風に吹かれて
「いらっしゃいませー」
自動ドアが開いて入店を知らせる音が鳴る。するといつの頃からか反射的に口から声が出るようになった。コンビニの仕事は単調だが余計なことを考えなくて済むので実は気に入っている。
私がバイトの日の桜来ちゃんたちのご飯は作り置きの物が多い。なるべく出来合いの物には頼らないのは料理を任されていることに対するプライドだ。
作り置きは一応何品かあって、今日はどれにしようかなと考えながらぼんやり菓子パンを棚に並べていると、横から声をかけられた。
「明雪さん、こんばんは」
「あ、染谷さん。こんばんは。お疲れ様です」
話しかけてきたのは同じアパートに住む染谷風花さん。宮下家の隣に住んでいて何度か顔を合わせたことがある。ファッション誌の編集をしているらしく、見た目もおしゃれだ。落ち着いた雰囲気と大人っぽい服装から、とても同い年とは思えない。
「染谷さんが来るの珍しいですね。天崎さんや香里ちゃんはよく来られますけど」
アパートの近くには他にスーパーもある。私や染谷さんのような自炊をよくする人はそっちのほうに行ってあまりコンビニは利用しない。
「ええ。もしかしたら明雪さんと会う機会が無いかもと思って」
「私と?」
わざわざ私に用だろうか。そう思っていると、染谷さんはかしこまって話し出した。
「実はね、近いうちに結婚して引っ越す予定なの」
「え、結婚」
付き合ってる人がいたのも知らなかった。そして、私たちの世代ってもうそういうことを考え出す年なのかと思い知らされてしまった。それに対して、コンビニバイトを気に入ってる私って……。
「えっと、おめでとうございます」
「ありがとう。引っ越しの準備でうるさくしたらごめんね?」
そう言って笑う染谷さんの表情からは幸せオーラが溢れていて、見ている私も何だか嬉しくなった。
――――――
心地良い音と共に、油の中で唐揚げがキツネ色に染まっていく。油を切って試しに一つ食べてみると、醤油の香りと鶏肉の油が口に広がる。美味しくできた。
唐揚げをタッパーに詰め、宮下家に向かった。
「そういえば、染谷さんが結婚されるらしいですね」
「ああ、明後日に引っ越す予定らしい」
葉月さんも含め四人でご飯を食べながら、そんな話をした。いつの間にかそこまで進んでいたらしい。
「染谷さんって、隣の人ですよね」
珍しく桜来ちゃんが会話に加わってきた。食事中は基本的に永愛ちゃんに付きっきりで……というか、そもそも私と話したがらないので私と葉月さんだけで喋っていることが多いのだけれど。
「染谷さんは結婚するのに、明雪さんは未だにコンビニバイトですか……。同い年なのに、ずいぶん差がありますね」
「うっ……」
それは本当にそうだ。あまりに痛いところを突かれて苦しい。
「桜来、それは私にも刺さるからやめてくれ」
葉月さんも流れ弾に当たっている。二人して苦しんでいると、永愛ちゃんが私の頭を心配そうに撫でてくれた。本当に優しくていい子だ。
「ありがとね。永愛ちゃん」
「永愛はこんな大人にならないようにね」
桜来ちゃんがついでに刺してきたので、私もやり返す。
「そうだね。あんなひねくれた子にならないようにね?」
桜来ちゃんがじっと睨んでくるがそれは痛くも痒くもない。大人を舐めるんじゃない。
――――――
それから数日、染谷さんが引っ越す日になった。なったはずなのだが、アパートの前にはそれらしいトラックが来る気配が無い。染谷さんの姿も見えない。予定がずれたのかなと思いつつ買い物のために外に出ると、上から葉月さんの声が聞こえた。
「風花ー、いるのかー?」
インターホンを何度も鳴らし、ドアを叩いている。その様子から何か良くないことが起きていると感じた。
「葉月さん、どうかしたんですか?」
「ああ、綾乃ちゃん。いや、風花が急に引っ越しは無しになったって連絡してきて、どうかしたのかって聞いても返事が無くてな」
それは確かに、どういうことだろう。私も心配になってきた。
「家にはいるはずなんだけどな……」
「どうしたんでしょう……?」
ドアの前で立ち尽くしていると、騒ぎを聞きつけたのか廊下の奥の部屋から人が出てきた。染谷さんの隣の隣、二階の角部屋に住んでいる高梨香里だ。
「どうしました?」
香里ちゃんは私の一つ年下だが、背が高くて手足も長い。いつも明るく外で会うと元気に挨拶をしてくれる。
香里ちゃんに事の経緯を説明すると、心配そうな顔になった。
「それは心配ですね……。染谷さーん! 大丈夫ですかー!?」
突然、香里ちゃんが大声で叫んだ。役者を目指していて劇団にも所属している香里ちゃんの声量は並じゃない。私と葉月さんは慌てて香里ちゃんの口を塞いだ。
「気持ちは分かるけど、近所迷惑!」
「あっ、すみません」
香里ちゃんの大声を聞きつけたのか、下の階に住む天崎伊織も出てきてしまった。
「あの、うるさいんですけど……」
大学三年生らしい天崎さんは、私の隣の部屋に住んでいるがあまり会話はしたことが無い。腰まで伸びたあまり手入れのされてない髪と、全体的に肉付きの無い骨の浮いた体型から密かに生活を心配している。
「伊織ちゃん、ごめんね! でも染谷さんが……」
「いや、別に興味な……」
天崎さんは聞きたくなさそうにしていたが、香里ちゃんが一方的に全部説明した。天崎さんは止めるのも面倒になったのか最後まで聞き、少し納得したような顔をした。
「もしかして、それで昨晩あんなに騒いでたのかもしれないですね」
「騒いでた? 風花が?」
そうだっただろうか。私も香里ちゃんもピンと来なくて顔を見合わせた。
「あ、多分皆さんには聞こえてないと思います。ここ、防音ちゃんとしてるし。ただまあ、少しだけ耳が効くんで」
「それでそれで、染谷さんは何て言ってた?」
「いや、そこまでは……。誰かと電話してる感じでしたけど」
「電話……」
「あの……それじゃあ私はこれで」
天崎さんが立ち去ろうとすると、染谷さんの部屋のドアが開いた。中にいたのは目元を腫らし、髪のセットもしていない状態の染谷さんだった。
「風花……どうしたんだ? 引っ越しは?」
「ぅうっ、永野さん、みんな……」
染谷さんは私たちの姿を見るとまた泣き出してしまった。とにかく落ち着かせようと、みんな揃って部屋に上がらせてもらった。
――――――
「……すみません。ご迷惑をおかけして」
「いや……それで、何があった?」
「……浮気、されてたんです」
「う、浮気!?」
話を聞いてみると、どうやら先日話していた結婚予定の彼氏が隠れて浮気をしていたらしい。それが昨日発覚し、今に至る。
「それは、また……」
あまりにもショッキングな話で、言葉に詰まってしまう。染谷さんはまだ話し足りないらしく、だんだんと声を荒らげながら続けた。
「しかもその相手、まだ大学生らしいんですよ! 信じられない……。それで何で浮気したのかって聞いたら、私は面倒見がよくて母親みたいだから、年下にいっちゃったって……信じられないですよね!?」
それは確かに、ありえないと思う。けど、染谷さんが母親のようだというのには少し納得してしまった。天崎さんも葉月さんも同じらしく、微妙な顔をしている。
「あー、確かに染谷さんって年の割には面倒見いいし、お母さんっぽいかもですね!」
「ちょ、香里!」
葉月さんの制止もむなしく、香里ちゃんのよく通る声はしっかり染谷さんの耳に届いた。染谷さんの顔はすーっと青ざめて、また目には涙が溜まってきた。
「そうよね……。私、老けてるわよね……」
「そ、そんなことないですよ!」
慌ててフォローしようとするが、具体的な事は言えない。香里ちゃんも失言だったと気づいたのか、何とか立て直そうとする。
「そうですよ! 今のは、えっと……」
お互い何も具体的な事は言わず、言葉に詰まる。それを見て察したのか、染谷さんの声は更に暗くなっていく。
「いいのよ……。自分でも分かってるから。それにこんなことでみんなを巻き込んで……面倒くさい女よね」
「そんなことは……」
とにかく何か言わないと、と考えていると天崎さんがはぁとため息をついた。
「そりゃあ、面倒くさいですよね」
「い、伊織ちゃん!?」
「自分を卑下すれば周りが慰めてくれると思ってましたか? 生憎、そんなに暇じゃないので。では」
天崎さんはそう言い残すとその場から立ち去ろうとした。しかし葉月さんがその腕を掴む。
「ちょ、大家さん……。私、まだレポート終わってなくて」
「伊織ちゃん、この状況作っといて帰るのはずるいだろう。慰めないんならせめて最後までぶつかっていけ。家賃値上げするぞ」
「そ、そんなの横暴ですよ!」
「いいから、座れ」
葉月さんの説得に応じたのか、すんすんと泣く染谷さんを見てさすがに良心が痛んだのか、天崎さんは渋々座り直した。
「まあ、風花。あれだ、早いとこ忘れて元気だそう、な?」
「……大学生の頃から付き合ってたんです。彼と。ちょっとヤンチャな所もあるけど、優しくて……。記念日とかも大事にしてくれてて、この前、付き合って六年目の記念日に夜景の見えるレストランでプロポーズしてくれたのが、本当に嬉しくて……」
染谷さんはどうやらまだ彼氏に未練があるらしい。まあ話して楽になるならその方がいいかとみんなで黙って聞いていたが、話の方向が少しずつおかしくなってきた。
「浮気相手とも、もう関係を終わらせるつもりだったって……私と結婚したいのは本気だから、もう遊びはやめるって……」
「……ん? ちょっと待て、風花。それ信じてるのか?」
「彼は嘘をつくような人じゃないんです。浮気も、本当はしたくなかったけど相手から迫られて断りきれなかったって……。なのに私、一方的に怒ってばっかりで……」
「これ、もしかしてよりを戻す方向になってます?」
香里ちゃんが耳打ちしてきた。確かに、そんな気配だ。傍から見ると彼氏側の主張はその場しのぎのでまかせしか聞こえないが。天崎さんは何も言わずずっと下を向いている。
みんなが怪しい空気を感じていると、染谷さんの携帯が鳴った。相手は例の彼氏らしく、染谷さんは慌てて携帯を取った。多分私たち全員が「出るんだ……」と思っただろう。
「も、もしもし……。うん、うん……。私こそ、昨日は怒鳴ったりしてごめん。うん、そうだよね……」
会話は聞こえないが、恐らくまた耳障りのいいことを言って染谷さんを何とか懐柔しようとしているのだろう。しかも染谷さんはそれに乗せられようとしている。これでいいのだろうかと思っていると、それまで黙っていた天崎さんがばっと立ち上がり染谷さんから携帯を奪った。
「い、伊織ちゃん!?」
呆然とする染谷さんを尻目に、天崎さんは電話口に向かって叫んだ。
「風花はもう私のものだから! あんたなんかと結婚しない! 二度と連絡するな!」
そう吐き捨てると、天崎さんは電話を切って携帯を染谷さんに返した。初めて天崎さんが大声を出しているの聞いた。というかそれ以上に内容が衝撃的で、みんなが呆然としていた。
後から自分のしたことに気づいたのか、天崎さんは慌てて弁解をした。
「いや、その、彼氏の人があまりにもしょうもない事ばっかり言うからイライラして……。あと、早く帰りたかったからです。あの、すみません、染谷さん。呼び捨てにして……」
「あ……うん、大丈夫」
「い、伊織ちゃん、すごいね! かっこよかったよー!」
香里ちゃんが興奮した様子で天崎さんに飛びつく。
「高梨さん、やめてください……! 大家さん、これでいいですよね?」
「あ、ああ……。伊織ちゃん、ありがとう」
天崎さんはだんだん恥ずかしくなってきたのか、足早に部屋を出ていった。
――――――
「天崎さん、おはよう」
「おはようございます」
朝、大学に行こうとする天崎さんに会った。すると上の階から染谷さんも来て、天崎さんを見つけると嬉しそうに駆け寄ってきた。
「伊織ちゃん、ちょうど良かった。これ、もしよかったら持っていって?」
「えっと、これは……?」
染谷さんは天崎さんに何か包みを渡した。
「お弁当よ。伊織ちゃん、お昼ってどうしてる?」
「コンビニとか学食ですけど……」
「なら良かった。私の手作りだから、味は保証するわ」
「え、いやまだ受け取るとは……」
「この間のお礼。あ、私もう行かないと。それじゃあね。明雪さん、伊織ちゃん」
染谷さんは天崎さんにお弁当をばっと押し付けると、逃げるように走っていってしまった。天崎さんは微妙な顔でお弁当を見つめている。
「良かったね。天崎さん」
一応そう言っておくと、天崎さんはふっと笑った。
「……まあ、お昼代が浮いたと思っておきます」
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