平清範の事件簿② 土呂殺人事件
鷹山トシキ
第1話
2000年7月16日の深夜、車を蛇行させつつ保険会社のビルに乗り付けた男は、よろめきながら無人のオフィスにたどり着き、事務用録音機をセットして、自らの罪の告白を始める。
同じ年の5月末、大宮の保険会社の敏腕外交員である松田靖は、顧客の実業家、雷門若葉の自宅で、美貌の後妻、和泉に出逢う。和泉に誘惑された松田は彼女と不倫の関係に陥り、結果、倍額保険金目的の若葉殺しに荷担してしまう。
若葉を欺いての倍額保険契約締結、不慮の事故で怪我を負った若葉を、敢えて列車で同窓会の会合に出席させるよう巧みに仕組んだ和泉の工作、駅頭や列車内で雷門若葉氏の目撃者を作るための松田の変装など、殺人は周到な偽装のもとに仕組まれ、実行される。
結果、松田の死は単なる土呂〜東大宮間の列車転落事故として処理され、保険金殺人は完全に成功したと思われたが、保険会社での松田の同僚である敏腕調査員、平清範は、長年の経験による勘から疑問を抱き、死亡保険金支払いを差し止めさせて、和泉の身辺調査に乗り出す。
保険金も得られないまま、手詰まりの膠着状態に追い詰められた松田と和泉は、運命共同体という立場にありながら、相互不信に陥る。
それにつれて和泉の恐るべき正体が徐々に明らかとなり、さらに和泉が亡夫の娘、貴美子の元恋人、四条忠次とも関係していることを知った松田は、和泉と手を切ることを決意する。しかし、別れ話の末に和泉は隠し持っていた銃で松田を撃つ。肩を撃たれた松田は、2発目を撃つことができずにいた和泉から銃を取り上げると、抱きついてきた和泉を撃ち殺す。
全てを告白した松田の前に清範が現れる。松田は逃亡しようとするが、出血多量で力尽きて倒れ込むと、救急車を呼んできた清範につけてもらった火でタバコを吸う。
「これだけ元気なら心配ないな?」と、清範。
7月19日 - 新紙幣の二千円札発行、表「沖縄県首里城の守礼門」・裏「紫式部と源氏物語」。
清範は有給を取って土呂を散策することにした。
埼玉県さいたま市北区南部の主に大宮台地上に位置する。地区の東部で見沼に、南部で寿能町や盆栽町に、西部で植竹町に、北部で本郷町に隣接する。町内は市街化区域に指定され、JR東日本東北本線土呂駅を中心として住宅地が広がっている。見沼の北部にあたる芝川沿いの沖積平野の地区は、土呂町から分離して見沼一丁目 - 三丁目となっている。
もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡大宮領に属する土呂村であった。村内は上土呂および下土呂と私的に区分けされていた。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では198石余(田19石余、畑179町余)、『元禄郷帳』では195石余、『天保郷帳』では新田開発により高入れされ902石余であった。助郷は中山道大宮宿に出役していた。化政期の戸数は64軒で、村の規模は東西5町、南北20町余であった。
1590年(天正18年)より旗本初鹿野氏による知行および幕府領。
1624年(寛永2年)より旗本初鹿野氏知行分の一部を弟に分給。
1661年(寛文元年)より旗本初鹿野2氏および旗本伏見氏による相給となる。なお、検地は1665年(寛文5年)、1689年(元禄2年)に実施。
1727年(享保12年)より見沼が干拓され、村内に見沼代用水およびその分水路である砂分水が翌年開削される。
1731年(享保16年)より見沼通船が開始、村内に上土呂・下土呂河岸が設置される。
享保年間以降に見沼干拓により開発された新田の区域は幕府領。検地は1731年(享保16年)に実施。
延享年間に植竹原新田を開発、検地は1745年(延享2年)に実施。
宝暦年間に寿能原新田を開発、検地は1761年(宝暦11年)、1768年(明和5年)に実施。
1828年(文政11年)より大宮宿寄場55か村組合に所属。
幕末の時点では足立郡に属し、明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、初鹿野伝右衛門、初鹿野啓之助および伏見猪之助の知行。
1868年(慶応4年)6月19日 - 幕府領が武蔵知県事・山田政則(忍藩士)の管轄となる。
1869年(明治2年)
1月13日 - 武蔵知県事・宮原忠英の管轄区域に大宮県を設置。県庁は東京府馬喰町に置かれる。
9月29日 - 県庁が浦和に置かれ浦和県に改称、同県の管轄となる。
12月2日 - 旗本領が上知され、浦和県の管轄となる。
1871年(明治4年)11月13日 - 第1次府県統合により埼玉県の管轄となる。
1872年(明治5年) - 土呂村の菩提寺である浄職院が廃寺となる。大規模な本堂のほか庫裏や堀も持つ風格のある寺院で、享保年間より寺子屋を開いていた。
1879年(明治12年)3月17日 - 郡区町村編制法により成立した北足立郡に属す。郡役所は浦和宿に設置。
1885年(明治18年)7月16日 - 地内に日本鉄道第二区線(後の国鉄東北本線、現在のJR東日本宇都宮線)が敷設され開業する。地内に駅は開設されなかった。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、大和田村・砂村・土呂村・西本郷村・今羽村・堀崎村・島村が合併し、大砂土村が発足。土呂村は大砂土村の大字土呂となる。
1940年(昭和15年)11月3日 - 北足立郡大宮町・三橋村・日進村・宮原村・大砂土村が合併し、大宮市が発足。大宮市の大字となる。
1947年(昭和22年)9月1日 - 現在の土呂町一丁目80番地2にあたる場所に大砂土公民館(本郷町284番地に移転され、現存しない)が開設される。
1953年(昭和28年)4月1日 - 地内に大宮市立植竹中学校(現・さいたま市立植竹中学校)が開校する。
1955年(昭和30年)10月5日 - 町名地番変更により、大字大宮・大字高鼻・大字土呂の各一部から堀の内町二丁目が成立。
1956年(昭和31年)2月1日 - 町名地番変更により、大字大宮・大字高鼻・大字土呂の一部から寿能町一丁目・二丁目が成立。
1957年(昭和32年)11月1日 - 町名地番変更により、大字大宮・大字土呂の各一部から植竹町二丁目が成立。また、大字大宮・大字土手宿・大字土呂・大字西本郷の各一部から盆栽町が成立。
1958年(昭和33年)2月11日 - 町名地番変更により、大字土呂および大字西本郷の各一部から土呂町が成立。
清範は足を伸ばして盆栽町にやって来た。
埼玉県さいたま市北区南部の主に大宮台地上に位置する。東側を土呂町(丁番なしの「土呂町」、および二丁目)、南側を寿能町や高鼻町、西側から北側にかけて植竹町や土呂町(一丁目)と隣接する。町内を東北本線(宇都宮線、以下「宇都宮線」で表記)・東武野田線(東武アーバンパークライン)が通っている。また、大宮総合車両センター東大宮センターに至る東北回送線も通っている。
町内は市街化区域に指定され、JR土呂駅および東武野田線(東武アーバンパークライン)大宮公園駅から近い。これらの鉄道路線に挟まれた区域は区画が整理された閑静な住宅地が広がり、大きな松の木が至る所に植栽されている独特な景観を有する。都市景観大賞(都市景観100選)に選ばれている。地区内は宇都宮線の東側がさいたま市の風致地区に条例で指定され、樹木の伐採植樹や開発行為等が制限されている。地内の大宮盆栽村には盆栽園が数軒あり、国内の愛好家のほか外国人も多く訪れる。宇都宮線の西側は一般的な住宅地で、バス通り周辺に商業施設が多くある閑静な住宅地となっている。
盆栽村はなかなか見事だった。
さいたま市北区南部の盆栽町に位置する。盆栽業者と盆栽愛好家が集まる村を目指して作られた経緯があり、現在も数件の盆栽園が残る。1923年(大正12年)の関東大震災で被災した東京小石川周辺の盆栽業者が当時通称「源太郎山」と呼ばれていたこの地に移住して形成された地区である。盆栽業者たちは東京の壊滅を機に、煤煙などで汚染された都心を離れて、盆栽栽培に適した広く、清涼な水・空気のある土地に移ることにした。目をつけたのが関東ローム層の良質な赤土に恵まれた、草深い武蔵野の山林地帯であった北足立郡大宮町・大砂土村の町村境付近(現在のさいたま市北区盆栽町の南東部)であり、土地一帯を購入して、東京の先進都市を参考に街づくりをはじめた。
近い将来、自動車が普及することを考えて、当時の住宅地としては過剰に広い区画道路を碁盤の目に整備した。道の両側にはさくら、もみじ、かえで、けやきなどの木々が植えられた。また業者と愛好家のための街づくりを趣旨として、移住者に対して、盆栽を十鉢以上保有(たてまえ)、平屋に限る、生垣にする、門戸は開け放つ、などの条件をつけた。当時、何もない場所に民間人が一から町を作り上げた点で、非常に珍しい存在であった。
1925年(大正14年)ごろ、東京から初めの数件が移り住んで盆栽育成に努力すると、地元の業者や愛好者も刺激されて移り住むようになり、1928年(昭和3年)には盆栽村組合が結成され、以下のような住民協約が結ばれた。
①ここに居住する人は、盆栽を10 鉢以上をもつこと
②門戸を開放し、いつでも、誰でも見られるようにしておくこと
③他人を見下ろし、日陰を作るような二階家は作らないこと
④ブロック塀を作らず、家の囲いはすべて生け垣にすること
1929年(昭和4年)の総武鉄道開業で大宮公園駅至近となり、開村後20年足らずで盆栽村と周辺あわせて30軒もの盆栽園が開かれた。
1940年(昭和15年)11月の町村合併に伴う旧大宮市成立後、17年後の1957年(昭和32年)には、それまで大宮・土手宿・土呂・西本郷にまたがっていた盆栽村一帯をこれらの地域から分離して、全国的にも例がない「盆栽町」とし、以後正式な町名として使用されている。
1940年代に第二次世界大戦が勃発すると、戦時統制の下、盆栽は贅沢品とされて軍や周辺町村から嫌われて圧力がかかり、また村内の若い業者や愛好家の兵役・徴集によって廃業が相次いだ。村は有力盆栽業者を、徴集を避けるために自治会長に据え、たまたま村を訪れた陸軍元帥寺内寿一の庇護によって圧力をかわしながら細々と盆栽園の営業を続け、終戦を迎えた。
戦後にも、沿道の樹木が燃料として伐採されるなど冷遇されたが、アメリカ軍の爆撃調査団が大宮を訪れた際に村に立ち寄り、盆栽の芸術性を高く評価してアメリカに紹介すると、海外から注目されて外国人が訪れるようになった。また戦後復興とともに盆栽愛好家が再び増加し、経済成長によって観光客の来村も増え、活気を取り戻した。また国際行事の際には日本文化・日本芸術としての盆栽を展示または寄贈する習慣もできあがり、世界的な盆栽普及に貢献した。
1965年(昭和40年)に日本盆栽協会が発足した際、村内の道路には植えられた樹木ごとに「さくら通り」「やなぎ通り」「かえで通り」「けやき通り」「もみじ通り」「しで通り」の名前がつけられた。
7月21日
九州・沖縄で第26回主要国首脳会議(九州・沖縄サミット)が開催される(23日までの3日間)。
21世紀夢の技術展(愛称:ゆめテク)が東京国際展示場で開催( - 8月6日)。
清範は自宅アパート近くのCD屋にやってきた。
2000年はバラードが大ヒット。サザンオールスターズ『TSUNAMI』、福山雅治『桜坂』、MISIA『Everything』、浜崎あゆみ『SEASONS』、小柳ゆき『あなたのキスを数えましょう 〜You were mine〜』、B'z『今夜月の見える丘に』、倉木麻衣『Stay by my side』、『Secret of my heart』など。
結局何も買わないで店を出た。
家に帰って録画したビデオを見た。
『TRICK』 『バスストップ』『フードファイト』
『Summer Snow』と立て続けに見た。
7月28日 - 四国縦貫自動車道が全線開通。
新美博之は親族と連絡が取れなくなったため、土呂署員らと一緒に10階建てマンションの3階の一室にある1人暮らしの資産家女性、新美光子宅を訪れたところ、血を流して倒れている光子の姿が発見されて事件が発覚した。死後数日が経過していて首や胸など数10カ所を刃物で刺されていた。7月1日から2日にかけて殺害されたと見られ、土呂署は殺人事件として捜査を開始。部屋が荒らされた形跡がないことから顔見知りとトラブルになった可能性が高いとして交友関係を中心に捜査して、光子と不動産の取引があり、1500万円の借金を背負って資金繰りに苦しんでいた会社社長の女性、色部龍子(62歳)が9月17日に殺人容疑で逮捕された。携帯電話の通話記録や返済期限の延期を求めるメモなども証拠とされた。しかし、龍子は一貫して殺害を否認し、(私選弁護人、稲葉梅子のアドバイスを忠実に守り)黙秘権を行使して10月7日に起訴できるだけの証拠がそろっていないとして、処分保留で釈放された。殺人容疑で逮捕された龍子が責任能力とは無関係に釈放されるのは極めて異例とされ、大きく報道された。また逮捕後の捜査で、不適切な行為が行われたことも報道され、批判を呼んだ。
10月10日
土呂郊外の廃墟で松田靖の自殺体が発見されていた。彼は自らの頭を銃でぶち抜いていた。
遺書が残されていた。『雷門若葉、雷門和泉、新美光子の3人を殺したのは私です。私は魔法を使えます。3年前に戻るには3人殺す必要があります。私の身勝手な行いのせいで尊い命を奪ってしまいました。大変申し訳ありませんでした』
平清範の事件簿② 土呂殺人事件 鷹山トシキ @1982
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