一休さん——混沌の室町時代と一休宗純の生き様

たけや屋

アニメ『一休さん』じゃないリアル一休宗純

「ひょっとして自分は死ぬまで社畜人生なんじゃ……」


 そんなことがふと頭をよぎったら人生の黄色信号です。きっと好きなことをやる暇もなく、ひたすら馬車馬のごとく働いてきたのでしょう。心と体を休めなきゃ、冗談抜きで肉体も精神もぶっ壊れてしまいます。


 あなたの人生より重要な会社なんてこの世にないのです。さあ具合が悪かったら躊躇ちゅうちょなく仕事を休もう!

 そして一休さんの生き様に思いを馳せるのです。


 ◆ ◆ ◆


 まあ一休さんは一休さんでもあのとんちを効かせた小坊主アニメのじゃなくて、リアルお坊さんの一休宗純の方です。

 リアルの方は『少年坊主がとんちを効かせて将軍さまをぎゃふんと言わせちゃうぞ!』 みたいなことはほとんど無いんですよね。少しはありましたけど、BL風味のやつが。まあ当時の武士なんて衆道ボーイズラブとセットみたいなもんなんで、別段珍しいことでもないんですがね。


 ともかく、この一休和尚については室町時代当時も常識外れの坊さんっていう扱いだったんですが、後世で様々な尾ひれが付きました。主に江戸時代の読み本と昭和のアニメで。

 では、人間としての一休宗純はどんな人物だったのか?

 そりゃもう、多くの作者の創作意欲を刺激するくらいですから、ぶっ飛んだお人ですよ。


 特に強烈なのが、お偉いお坊さんがたに対する反骨心ですね。

「仏教ってのは本来、各々が修行をして悟りを開くというもの。それが仏陀オリジナル」

「なのに最近(室町時代)の坊主どもときたら、カネ! カネ! カネ! なんの修行もしてないぐうたら野郎共に、大金の見返りとしてご大層な認可状を与えやがる。けしからん!」


 という調子で。

 仏教の修行ってのは、カネのためにあるんじゃない。

 人の目のあるところで修行のポーズさえしてりゃ、あとはサボっても問題ないよね? とかいうもんでもない。

 カネにならなくても、誰も見ていなくても、己のためにやるのが修行なのです。


 一休さんはそれを実践しました。

 ボロ小屋で、あばら屋で、山奥で、愚直に修行を続けたのです。


 ですが世の中は腐っていくばかり。

 特に兄弟子の養叟宗頤ようそうそういとはそりが合わなくていつも喧嘩ばかりしていました。


 兄弟子は現実主義者。京都のカネ持ちから寄進(寄付)してもらって、それで多くの弟子を抱えつつ寺を運営していた。

 一休さんはストイック。カネなんて最低限食っていける分だけあればいいから、修行こそが第一。


 まさに水と油。こんなふたりがうまくいくはずありません。

 喧嘩、喧嘩、またケンカ。兄弟子を罵倒するだけの本を書いちゃうくらいですからモノホンですよ!


 一休さんは修行も独自スタイルでした。

 肉も食えば女も抱く。修行はちゃんとしてんだから文句ねえだろ! と言わんばかりに。まあ実際、当時の一休さんに文句付けられるほど修行に打ち込んでいた坊主がどれほどいたってハナシですよ。


 中でも有名なエピソードが、朱鞘(しゅざや)の大太刀(おおたち)ですかね。

 これは、身長よりも遙かに長い大太刀を差しながら町を練り歩くというもの。

 つるっぱげの袈裟懸け坊主が派手な刀を装備して京都の町中をずんずん行くんですから、インパクトは絶大です。


 でもこの大太刀、中身は木刀です。

 なぜこんな恰好をしていたのか?

 そりゃ皮肉ですよ皮肉。


「大金! お屋敷! ありがたい坊主からのありがたい認可状! そんなもので自分を飾っても、鞘から抜いたらてめえら中身はただの木刀だろ! そんなモンには何の意味もねえ! 誰かオレ以上に修行に打ち込んでいる奴ぁいるか!」

 って。


 ただ、でかい口叩くだけあって、一休さんは本当に修行に明け暮れていたんですよ。

 ボロ屋で修行して、河原で修行して、山奥で修行して。師匠の介護もして、京都でバイトして、金策に各地を駆け回る。世の中に絶望して川に身を投げる寸前まで精神的に追い込まれ——。


 人間味あふれる坊さんなんですよ。

 私物なんて身の回りのものしか無い。私腹を肥やさず、人生の全ては世のため人のため。

 そうやって修行第一の人生を送り、年をとってようやく清濁併(せいだくあわ)せ呑むことを知る。それだけ純粋な人だったのです、一休さんは。

 犬猿の仲だった兄弟子と1度だけ手を取り合ったのも、晩年のことです。アツい展開ですよコレは!(以下略)


 ◆ ◆ ◆


 世は室町時代末期、混沌の世。

 最晩年には天皇に命じられてしかたなく寺の住職に就任ました。しかし社会的立場を得たからといっても今でのやり方を変えず、相変わらず修行に明け暮れる日々。


 この頃は、あの有名な応仁の乱が始まったあたりでもあります。ありがたいものがあらかた焼かれるという末法の世。そこからノンストップで戦国時代に突入。

 日本は戦乱の炎に包まれた。

 坊さんに世の中を平和にする力なんてなかったのです。

 じゃあ一休さんの修行は全部無駄だった?


 いや、違う。

 一休宗純は思想を残したんです。

 それは狂雲集きょううんしゅう自戒集じかいしゅうなどの著作だけではありません。


 その生き様です。

『修行とは己のためにある』

『誰かへのパフォーマンスでやるものではない』

『地道な修行は必ず実を結ぶ』

『積み重ねた修行こそが自信を生む』

『修行を重ねているのなら、たとえ世間から認められなくても、お前は一人前だ』

『その生き様は多かれ少なかれ周りの人に影響を及ぼし、次の世代に繋がっていく』


 一休さんはインテリだったので、漢詩をすらすら書きました。現代人から見ればほとんど読めないような達筆ぶり。たとえ活字に直してくれても、その意味を読み取るのは容易ではないでしょう。

 それらの詩を十全に理解するには、無数の古典をインプットしているのが前提条件。


 ですから、一休さんの書いた詩を無理に理解しようとしなくてもいいです。

 実際、かなり難解な仏教語が連発されているので。

 室町時代最高の頭脳が練り上げた文章なんですから、現代人が太刀打ちできなくて当たり前。


 なので生き様を見るのです。

 自由奔放にして責任感あふれる、一休さんの生き様を。


 修行という言葉は『趣味』に言い換えてもいいでしょう。

 たとえマイナーな趣味であっても、それに打ち込んだ人生はきっと輝いています。


 世間で有名なものを趣味にする——のではなく。

 世間でカネになりそうなものを趣味にする——のでもなく。


 本当に、心の底から、自分が好きだと思えることに打ち込むのです。

 たとえそれがカネにならなくても。

 たとえ世間の主流からハズれていても。

 ひとつのことに打ち込んでこそ人間なのです。


【人間、何のために生まれて、なにをして生きるのか?】


 日本人ならば誰でも聞いたことがある人生の命題テーゼ

 ただカネのためだけに働くなら、それはカネの奴隷です。

 本来は、自分の人生を豊かにするために、カネが必要なのです。

 しかし現代社会はそれが逆転しています。カネを稼ぐために人生を費やしている。


 これは明らかにおかしい。

 さあ皆さん。一休さんの生き様を思い出すのです。


 カネなんて最低限食っていける分だけあればいいから、修行(趣味)こそが第一。

 自分の人生は自分のためにある。


 資本家や経営者のためにあるんじゃない。

 スマホに時間を吸い取られるためにあるんじゃない。


 現役世代のうちはろくに遊ばずひたすら仕事で、年金生活を送るころになってようやく趣味に打ち込もうとしても——さあ果たして楽しめますかな?

 人間ってのはすり減る生き物です。

 やりたくもない仕事や勉強ばっかやってりゃ、退職時分には魂もすり減って、楽しいものも楽しめない。

 若い頃は徹夜でゲームとか楽勝だったのに、今ではタイトル画面を見るだけでお腹いっぱいだよ……みたいな話はよく聞きませんかね?


 人間誰しもそうなる可能性があるんです。魂はすり減り、感性は衰える。

 なので楽しめるうちに楽しんでおくのです。

 世間の主流なんて関係なく、たとえそれがマイナーな分野であったとしても、自分のやりたいことをやるのです。法に反していなければ、誰も文句は言えません。


 ◆ ◆ ◆


「ひょっとして自分は死ぬまで社畜人生なんじゃ……」

 そんなことがふと頭をよぎったら——。

 風狂の坊主、一休宗純の生き様を思い出してください。

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