにいたのは、神崎遥香だった。

「お姉ちゃん!」

 女の子は神崎遥香に嬉しそうに飛びついた。怪我が無いか心配する様は確かに姉に間違いないようだ。

「……あのさ、一応私たちが見てたんだけど、何かお礼とか一言無いの?」

 私のほうを見向きもしない神崎に尋ねると、不貞腐れたよな目で私を睨んだ。

「は? 何でアンタにお礼とかしなきゃいけないわけ?」

 本性を見せた。やっぱりこいつとは仲良くなんてできるわけが無い。

「永愛と遊んでたからその子も不安じゃなかったんだよ。せめて私の妹には感謝して」

 私がそう言うと女の子もそれに同調した。

「そうだよ、お姉ちゃん。とあちゃんが遊んでくれたんだよ」

 女の子が永愛と繋ごうとした手を、神崎が払った。

「遥輝、そんな子と仲良くしちゃダメだよ」

「ちょっと! 永愛には手出さないで!」

 咄嗟に神崎の手首を掴む。しかしすぐに手を振り払われて、また睨まれた。何でこんなに私のことを敵視してくるのだろう。

 お互い睨み合っていると、また公園の外から声が聞こえた。

「桜来ちゃん、神崎さん。どうしたの?」

 明雪さんだった。タイミングの悪さにため息が出てしまう。すると神崎は素早く明雪さんのほうに近づき、自分の手首を抑えた。

「綾乃さん、今宮下さんに暴力ふるわれて……。手首をぎゅって掴まれたんです……」

 別人のような猫なで声。こうやってあの男子や明雪さん等、自分にとって都合のいい人間を騙しているんだ。明雪さんも騙されて、私にあの目を向けるんだ。明雪さんには、信じてほしかった……。

 しかし、明雪さんの口から出たのは違う言葉だった。

「神崎さん、それ本当?」

 明雪さんは困惑した目で神崎を見ていた。

 予想外の反応だったのか、神崎は狼狽えている。

「ほ、本当ですよ。綾乃さん、私のこと信じてくれないんですか……?」

「信じてるよ。でも私の知ってる桜来ちゃんは意味もなく暴力をふるったりしない。だからもし神崎さんが何かしちゃったのなら、それもちゃんと聞かないと」

「明雪さん……」

 信じられてなかったのは、私のほうだった。明雪さんはこんなに私のことを信じてくれていたのに。

「……はあ、何だ。使えないじゃん」

 さっきまでの猫なで声が一転、私と話していたときの声色に戻った。明雪さんが驚いている。

「はいはい。すみませんでした。私が悪かったですよ」

「か、神崎さん……?」

「何かに使えると思って愛想良くしてたのに、案外めんどくさい人なんですね。綾乃さん」

 明雪さんは訳が分からず何も言えずにいるようだった。神崎はそれを冷めた目で見ると、女の子の手を引いてその場を去った。

「え、桜来ちゃん、あれ、神崎さん……?」

 涙目の明雪さんに、私は頷いて答えた。



「へえ。そりゃ怖い子がいるもんだな」

 夕飯を食べながら葉月さんに先程の話をした。本当に怖かった。あんなに可愛げのあった子が豹変して、あんなに冷たい目を……。

「……私って、騙されやすいのかな」

「そうかもしれないですね」

「桜来ちゃん、バカにしてるでしょ」

「そんなことないですよ」

 いつものように軽口を叩くが、その声色はどこか嬉しげだ。何だか桜来ちゃんの機嫌がやたら良くて、少し気が紛れる。

「でも、その神崎って子は何でわざわざそんなことしてるんだろうな」

「別に、ただ性格が悪いだけなんじゃないですか?」

「そうかな……。私はそうは思えないんだけど……」

 何か神崎さんなりの理由があってやっていることな気がする。だからといって、褒められることでは無いけれど。

「まだ騙されてるんですか?」

「ち、違うよ。ただ、もし理由があるなら解決させてあげたくて……」

「……さすがだな。綾乃ちゃんは」

 葉月さんがどこか遠くを見るように笑った。たまに、葉月さんはそういうときがある。私を通して誰か別の人を見ているような。

「それなら、急がないとな。その神崎さんとバイトの時間が被るのは夏休み中だけなんだろ?」

「あ……確かに。もうすぐで夏休み終わっちゃうんだ」

 夏休みというものから離れて長いので忘れていたが、高校生の夏休みはもうあと一週間程で終わってしまう。その間に神崎さんと会える回数はほとんど無い。その間に、何とか話を聞かないと。

――――――

 そう思っていたのだが、バイト先で出会った神崎さんは今までとうって変わって、全く私と関わろうとしてこなかった。

「神崎さん、そっちは大丈夫そう……?」

「はい。ゴミ出しも終わってます」

 今まで私に色々聞いてきてくれたのも神崎さんなりの会話のテクニックだったのか、何も言わなくても仕事が片付いていく。そうしてあからさまに避けられたまま、退勤時間になってしまった。

「あ、あの。神崎さん! 帰り、ちょっといいかな?」

「急ぐんで。ごめんなさい」

「歩きながらでいいから、ちょっとだけ……」

「……はあ。分かりましたよ」

 そう言うと、神崎さんは渋々頷いてくれた。本当に別人のようだ。

「言っときますけど、説教とかいらないんで」

 帰り道、神崎さんは早足で歩きながら冷たくそう言った。まるで出会った頃の桜来ちゃんのようだ。そのせいだろうか、放っておけないと思うのは。

「そんなつもりじゃないよ。ただ、何のためにそんなことしてるのかなって……」

「明雪さんに関係無いじゃないですか」

「そうかもだけど……。けど、もう他人じゃないし、心配なんだよ。ほら、この間も男の子に絡まれてたし」

「……じゃあ、何であのとき真っ先に私を信じなかったんですか」

 突然、神崎さんの足が止まった。あのとき、というのは桜来ちゃんとケンカになっていたときのことだろう。

「前にも言ったけど、神崎さんのことも信じてるよ」

「私のこともじゃなくて、私のことだけ信じててほしかったんです!」

 大きな声が住宅街に響く。そしてまたすぐ静寂が流れた。呆気に取られた私を見て神崎さんは自分が思ったより大きな声を出していたことに気づいたようで、慌ててまた歩き出した。

「……騙してたのは、すみません。今日はもう、帰ってください」

 私は神崎さんの言葉を受け止めきれず、去っていく背中をすぐに追えずにいた。しかし気持ちより先にこのまま別れたらいけないという直感が働き、急いで追いかけた。

「神崎さん!」

 角を曲がればすぐ神崎さんの住むアパートだ。走ってそこを目指すと、曲がった先にたしかに神崎さんはいた。いたが、何故かまた立ち止まっている。不思議に思い神崎さんに近づくと、その向こうに人が立っているのが見えた。

 以前、コンビニで神崎さんに絡んでいた男の子だ。

「……ど、どうしたの? こんな所で」

 神崎さんは以前までの柔らかい声を出そうとしているが、動揺しているのか少し震えている。

「遥香が全然家に呼んでくれねえからさ。この前ついていってみたんだよ。ここ、遥香の家だろ?」

 明らかにまずい雰囲気を感じて神崎さんの前に立とうとしたが、神崎さんに止められてしまった。

「……明雪さんが出てきたら面倒になります。私が穏便に済ませますから、黙っててください」

 そう言って男の子に近づく神崎さんの背中を見ながら情けなくも、私はその場から動けなかった。

「そうなの。あんまり綺麗な家じゃないから連れてくるの恥ずかしくて……ごめんね?」

「全然いいよ。俺、遥香の家なら別に気にしねえし」

「……お姉ちゃん?」

 神崎さんの声が聞こえてしまったのか、ドアを開け妹の遥輝ちゃんが顔を出した。

「……遥輝、出てきちゃダメ」

 神崎さんが小声でそう言ったが届かず、遥輝ちゃんは不安そうに神崎さんの元へ歩いてきてしまった。男の子の目に触れないよう遥輝ちゃんを隠しながら、神崎さんは声を震わせた。

「来てくれたのは嬉しいけど今日はもう遅いし、家も散らかってるから……また今度遊ぼう? 私、行きたいお店あるんだ」

「そんなん気にしねえよ。せっかくここまで来たんだから、部屋くらい見せてくれよ」

「ま、待って! ごめん、本当に、ダメなの……」

「うるせえな。いいだろ、ちょっとくらい」

 男の子の声が強くなる。助けないとと思うのに、足が動かない。

「お、お姉ちゃんを、いじめないで……!」

 いつの間にか、遥輝ちゃんが二人の間に立っていた。手を広げ、神崎さんを守ろうとしている。

「はあ? 何だよ、このガキ」

 男の子が遥輝ちゃんに向かって手をあげようとした。咄嗟に止めようとしたが、距離があって間に合わない。まずいと思ったが、男の子の手が遥輝ちゃんに触れることは無かった。

 神崎さんが、その手を掴んでいた。

「な、何すんだよ。遥香」

「……遥輝に、妹に、触るな」

 目つきが鋭くなり、別人のように声が低くなっていく。男の子もその変わりように驚いているようだ。

「お、おい。遥香?」

「妹に手出すなっつってんだよ! さっさと帰れ!」

 あまりの迫力に私のほうまで怯んでしまった。それを間近で食らった男の子はさらに大きな衝撃だったようで、負け惜しみのように舌打ちをするとさっさとその場を立ち去った。

「お、お姉ちゃん。大丈夫……?」

 遥輝ちゃんがおずおずと神崎さんの様子を伺う。私も心配で近づくと、神崎さんは突然頭を抱えて蹲った。

「うああ……。やっちゃった……」

「か、神崎さん……?」

「ど、どうしよ……。何とか冗談だったってことに……いやでもまた家に来られたらめんどくさいし……」

 何やらブツブツと呟いている。その蹲っている頭を遥輝ちゃんが撫でた。

「お姉ちゃん、かっこよかったよ」

 そう言われると、曇っていた神崎さんの表情が晴れ、笑顔を見せた。

 初めて見る、神崎さんの笑顔だった。

「……そっか。ありがと。遥輝」

「神崎さん、大丈夫?」

 今更出てきて声をかけるのも情けないが、心配が勝った。また嫌味を言われるかなと思ったが、神崎さんは吹っ切れた笑顔を見せてくれた。

「大丈夫です。……すみません。明雪さんにも迷惑かけて」

 その顔を見て安心したが、よく見ると神崎さんの手は震えていた。やっぱり、怖かったんだ。安心させようと手を握る。

「全然迷惑なんかじゃないよ。私は、味方だから」

 子どもだからとか、大人だからとかじゃない。守る側でも、守られる側でもない。お互いただの人間で、ようやく私たちは対等になれたんだ。

「……さっきの、何でこんなことしてるのかって、話ですけど」

「うん」

「ちょっと長くなるかもだけど、聞いてもらえますか?……綾乃さん」

「もちろん。聞くよ」

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