朱に交われば夏になる

空き箱

小さな一歩

 飴色に炒めた玉ねぎにスパイスを加える。スパイスが水分を吸って固まっていく。いつもは辛めにチリパウダーを多めにいれるのだが今日は抜いておく。

 別で炒めた鶏肉と合わせ、水を入れて煮込む。しばらく煮込んだ後、隠し味にリンゴジャムを少し入れて完成だ。鍋に蓋をするとタイミングよくインターホンが鳴った。

「葉月さん、ちょうど出来たところです」

 永野葉月さん。私の隣の部屋に住んでいてここの大家さんでもある。Tシャツにパーカーを羽織ったラフな見た目からは想像できないが。葉月さんは寝起きなのか、目をこすりながら鼻をすんすんと鳴らした。

「いい匂いだね。カレー?」

「はい。支度するので、少し待っててください」

 前は一々外出用の服に着替えていたけれど、もう面倒になってしまい部屋着の上からカーディガンを羽織るだけだ。どうせ一つ上の階に上がるだけだし、わざわざ着替えて会うような相手ではない。

「お待たせしました。行きましょう」

 階段を上がり、角を曲がると何かが足にしがみついてきた。

「あやの!」

「永愛、勝手に出ちゃダメだって……。あ、永野さんと……明雪さん。どうも」

 私の足にくっついてきたのは宮下永愛ちゃん。小学三年生で、小さくてとてもかわいい。

「永愛ちゃん、待ちきれなかったの?」

 私が訪ねると、永愛ちゃんはこくんと頷いた。本当にかわいい。

「いいから早く入ってください」

「桜来、そんな急かすなよ」

 葉月さんにそう言われ複雑そうな顔をしているのが、宮下桜来ちゃん。妹の永愛ちゃんとは対照的に不愛想な子だ。永愛ちゃん以外には基本的に冷たく、葉月さんには少し気を許しているようだが私には全く心を開く様子がない。

 以前はこうして私と夕飯を囲むのを嫌がっていたが永愛ちゃんは私がいないと嫌がるので仕方なく了承している。

「さくらー」

「ちょっと待って。熱いから」

 桜来ちゃんがカレーを冷まして、永愛ちゃんに渡す。一口食べると、永愛ちゃんの目がぱっと開いた。

「永愛ちゃん、おいしい?」

 聞くと、永愛ちゃんはぶんぶんと首を縦に振った。

「そっか。よかった」

「本当に美味しいね。これ、市販のルーじゃないよね?」

「はい。スパイスを混ぜて作ってます」

 長年の試行錯誤を経て、自分好みの味を見つけたのだ。他人に振舞う機会は初めてだが、褒められて安心した。

「やっぱり、ニートだと時間あるんですね」

 楽しく話していたのに、桜来ちゃんが水を差す。

「あのね、ニートじゃなくてフリーターだから」

「同じじゃないですか? コンビニでバイトしてカレー作って、楽できていいですね」

「コンビニバイトだって立派な仕事ですー。高校生には難しいかな?」

 段々とヒートアップしてきたが、葉月さんに止められる。

「まあまあ。綾乃ちゃん、大人なんだから落ち着いて。桜来も、言う割にはカレー、美味しかったみたいじゃない?」

 言われてみれば、桜来ちゃんはいつの間にかカレーを完食している。

 図星だったのか、桜来ちゃんの顔が赤くなった。

「ふーん? 美味しかったんだ?」

「べ、別に、まあまあです」

「しょうがないから、また作ってあげるよ」

 つい口元が緩みつつ食器を下げると桜来ちゃんは更に不服そうな顔になった。もっと正直になれば可愛げがあるというのに。そういう年頃だろうか。

 食器を洗い終え、桜来ちゃんたちの部屋を出た。

「それじゃあ、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 葉月さんと別れ、自分の部屋に戻る。

 1Kのアパートは都心から離れた場所にあり、一人暮らしには十分な広さがある。オートロックも付いてて安全だ。しかし貯金とバイトの収入があるとはいえ、本来なら毎月払い続けるのは難しい家賃だ。

 そこで葉月さんから、桜来ちゃんたちのご飯を用意すれば家賃を値下げするという提案をされた。元々、料理は出来たので私にとっては願ったり叶ったりだった。

 桜来ちゃんがもう少し素直ならご飯を作るモチベーションも上がるというものだが、仕方ない。姉妹二人暮らしで不安も多いのだろう。二人の両親がどうしていないのか、少し気になるが聞いたことは無い。ただ私がこのアパートに安く住まわせてもらえるのに都合がいい。そのくらいに思っておく。そういう心労を抱えたくなくて一人暮らしを始めたんだから。


――明雪綾乃、二十五歳。

 昔から自己主張の弱いタイプだった。グループの中心にはいないけど、孤立もしない。頼まれ事は断れないし、人に頼るのは下手。二つ上の姉は私とは違い活発で、落ち着きのない人だった。それもあってか、両親は私に安定を求めた。

「綾乃は真面目に育ってくれて助かったわ」

 母は事ある毎に私にそう言ったけれど、私は自主的に真面目になったわけではなく周りとのバランスを取るため真面目に収まったのだ。かといって別に姉のように奔放に生きたいわけでもないが。

 悪い親だとは全く思わないが、私の中で気づかないうちに少しずつその期待が積み重なっていった。

 新卒で入社した会社は今思うとブラック企業で、それでも私は社会人とはそういうものだと自分を納得させていた。慣れない経理の仕事は大変で、家に帰るのはいつも終電ギリギリ、週末は睡眠で潰れた。日を追うごとに辞めたいという気持ちが膨らんだが、たかが二年程度で辞めるとはとても言い出せなかった。

 そもそも、辞めたあとにまともに生活できると思えなかった。親のスネを齧るわけにはいかないし、一人暮らしするにも収入が無いといけない。

 そんな中、生来の性格が災いし、私は仕事でミスをした。仕事、というより環境が生んだ人間関係の溝のようなものだった。その頃には気持ちは限界を迎えていたが、それでも辞めるとは言い出せなかった。

 ある日の朝、私はいつも通り電車に乗って仕事に向かっていた。けれど、会社のある駅に着いても足が動かない。降りなきゃと頭では思っているのに、体は動かない。そのまま電車のドアは閉まり、次の駅に走り出した。

 私はその日、会社をサボった。

 しばらく呆然としたまま電車に揺られ、知らない駅で降りた。駅にはスーツを着た大人がたくさんいて、皆が働こうとしている。それを見ていると、不思議と焦りや後悔よりも自由なんだという高揚感が湧いてきた。

 しかし駅からしばらく歩くうちにすぐ現実を思い出し、憂鬱になってきた。携帯は怖くて電源を切ったけれど、恐らく会社から何度も連絡が来ているに違いない。

 あてもなく歩くうちに日も暮れてきた。帰り道を調べるにはスマホを開かないといけないけれど、怖くて開けない。家に帰るのも怖くなってきた。

 カラスの鳴き声がどこからか聞こえ、背筋が震えた。大袈裟でなく、野垂れ死にという言葉が頭を過ぎった。

 嫌な想像を振り払い前を見ると、電柱の陰に小さな女の子が蹲っているのが見えた。小学校低学年くらいだろうか。大きなクマのぬいぐるみを抱いている。ゆっくり近づいてみると、目が合った。

「あっ……」

 その子の大きな瞳が、私を捉えている。決して勘違いしないでもらいたいのだが、人間なら誰しも小さくか弱い存在を守ろうとするのは当たり前であって、私が幼い少女に声をかける変質者なわけではない。

 目線を合わせるために屈んで、優しく声をかけた。

「大丈夫? 迷子かな?」

 その子は私の質問を聞いているのか聞いてないのか、じっと目を合わせたままだ。子どもの純粋な目で見つめ続けられると、仕事をサボってこんなところを徘徊している自分が酷く情けなく思えてくる。

 気まずくて少し目を逸らすと、その子が私の方に駆け寄ってきた。

「えっと……どうしたの?」

 その子は何も言わず、私の手をぎゅっと握った。久しぶりに感じた人の温もりは驚くほど心地よくて、不覚にも私は泣きそうになった。

 何とか平静を保とうとすると、その子が私の手を引いた。クマのぬいぐるみは持てないと判断したのか、私に持たせてきた。何が何だか分からないが、振りほどくことも出来ず私は導かれるまま歩いた。

 しばらく歩いていると、向こうに一人の女の子が見えた。制服を着ている。高校生だろうか。その子はこちらに気づくと駆け寄ってきた。家族かな、これで一安心だ、と思っていると、その子は勢いそのままに私を突き飛ばした。

「いった……!」

 何とか倒れずには済んだけれど、驚いた。その子の方を見ると、敵意剥き出しの目で私を睨んでいる。いつの間にか繋いでいた手も離されている。

「この、犯罪者……!」

「は、はぁ!?」

 何を勘違いているのか。その子は防犯ブザーを取り出し栓を抜こうとした。

「ちょ、ちょっと! 違うから!」

 まずいと思い、その子から防犯ブザーを奪おうとした。しかしそれは逆効果で、余計に騒がれてしまう。

「何が違うんだよ! 永愛のこと連れ去ろうとして……っ、触んな!」

 その子がばっと振った腕が、私の頬を掠めた。鋭い痛みの後、温かい液体が流れるのを感じた。触れてみると、血が出ている。

「えっ……」

 その子も血を見て怯んだのか、動きが止まった。私も驚いて動けずにいると、私の前ににいつの間にかあの少女が立っていた。両手を広げて、私を守るように立っている。

「永愛……?」

 お互い、パニックで呆然としていた。すると、横からまた別の女性が現れた。

「永愛、見つかったか」

「な、永野さん」

 永野さん、と呼ばれた女性は私の顔を見るとぎょっとした顔をした。

「あの、大丈夫ですか? それ」

「えっ、いや、その……」

「永野さん、こいつ、永愛を誘拐しようとしたんですよ!」

「そうは見えないが?」

 永愛と呼ばれた女の子が首をぶんぶん横に振っている。それを見て信用してもらえたのか、私の疑いは晴れた。

「とにかく手当をしないと。家、近くなんですけど、大丈夫ですか?」

「あ、はい。すみません」

 少し歩いた場所にあるアパートの一室に案内された。聞くと永野さんが大家を務めるアパートで、そのうちの一部屋に自分も住んでいるらしい。

 怪我の手当をしてもらっているうちに、永愛ちゃんは疲れてしまったのか、私の膝の上で眠ってしまった。

「すみません。桜来が勘違いで怪我までさせて……桜来も、謝んな」

「……紛らわしい真似したこの人が悪い」

 桜来ちゃんは居心地が悪くなったのか、そう言い残すと部屋を出ていってしまった。

「はあ……。ごめんね。他人に慣れてないんだ」

「い、いえ……。あの、永野さんは……この子たちの親、じゃないですよね?」

 永野さんの見た目から察するに、私とほとんど年は変わらないように見えるが、落ち着いた雰囲気はもう少し年齢を感じさせる。それでも高校生の子どもがいる年にはとても見えない。

「はい。私はただの大家。この子たちは親がいないから……代わりに面倒見てるって感じです」

 親がいない。その言葉は衝撃的だった。テレビでたまに見かける孤児の話、私はそれをどこか遠い世界の話だと思っていた。しかしそれは確かに現実に起きている事で、そういう子どもたちもこうして生きている。そう思うと、大人が信用できないのも仕方ない気がした。

「まあ、私の子どもでもおかしくない年だから。余計に面倒見なきゃって気になってるんだよ」

「えっ、そうなんですか?」

 じゃあ永野さんの年って……。聞きたかったけれど、そこは笑って誤魔化された。

「そうだ、名前聞いていい? 私は永野葉月」

「明雪、綾乃です」

 いつの間にか言葉が砕けてきているが、確かにそのくらいには年上なのかもしれない。そんなことを考えていると、永野さんは続けざまに驚くべきことを口にした。

「……綾乃ちゃんね。ちょっとお願いがあるんだけど、あの子たちのためにご飯、作ってくれない?」

「え……えっ?」

 どういう流れでそうなったのか。頭が追いつかない。

「あ、もしかして料理苦手?」

「い、いえ……まあ、少しくらいは」

 実際、割とやっている。一人暮らしをしたいと思い出してから、密かに特訓していたのだ。いざというとき親に反対されないために、一通りの家事はこなせる。

「なら良かった。私は外食ばっかりだからさ、偏っちゃうんだよね」

「え、いやでも……今日だけって話じゃないですよね?」

「そうだね。出来れば毎日。ちょうど一部屋空いてるし、引っ越してくれば?」

 そう言われても……。迷っていると、永野さんが神妙な面持ちで話し出した。

「……実はさ、永愛がそんなに人に懐くの初めてなんだ。言葉が少し不自由で、桜来以外には心を開いてない。なのに、綾乃ちゃんにはこんなに懐いてる。だから永愛のためだと思って、ね?」

 そう言われると、断りづらくなる。膝の上で眠る永愛ちゃんの寝顔は天使のようで、守らなくてはという思いが膨らむのを感じる。

 トドメを刺すように、永野さんが耳打ちをしてきた。

「ご飯用意してくれるなら、特別に家賃は……」

「えっ」

 安い。地方の1Kでもそこまで安くはないだろう。それならバイトしながらでも住める。

「それにもしかして綾乃ちゃん、仕事無いんじゃない?」

「な、何でですか」

「あんな時間に駅から離れた住宅街を歩いてるOLなんていないからね。クビになったかバックれたか……どっち?」

 永野さんの笑みに負け、私は引越しと退職を決意した。

 職場には辞表を叩きつけて一目散に逃げたが、親にどう説明しようかと思っていた。しかし、案外それは杞憂だった。

「一人暮らし? いいんじゃない?」

「い、いいの?」

 思っていたよりずっとあっさり、許された。

「いつまでも実家暮らしっていうのもね。それに、綾乃は箱入り娘だったし、少しくらい外の世界を知ったほうがいいわよ」

 箱入り娘。そんなふうに思われていたのは少し心外だが、とにかく歓迎されたのは良かった。高校生と小学生のご飯を用意する代わりに格安の物件を手に入れたとはさすがに言えなかったけれど。

 そうして、私の一人暮らしが始まった。

「桜来ちゃん、永愛ちゃん。おはよう。いってらっしゃい」

 ゴミ出しに行くと、ちょうど学校に行く二人が出てきた。永愛ちゃんが小さく手を振る。朝からいい物が見れたなと頬を緩ませていると、桜来ちゃんの冷たい視線が刺さる。

「な、何?」

「……やっぱり、通報したほうがよかったかも」

「違うって! もう!」

「ほら桜来、早く行かないと遅刻するぞ」

 いつの間にか葉月さんも出てきていて、桜来ちゃんの背中を押した。

「分かってますよ。じゃあ……いってきます」

 色んなものを捨ててここに来たけれど、代わりに何か大切なものを見つけられそうな気がしている。

 前進か後退かは分からないけれど、とにかく一歩は一歩だ。


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