雨よ

『わざわざ行く必要ないだろ……! 今は大人しくしてたほうがいい』

 荷物をまとめている彼女にそう言うが、彼女は手を止めようとしない。そしてスーツケースをばたんと閉めると、やっと私の方を見た。

『今は、あの人のそばにいてあげたいの。何があっても』

『危険すぎる。兄さんだって何されるか……。巻き込まれるかもしれないんだぞ』

『なら尚更行かなきゃでしょ?』

『……所詮、他人だろ。そこまでする義理は無い』

 私が言い切るより少し早く、頬に衝撃が走った。驚いたがそれほど痛みは無く、私はすぐ彼女に向き直った。彼女の目は、少し潤んでいた。

『何で、そんなこと言うの……! やっとできた、私の家族なのに……!』

 物音で目を覚ましたのか、隣の部屋から赤ん坊の泣き声がする。彼女は慌てて赤ん坊のもとに行くと、抱きかかえあやしはじめた。

『その子を、一人にさせるつもりか』

 我が子を愛おしそうに抱く彼女の背中にそう言うと、彼女は振り返り私に赤ん坊を差し出してきた。

『葉月。桜来のこと、よろしくね』

――――――

「……葉月さん?」

 綾乃ちゃんが心配そうに私の顔を覗き込んだ。

 つい、昔を思い出してしまっていた。

「ああ、いや。何でもない。えっと……何だっけ?」

「ですから、その……桜来ちゃんと永愛ちゃんの両親は……」

 興味本位などではない。本心から桜来と永愛のことを理解したいという真っ直ぐな意思。その勇敢さと無鉄砲さを見ていると、また記憶が刺激される。

「……桜来の、母親は……」

 言いかけた言葉が、喉で詰まる。不意に綾乃ちゃんの姿が記憶と重なり、怖くなってしまった。

「あの、葉月さん?」

「……桜来に、直接聞いたほうがいい」

「そ、そうですよね……。デリケートな事なのに、すみません」

 綾乃ちゃんは申し訳なさそうに頭を下げると、そそくさと部屋に戻って行った。その背中を見送り、私はため息をついた。

「ごめんな……。綾乃ちゃん」



 目の前に並ぶ食材を眺めながら献立を考えるが、いまいち集中できない。自分でも何でこんなに桜来ちゃんたちのことを気にしてしまうのか分からない。純粋に幼く弱い存在を気にかけている……だけではない気がする。

 元々そういう事から逃げたくてここに来たはずだったが、単純に仕事に追われることが無くなって心に余裕が出来たからだろうか。

「明雪さん、どうかしました?」

「わっ! い、伊織ちゃん」

 突然話しかけられ、驚いてしまう。反射的に下の名前で呼んでしまったけれど、特に気にしてないようだ。

「す、すみません。驚かせて。ずっと野菜眺めてぼんやりしてたんで、気になって」

「ああ、うん。ちょっと考え事してて……。伊織ちゃん、自炊するようになったの?」

 伊織ちゃんが持っているカゴには野菜やお肉がある。いつも私のバイトしているコンビニでお弁当を買っているイメージだったが、私や染谷さんの心配が届いたのだろうか。

「はい。美玲に食生活を心配されて……。家にいた頃はたまに作ってたんで、少しは慣れてるんですよ」

 伊織ちゃんは誇らしげだが、カゴの中身をよく見ると豚肉と白菜だけが詰め込まれている。

「……伊織ちゃん、他の食材も買うよね?」

「いえ、これで全部ですよ。これだけあれば三日はもちますから」

「三日!? ていうかそれ、お鍋とかだよね?」

 もう春も終わり、衣替えの季節になってきている。そんな時期に鍋をやるのも不思議だが、それを三日かけて食べるのもまた不思議だ。

「あの、さっきから明雪さんが何をそんな驚いてるのか分からないんですけど……」

「まあ、野菜もあるからいいのかな……? でも、うーん……」

 一人暮らしの食事なら案外そんなものなのだろうか。私も桜来ちゃんたちに作るという建前があるから気にしているだけなのかもしれない。

「おーい! 伊織ちゃん、明雪さん!」

「あ、香里ちゃん」

 またも珍しく、香里ちゃんに声をかけられた。まさか香里ちゃんも自炊をするようになったのかと思ったが、手に持っているカゴの中身はお酒とお惣菜ばかりだった。

「香里ちゃん、すごいお酒の量だね……」

 誰かと飲むのだろうが、それにしてもカゴの下一面がお酒の缶で埋まるのは相当だ。

「あー、この後劇団の皆で決起会なんですよ。そうだ。二人にこれを……」

 香里ちゃんはカゴを一度置いてリュックの中を探ると、私と伊織ちゃんに何かのチケットを差し出した。

「これ、今度の日曜にやるので。是非来てください!」

 それは香里ちゃんが所属している劇団が行う公演のチケットだった。

 日曜は、確か休みのはず。それなら行けるだろう。

「ありがとう。じゃあ行かせてもらうね」

「私は……まあ、行けたら行きます」

 伊織ちゃんは明らかに行きたくなさそうだが、香里ちゃんはお構い無しに是非にと伊織ちゃんにチケットを押し付けた。

「それじゃあ私はこれで! あ、決起会は他所でやるのでうるさくはしないですよー!」

 香里ちゃんは重たそうなカゴをひょいと持ち上げ、件の劇団の人たちであろう集団と合流していた。

「伊織ちゃん、もし行けたら一緒に……」

「やー、多分難しいですかね。大学の課題もありますし」

 食い気味に断られてしまった。美玲ちゃんの件で少しは仲良くなれたと思ったけど、そういえば元々伊織ちゃんはこういう感じだった。他人と馴れ合うのが苦手な性格なんだろう。

 桜来ちゃんも似た雰囲気だが、亜衣ちゃんたちとは仲良くしているし、伊織ちゃんと違って何か理由があって大人を嫌っている感じだ。それが、桜来ちゃんの両親の事と関係あるのだろうか。

――――――

「それ、私もさっき高梨さんから貰いました」

 夕飯の肉味噌炒めをつつきながら昼間に香里ちゃんから聞いた劇団の話をすると、桜来ちゃんも同じチケットを見せてきた。

「そうなんだ。じゃあ、一緒に……」

「無理ですよ。永愛を一人に出来ませんから」

 またも食い気味に断られてしまった。確かに、公演の内容は少し大人向けという感じで、永愛ちゃんが見ても退屈させてしまうだろう。それに一人で留守番させるわけにもいかない。

「永愛の面倒なら私が見とくから、行ってきたらどうだ?」

「永野さん……。どうしたんですか、急に」

「別に。桜来、こういうの見たこと無いだろ? 勉強にもなるから見といた方がいいと思ったんだ。黒崎ちゃんや美玲ちゃんも誘ったらいい」

 葉月さんが私の方をチラッと見た。もしかして、私が桜来ちゃんと話す機会を作ろうとしてくれたのだろうか。

「……永愛は、大丈夫?」

 永愛ちゃんは話が分かっているのか怪しいが首を縦に振った。それを見て、桜来ちゃんは仕方なさそうに納得した。

「はあ……。分かりましたよ。そこまで言うなら行きます」

「よし。じゃあ永愛、二人で美味いもの食べに行くか」

「あんまり偏った食事にしないでくださいよ。永野さん、ジャンクフードばっかり食べるんですから」

「うっ……。わ、分かってるよ。綾乃ちゃん、桜来たちの面倒、よろしくな」

「は、はい」

 突然差し出されたきっかけに、私は上手く切り出せるか不安になってしまった。

――――――

「おはよう、桜来ちゃん。あれ? その服、どうしたの?」

 当日、亜衣ちゃんたちを待つため家の前にいくとおしゃれな服を着た桜来ちゃんがいた。すらっとしたデニムは桜来ちゃんによく似合っている。

「……出かける用の服なんてほとんど持ってなかったんで、亜衣と美玲に選んでもらったんです」

 少し恥ずかしそうにしつつも満更でもない様子。かわいいなと思いつつ、今まで誰かと出かけることが無かったんだと思い、また桜来ちゃんの過去を哀れんでしまう。

「そっか。すごく似合ってるよ。かわいい」

「……っ。あ、ありがとうございます」

 顔が赤くなり、指先で短い髪をいじっている。素直に褒めてやれば何だかんだ素直に受け止めてくれる。根っから嫌われているわけではないのだ。

「桜来、明雪さん。おはようございます」

「亜衣ちゃん、美玲ちゃん。おはよう」

「おはようございます。お姉ちゃんは……やっぱり来られないんですね」

 美玲ちゃんが少し残念そうな顔をした。姉妹で出かけるということもあまり無かったのだろう。

 すると、話を聞きつけたのか永愛ちゃんと手を繋いだ葉月さんが出てきた。

「伊織ちゃんには美玲ちゃんが来るって言ってないんだろ?」

「そういえば、そうですね」

「なら直接行ってみたらどうだ?」

 葉月さんに言われ、伊織ちゃんの部屋のインターホンを押してみる。少し間が空いてから寝起きであろう伊織ちゃんが出てきた。

「……明雪さん。だから行かないって言ったじゃ……」

「お姉ちゃん?」

「み、美玲!?」

 美玲ちゃんの顔を見ると、伊織ちゃんの目がかっと開いた。

「お姉ちゃんと一緒に行きたかったけど……仕方ないよね」

「四十秒で支度する」

 伊織ちゃんはそう言うと勢いよく部屋に戻りすごい物音をたてながら本当に一瞬で支度を済ませ出てきた。

「お待たせ。美玲、行こっか」

 初めて見る伊織ちゃんの優しい笑顔。もしかしなくても、伊織ちゃんは美玲ちゃんのことが本当に大切なのかもしれない。行き過ぎな気もするが。

「ああ、伊織ちゃん。行くならこれ使っていきな」

 葉月さんが伊織ちゃんを呼び止め、何かの鍵を手渡した。伊織ちゃんは何か分かったのか、それを見て驚いている。

「これ、大家さんの車のキーですよね。いいんですか?」

「ああ。大人数で電車乗るのも大変だろう」

 そういえば、アパートの下に車庫があった。あれは葉月さんの車だったんだ。

「じゃあ皆、気をつけてな」

「永愛、ちゃんと葉月さんの言うこと聞くんだよ」

 各々車に乗り込み、私も後に続こうとすると葉月さんに呼び止められた。

「綾乃ちゃん。桜来のこと……頼む」

 葉月さんの言葉には色んな想いが込められている気がして、少し受け止めるのが怖くなった。けど、逃げたくない。意を決して、返事をする。

「……はい」

「明雪さん、早くしてください」

「うん。今行く」

 運転席には伊織ちゃん、助手席に美玲ちゃん。後部座席には桜来ちゃんを真ん中に挟んで私と亜衣ちゃんが座った。

「まさか美玲を助手席に乗せて運転できる日が来るなんて……」

「お姉ちゃん、大袈裟だよ」

「伊織ちゃん、私たちもいるからね……?」

 伊織ちゃんの運転はとてもスムーズで、何事もなく公演が行われる場所に到着した。

「まだ割と早いですけど、どうします?」

「先にお昼食べる予定だよ。伊織ちゃんもそれで大丈夫?」

「……そういえば朝から何も食べてなかったです」

 伊織ちゃんは思い出したように薄いお腹を押さえた。美玲ちゃんがそれを聞いて心配そうな顔をする。

「お姉ちゃん、またご飯食べてないの……?」

「い、いや、たまたま。昨日はちゃんと食べたし」

 あの食材たちでちゃんと食べていると言うのは少し疑問だが、これ以上美玲ちゃんの不安を煽っても仕方ないので黙っておく。

「そしたら近くにファミレスがあるみたいだし、そこに行こっか。葉月さんからお昼代貰ってるんだ」

「明雪さん、人のお金で自慢しないでくださいよ」

「うっ……。ふ、ふん。所詮はフリーターですから」

 確かによく考えると今日は私が最年長で他の皆は学生だ。さすがに少し情けないかもしれない。しかし薄給のフリーターなのも事実である。

 何だかんだ言いつつ、ファミレスに入る。それぞれ注文を済ませドリンクバーに行こうとすると、桜来ちゃんが何やらそわそわしているのが目に入った。もしかしたら、ファミレスのシステムがよく分かってないのかもしれない。

「桜来ちゃん、飲み物取りに行こっか」

「え、あ。はい」

 不安そうに私の後ろにピッタリくっついてくる桜来ちゃんは少しかわいい。さっきの仕返しと悪戯心が芽生えてしまう。

「分かんないなら聞けばいいのに」

 私が笑いながら飲み物を注いでいると、桜来ちゃんの眉間に皺がよった。

「……馬鹿にしてるんですか。世間知らずだって」

 思ったより不機嫌にさせてしまい、私は慌てて訂正する。

「ご、ごめんね。ただ頼ってほしくて……」

「あ……。私こそ、すみません」

 私が慌てているのを見て、険悪な空気になっていると気づいたのか桜来ちゃんも頭を下げた。

 時折、桜来ちゃんは感情を制限できてないようなときがある。というか、今までは他人を突き放そうとしていたが、それをやめようとしている感じだ。やはり何か深く根付いた大人への警戒心があるのかもしれない。それが桜来ちゃんの両親に関することなのだろうか。

「明雪さん?」

「……あ、ごめん。ちょっと考え事しちゃって」

 席に戻ろうとする桜来ちゃんの背中に声をかけるか迷う。知りたい。助けたい。

「……桜来ちゃん!」

 呼び止めると、桜来ちゃんは驚いて振り返った。思ったより大きな声を出してしまっていたらしい。

「な、何ですか」

「あの……」

 桜来ちゃんのご両親って……

 聞こうとしたが、口が動かない。頭の中で記憶が再生される。

『何も出来ないくせに、首突っ込まないでよ!』

 思い出さないようにしていた記憶。まだ錆びてもいないほど鮮明な記憶だ。

 このままではまた、同じ失敗をしてしまうかもしれない。踏み込みすぎては、いけない。

「……ごめん。何でもない」

 不思議そうに首をかしげる桜来ちゃんを追い越し、私は席に戻った。

――――――

「おーい! 皆、来てくれてありがとう!」

 昼食を食べ終え、公演が行われる会場に着くと香里ちゃんが出迎えてくれた。

「香里ちゃん、出てきて大丈夫なの?」

「はい、少しだけなら! あ、この子が伊織ちゃんの妹さん? かわいいねー!」

 香里ちゃんが美玲ちゃんの頭を撫で回す。その手を伊織ちゃんが掴んだ。

「高梨さん、美玲は人見知りなのであまり馴れ馴れしくしないでください」

「あ、そう? ごめんね。美玲ちゃん」

「い、いえ……。大丈夫です。あの、私とお姉ちゃん、姉妹に見えます?」

 確かに、紹介は特にしていなかったし亜衣ちゃんもいるのによく美玲ちゃんが妹だと分かったなと思う。

「ん? うん。伊織ちゃんと雰囲気似てるから、そうだろうなと思ったよ」

「そ……そうですか? お姉ちゃん、私たち似てるって」

「……高梨さんも少しは見る目があるみたいですね」

「あはは! ありがとう。じゃあ私はそろそろ行かなきゃなんで、楽しんでってね!」



「お待たせしました。ハンバーグセットとお子様ランチでございます」

 店員さんが私と永愛の前にそれぞれ料理を置く。永愛は初めて見るお子様ランチに目を輝かせていた。

「永愛、美味しいか?」

 淀みなく食べ進める永愛に尋ねると、少し首を傾げた。正直でよろしい。

「はは。綾乃ちゃんの料理のほうが好きか」

 そう言うとぶんぶんと頷いた。綾乃ちゃんが見たら喜ぶだろう。

 二人の世話を綾乃ちゃんに頼んで良かった。そう思う反面、不安も感じている。私は綾乃ちゃんに、役割を押し付けているんじゃないか。あいつが出来なかったことを……。

「はづき?」

 永愛に呼ばれて、はっとした。私が渋い顔をしていたからか、永愛が不安げだ。慌てて笑顔を作り、永愛の頭を撫でる。

「悪い、何でもないよ。じゃあ帰るか」

 永愛と並んで、ファミレスから家に向かう。遠くに連れて行ってやりたい気持ちもあるが、電車やバスは永愛にはストレスが大きすぎるだろう。

 後ろから車が来たので、永愛に注意しつつ端によると車の窓から男が顔を出した。

「葉月さん?」

「……金田か。驚かすなよ」

 男は運転手に少し待つように言うと、車から出てきた。ピンと伸びた背筋と丁寧に固められた髪型からは仕事の出来るビジネスマンという雰囲気が滲み出ている。

「運転手付きとは、出世したな」

「いや、今日はたまたまですよ。そういえば葉月さんの家、この辺りでしたっけ」

「ああ。何も無いところだよ」

 何とか会話を逸らそうとしていたが、私の後ろにいる永愛に気づかれてしまった。

「……その子は?」

「知り合いの子だ。……私とは関係ない」

 少し声が震えてしまったが、特に詮索はされなかった。

「そろそろいいか? この子、人見知りなんだ」

「あ、はい……。あの、社長にはお会いにならないんですか?」

「余計な事を言うな。私は関係ない」

 会話を終わらせ、背を向けると程なくして車が私たちを追い越していった。

 左手を永愛に握りしめられ、私は初めて自分の手が震えていることに気づいた。

「ごめんな……。永愛」

 しゃがみこんで永愛の肩に手を回したが、躊躇って頭を撫でる。そんな事をする資格は、私には無い。

 本当に、情けない大人だ。



「え、脚本……この人なんですか!?」

 香里ちゃんから貰ったパンフレットを見ていると、伊織ちゃんが驚いた様子でそう言った。

「お姉ちゃん、知ってるの?」

「うん……。まだ新人の小説家の人で、ちょっと注目してたんだ。まさかこういうのもやってたなんて……」

「へえ。どういう小説書いてるの?」

「現代ドラマというか、そういう感じですね。表現がとにかく丁寧で細かくて、文字だけで風景が浮かんでくるみたいな……!」

「そ、そうなんだ」

 伊織ちゃんが珍しく早口でまくしたててきて、その勢いに私と桜来ちゃんが軽く引いていると、亜衣ちゃんが身を乗り出した。

「分かります。私もこの人の小説、好きなので」

「黒崎さん、そうなんですか? そしたらあれとか……」

 亜衣ちゃんと伊織ちゃんが私たちの混ざれない話で盛り上がってしまった。二人の話を聞き流していると、桜来ちゃんが「ちょっと、手洗い行ってきます」と言いその場を離れようとした。

「あ、じゃあ私も」

 美玲ちゃんを一人にしてしまったなと振り返ってみると、二人に捕まってオススメ小説の猛攻を受けていた。心の中で謝りつつ桜来ちゃんを追いかけた。

 また考え無しに勢いで動いてしまい、少し後悔する。ここを逃したら今日はもう二人きりになることは無いだろうが、まだ心の準備が整わない。

「……明雪さん、さっきから何かそわそわしてますけど、どうかしました?」

 お手洗いで桜来ちゃんが私に不審な目を向けてきた。そんなに分かりやすく不自然だったのか。

「え、あ、いや。何でもないよ」

 わざわざ今日じゃなくても、聞くチャンスはいくらでもある。また不用意に首を突っ込んではいけない。

 気持ちを入れ替えて、いつも通りを心がけた。

――――――

「うっ……ぐすっ……すごく良かったです……」

「お姉ちゃん、大丈夫?」

 公演が終わると、伊織ちゃんは誰よりも感動していた。あんなに乗り気じゃなかったのに……。

「伊織ちゃん、こういうの好きなんだ?」

 ストーリーは、離れ離れになってしまった親子が再会するまでを描いたもので、確かに私もいい話だなと思った。

「はい……。フィクションは現実と違って本心が見えるので」

「な、なるほど……?」

 他人を寄せ付けたがらない伊織ちゃんらしい考えだけど、ちょっと不思議だ。

「みんなー! どうだった?」

「香里ちゃん。うん、すごく良かったよ」

 香里ちゃんは主人公の女の子を演じていた。いつもの元気な雰囲気とは違い、両親と離れてしまった寂しさのある暗い役だった。

「……高梨さん、その格好でいつも通りにしてるとキャラがブレるのでやめてください」

 赤くなった目元を抑えつつ伊織ちゃんが言う。確かに香里ちゃんは汚れた加工がされた舞台の衣装のままだ。

「あー、確かにね。じゃあ……」

 香里ちゃんはこほんと咳払いをすると、それまでと打って変わって憂いげな、先程までの役の表情に変わった。あまりにも表情作りが上手くて、私たちも香里ちゃんが作る世界に飲み込まれてしまいそうだ。

 香里ちゃんは呆然とする私たちの間を通り抜け、伊織ちゃんの前に立った。そしてそのまま伊織ちゃんの顎を指で軽く上げると、目を潤ませながら声を震わせた。

「……やっと、会えたね」

 それは先程の舞台でもあったセリフで、それの完全再現だった。目の前で行われた即興劇に目を奪われていると、顔を真っ赤にした伊織ちゃんが香里ちゃんを跳ね除けた。

「やっ、いや、ちが……違うじゃないですか! 顎クイとか舞台ではしてなかったでしょ!?」

「えへへ。せっかくならサービスしようかと思って」

「〜〜っ! だから、キャラがブレるんですってば!」

 そう言いつつも顔は赤いままの伊織ちゃんに肩を叩かれつつ、香里ちゃんは笑いながら戻っていった。

 ふと桜来ちゃんの方を見るとどこかぼんやりしたような表情をしている。

「桜来ちゃん?」

「……あ、はい。何ですか?」

「楽しかった?」

 どうせ素直には答えないだろうなと思うが、表情を見れば分かるだろう。

「まあ……はい」

「そ、そっか。良かったね」

 心ここに在らずといった様子で、調子が狂う。

 もしかして、桜来ちゃん自身の境遇と重なってしまったのだろうか。だとしたらかなり、不用意な質問だったかもしれない。

――――――

「私、夕飯の買い物して帰るから、ここで降りるね」

 帰り道、伊織ちゃんにスーパーの前で車を止めてもらった。香里ちゃんたちの劇は楽しめたけれど、他のことに気を取られて何だか気疲れしてしまった。一人で買い物をして気分を落ち着けたい。

「なら、私も一緒に行きます」

「え、桜来ちゃん?」

 そう思っていたのに、私が落ち着かなかった元凶である桜来ちゃんも一緒に降りると言い出した。

「荷物持ちくらいしますよ。……迷惑ですか?」

「いや、そんなことないけど……」

 けど、出来れば今は一人にしてほしかった。しかしここで無理やり帰らせるのも角が立つ。

 ていうかいつもなら私と二人きりになんてなりたがらないのに、なんでわざわざ……?

「桜来ちゃん、何か食べたいものある?」

「別に。何でもいいです」

 いつも通り、そっけない対応。ついてきたことに特に深い意味は無いのだろうか。

「そっか。ならカレーにしようかな」

 流れ作業で食材をカゴに入れていく。桜来ちゃんも黙って私の後ろをついてくる。

 買い物を終え、袋詰めをしていると入り口のほうで他の人たちが数人立ち止まっているのが目に入った。

「雨、降ってるみたいですね」

 桜来ちゃんが言った通り、外を見ると雨が降り出していた。

 傘は持ってないけれど、いつまでもスーパーの中にいるのも迷惑なのでとりあえず外に出て軒先で雨宿りをした。

「……あ、葉月さんが迎えに来てくれるみたい」

 先に帰った伊織ちゃんたちから聞いたのか、葉月さんから連絡が来た。

「荷物、重くない?」

「はい、大丈夫です」

 会話が続かず、何となく気まずい。やっぱり今聞くべきなのだろうか。あまり悩みすぎても聞きづらくなるだけだし……でも……。

「あの、明雪さん」

「は、はい!?」

 桜来ちゃんから話しかけられ、驚きから思わず声が裏返ってしまう。

「……何か今日、変じゃないですか?」

「そう? どこが?」

「ファミレスでも何か言いかけてたし、今も……何かそわそわしてますし」

「あ、あー……、うん」

 そりゃあ、分かってしまうか。我ながら分かりやすすぎたと反省する。しかしこうなれば引き下がれない。何があっても受け止める覚悟を決め、桜来ちゃんを見る。

 私の表情が急に真面目になったからか、桜来ちゃんも身構えた。

「その……桜来ちゃんと、永愛ちゃんのご両親のことが、気になってたの」

「え……?」

 質問が予想外だったのか、桜来ちゃんの目が大きく開いた。

「興味本位とかじゃないよ。ただ、ほら、これからも一緒にいるんだし、協力出来ることはしたいし……」

 慌てて早口になってしまう。これじゃあ逆効果かもしれない。

 落ち着いて桜来ちゃんの返答を待つと、何か躊躇っている様子だ。

「…………」

「桜来ちゃん……?」

 手を伸ばすと、桜来ちゃんは怯えた様子で後ずさった。呼吸も少し荒い。大丈夫だろうか。

「……ありがとう、ございます。お気持ちだけで、十分です……」

 目は泳いで、声は震えている。言葉もまるで録音を再生したかのように機械的に聞こえる。

「桜来ちゃん……大丈夫? 何か困ってるなら、力に……」

「……っ!」

 私が伸ばした手を、桜来ちゃんが跳ね除けた。その事にも驚いたが、それ以上に桜来ちゃん自身が自分の行動に驚いているようだった。

「あ……。ご、ごめんなさい……ごめんなさい……」

「わ、私は全然大丈夫だから。それより、桜来ちゃんこそ……」

 近づいたら恐がらせる。とにかく落ち着かせないと、と思ったが、どうしたらいいか分からない。そうこうしてる間にも桜来ちゃんの震えは酷くなっていく。

「う……ごめんなさい、私……」

 緊張が限界に達したのか、桜来ちゃんは雨の中を走り去ってしまった。躊躇している場合じゃない。追いかけないと。

「さ、桜来ちゃん!」

 家のある方向に向かっていた。雨だし、走るのなんて久しぶりだけれど、そんなことは言ってられない。

 追いかけて角を曲がると、誰かの背中にぶつかってしまった。

「す、すみませ……は、葉月さん!」

 そこにいたのは、ちょうど私たちを迎えに来ようと傘を持ってきていた葉月さんで、私を見て困惑している。

「綾乃ちゃん、さっき桜来が……」

「はい、とにかく追いかけないと……」

「永愛がもう追いかけてる。よく分からないが、私たちも行こう」

 よく見ると、確かに合羽を着た永愛ちゃんの背中が見える。葉月さんから傘を受け取り、追いかけた。

「はぁ、はぁ……」

 アパートまで辿り着くと、風花さんがドアの前に立っていて私たちを見つけると心配そうに駆け寄ってきた。

「風花、桜来を見かけなかったか?」

「は、はい。ちょうど私も帰ってきたところで……そしたら桜来ちゃんがびしょ濡れで、これを綾乃ちゃんに渡してくれって……」

 風花さんから手渡されたのは、先程スーパーで買った食材の袋だった。袋は濡れているけれど中身は濡れてなくて、桜来ちゃんが庇いながら走っていたことが分かった。

「……桜来ちゃん、どうかしたんですか?」

 葉月さんも同じことが聞きたいようで、私の方を見ている。

 私は、何も答えられなかった。

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