第6話 小石と波紋

少年はしばらく蝶の姿のままフワフワと飛びながら、夜光花のことを考えていた。


「綺麗だね。」


夜光花の声が蘇ってきて、なんだか嬉しくてふふっと心の中で笑った。


綺麗だって。綺麗って言われた!

次はほんの少しだけ羽を光らせたりして、もう少し綺麗にしてみようか。


そんなことを考えながら、ベルのいる街の方向へフヨフヨと飛んでいると、森の中で突然怒鳴り声が聞こえて少年は飛び上がった。


「なんでねぇんだよ、おかしいだろ!!」

無精髭の生えた小汚い男が持っていた地団駄を踏んでいた。

その側には、16歳と10歳の人間の男の子の兄弟が、怯えた様子で立っていた。

無精髭の男は地面に落ちていた手のひらの大きさの石を拾い上げると、兄の方へ投げつけた。石が胸の辺りに当たって、兄は低くうめきながらうずくまった。弟は兄の側に跪き、兄を心配そうに気遣った。

「ここにあるって言ったよなあ?え?」

男はうずくまる兄の横腹を蹴った。

「…たしかに…咲いていたんです…。」

弟が震える声で言った。

「じゃあなんで今ないんだよ!!」

男が弟を蹴ろうとしたので、兄は飛び出して弟と男の間に入った。男のつま先はちょうど兄の顔面に当たり、鼻が折れる嫌な音がした。

弟は悲鳴をあげ、「ごめんなさいごめんなさい」と言いながら兄に覆いかぶさった。

男はフンと鼻を鳴らし、辺りの木に八つ当たりしながらひとり立ち去っていった。

「にいちゃん、大丈夫?」

弟は涙目で兄の顔を覗き込み、恐る恐る傷を確認した。

「…大丈夫、大丈夫…」

兄はさすがに笑う余裕はないようだったが、努めて明るく振る舞おうとしているようだった。


「“大丈夫”ってどの範囲で言ってんのかわかんないけど、このままだと君、鼻曲がったまんまになっちゃうよ?」


急に聞こえた男だか女だかわからない半笑いの声に兄弟はビクッとし、弟はハッと顔をあげた。美しい顔立ちの派手な格好をした少年が、意地悪そうに笑ってこちらを見ていた。

弟も兄も警戒をし、固まったまま何も反応をしないので、少年はその様子にケタケタ笑いながら言った。

「ブサイクになりたく無けりゃあっちの方に歩いていきな。」

少年は自分が飛んできた方向を指差した。

「普通に行ったらわからないと思うけど、僕が今教えてやったから、多分見つけられると思うよ。君たちの足ならそうだなあ…20分くらいかな?精霊の家があるんだ。見つけられなくてもそこら辺でウロウロしとけば向こうから見つけてくれるだろうよ。大事なのは『助けて〜』って出来るだけ情けなーく叫ぶことだ。そしたらそこにいるお人好しのジィさんが君たちを見つけて、招待してくれる。」

派手な少年はそこまで言うと、「じゃね〜」と言って立ち去ってしまった。

「にいちゃん…」

弟は意見を求めるように兄を見た。しかし兄はそれどころでは無さそうだった。痛みで顔を歪めていて、血も止まっていない。鼻の穴からだけではなく、切れた唇や剥けた皮膚からも出血している。


“逃げたら殺される”


弟は自分の左耳に入った切れ込みを触った。この切れ込みがある限り、自分たち兄弟に自由はない。今すぐあの汚い男の後を追って、あの男の家に戻って、一生惨めな暮らしをするしかないのだ。


頭部の傷は放っておくと死んでしまうこともあると聞いたことがある。

男は、兄の顔を手当てしてくれるだろうか。

いや、そんなわけはない。もしも兄が死んだら「働き手が減った」「処理が面倒だ」という点で残念がるだろうが、その程度だろう。

弟は兄の遺体がぞんざいに扱われ、野に晒されるのを想像し、途端に怒りが込み上げてきた。どうして自分たちはこんな扱いを受けなければならない?俺たちが何をした?罪を犯したのは誰だ、俺たちの親だろう?兄でもない、俺でもない、あの碌でなしのクズどもだ。なぜ俺たちが尻拭いをさせられているんだ。


本当に大事なのはあの男、兄、それから自分、どれなのだ。少なくともあの男ではないはずだ。

弟は自分の中の恐怖が怒りへ変わっていくのを感じながら、兄の腕の下に肩を回し、兄を立ち上がらせた。


“逃げたら殺される”


今この足であの男について行かなければ、あの男の奴隷ではなくなる。

逃げた奴隷は自由になるわけではない。肩書きが“奴隷”から“罪人”に変わり、“罪のない人間”から“罪を犯した人間”に変わる。自分だけではなく、兄までも。


でも…。


「ごめん、にいちゃん…」

派手な少年の指差した方向へ歩き出した。


✳︎


今日で一週間が経つが、リズは相変わらずぼんやりしている。しかしミミから見ると、確かに笑うことは少ないが少しずつ笑顔を見せるようになってきていたし、もうあまり心の心配はないのではないかと思っていた。

それよりも、心配なのはリズの身体の方だった。

もうすぐ雪が降るが、リズは元々何の植物だったのだろうか。寒さに強い植物は存在するとはいえ、それほど多くはない。話を聞く限り長寿なようだから、冬の寒さを乗り越える能力自体はあるはずだが、弱気になっている彼女がもし今、蕾の姿に突然戻ってしまったらどうなるだろうか…。

ミミはそんなことを考えながら蜂蜜を入れたミルクの鍋をかき混ぜていたので、横でパンを切っていたリラがその鍋の中にパンを放り込んだことに気がつかなかった。


「ねえ、ミミ、私、いい事思いついたんだけど…!」

リラはミミを横から覗き込んで言った。

「わ!…何?」

ミミは急に話しかけられて驚いて言った。

「街に行ったらさ、3人でアイスクリームを食べない?」

「あいすくりーむ…?」

「人間の日記に書いてあったやつ!冷たくて甘いって!!」

ミミはしばらく考えたあと、「ああ、あれね」と言った。

「…いいかもね。」


リラによると、“あの子”の運命が終わっているのは隣の国だったが、家族はこの近くの街にいるということだった。お墓があるとしたらその街の近くだろうということで、リズが落ち着いたら街へ行ってみようと話をしていた。

「リズにはいろいろと美味しいものを食べさせてあげたいもんね。いつまで人間の姿でいられるかわからないし、それに…」

ミミは一番の心配事を口に出しそうになり、慌てて鍋に目を落とした。

「それに?」

リラが首を傾げてミミを見た。

「…いや………何でパン入れちゃったの?」

ミミはミルクの中でボヤボヤと浮かんでるものがパンだと気づき、眉をひそめた。

「ああ!!」

リラはポンと手を叩いた。

「それね!リズがここに来たころ、私がご飯担当だった時、間違えてミルク鍋の中にパンを落としちゃったんだけど、それ、リズ、美味しいって言って食べてて。だからこれ食べたらリズ、ちょっとは元気出たりしないかなって…。」

あれー?ミミも一緒に食べてなかったっけ、美味しかったでしょう?とリラはキョトンとした顔で首を傾げた。

ミミは魔法を使って、ミルクびたしになったボヤボヤを鍋の上に浮かべた。ボヤボヤからミルクが滴り落ち、ポタポタとクラウンを作っているのを見ながらミミはさらに眉をひそめた。


「…ミミ、リラ…」


急に後ろから声をかけられた2人は飛び上がった。ミミの集中が途切れた拍子に宙に浮かんでいたボヤボヤは鍋の中に落ち、随分柔らかくなっていたそれはミルクに当たった衝撃でさらに惨めなボヤボヤに成り果てた。

「ご、ごめん、急に声かけて!…大丈夫だった…?」

振り返るとリズが申し訳なさそうな表情で立っていた。

「ううん、全然大丈夫!どうしたの?」

リラは嬉しそうに応えた。

リズが自発的に部屋の外に出て来たのは1週間ぶりだったので、出てきた理由が何であってもミミも嬉しかった。

「…あのね…」

リズがモジモジしながら何かを言おうとした時、


「ポン」と空気の音がして、部屋の中央に置いてある止まり木に小鳥が現れた。

白い小鳥は赤い嘴を開いて警告を告げた。


「シンニュウシャ。フタリ。」


ミミは鍋の火を止めてスッと息を吸って目を瞑り、リラは腰に下げたナイフを抜いた。

リラはあたふたとするリズの手を引っ張り自分の後ろに立たせ、ミミの隣に立った。

3人はしばらくじっと沈黙し、音を探っていた。

何十秒かあったのではと思うほどの静寂は、ミミの「ふぅ…」というため息で途切れた。

「大丈夫。キノジィが通したみたい。」

それを聞いてリラも肩の力を抜いた。

「久しぶりだね、ここに誰かが来るなんて。」

リラがナイフを鞘に戻し、腰の金具に下げながら言った。

「キノジィも、あらかじめ言ってくれたらいいのに。」

リラは困った顔で言った。


リズは辺りを見回した。キノジィの姿は見当たらなかった。

「キノジィはどこにいるの?」

するとリラは笑いながら上方向を指差しながら、「日向ぼっこ中」と言った。

「ミミ、キノジィは何て言ってる?」

リラは目を瞑ったままのミミに聞いた。

「『手当てしてあげてほしい』だって。」

「誰の?」

「人間だって。怪我したみたい。」

「ふーん。」

リラは関心なさ気に言った。

「人間ってほんとに脆いよね、すぐ傷つくし、自分で治せないし。」

自分のことくらい自分でできるようになってほしいよねーと言いながらリラは棚からゴソゴソと医療道具を出した。その様子を見てリズは疑問に思った。

「ミミの魔法じゃ治せないの?」

ついミミに問いかけてしまったが、まだミミが集中しているのを見て慌てて自分の口を手で塞いだ。

ミミは目を閉じたまま「ふふ、大丈夫だよ」と言うと、リズの疑問に応えた。

「魔法って結構難しいんだよ。使うには対象のことわりを知らないといけないんだ。

生き物のことわりは難しくてわたしにはまだ扱えない。」

リズはわかったようなわからないような気持ちになった。


「…よし、大体の場所はわかった。リズ、一緒に迎えに行こっか。」

ミミは目を開けて言った。

「リズ、ちょっと外出た方がいいよ、顔色悪いもん。」

それを聞いたリラはリズの顔を見て、

「ほんとだ、白い。このままじゃモヤシになっちゃう!」

とケタケタ笑った。

「モヤシ?モヤシって何??」

首を傾げるリズに「わたしも知らない」といったようにミミは肩をすくめた。

「モヤシは…何かわからないけど。一緒に行く?」

ミミは改めて訊いた。

「うん!行く!」

リズは頷いた。二人の気遣いが嬉しかった。

「よし、じゃあ、掴まってて。」

ミミは腕を差し出した。

リズは、言われた通りにミミの腕を両手で掴んだ。そしてスッと一瞬眠ったような感覚があり、ストンと落ちる感覚で目が覚めた。すると目の前の景色が変わっていて、2人は家の外にいた。振り返って上を見ると、大きな木を柱に、太く丈夫な枝の上に作られた、いつもの小屋が見えた。

「ねえミミ…」

リズは不思議そうな顔で言った。

「リラは、飛べるの?」

「…?」

リズの唐突な疑問にミミは首を傾げた。

「飛べないよ?」

ミミは「何でそんな疑問が出るかわからない」といった様子で言った。

「…不便じゃない?あんな上に家があったら…」

リズは上を指差して言った。

家の入り口は到底自力で到達できる高さにはない。いつも家への出入りはミミの魔法頼りだったが、自分が来る前からずっと、リラは一々ミミの魔法で出入りしていたのだろうか。

「ああ、なるほどね!」

ミミは頷きながら言った。

「確かに不便だよ。リラは自力じゃ小屋にたどり着けない。というか、“自力でたどり着けるか”という観点で言うなら、翼があったとしてもリラは自力ではたどり着けないよ。精霊に許されていないから。」

「精霊…?」

ミミは、歩きながら話そう、というように進行方向を指差した。

「キノジィは精霊だよ。気づかなかった?」

ミミは歩きながら言った。

「…?」

気がつくも何も、“精霊”という概念がリズにはわからなかった。

「精霊って何??」

リズは小走りでミミに追いつきながら聞いた。

ああ…とミミは言ったあと、「うーん…」と唸った。

「んー…改めて言われると何だろう、わからないな…」

ミミは眉間に皺を寄せた。

「生命の塊みたいな…世界の要素みたいな…。定義はわからないけど、感覚的には“実体のない生き物”って感じかな?いや、なんかそれも違う気もするけど…」

定義するのって難しいよね、とミミは笑った。

「実体がない…生き物…。」

リズは不思議そうに眉をひそめて首を傾げた。

「うん、みんなには精霊は見えていないみたいだね。声も聞こえないみたい。」

「キノジィも精霊なんでしょう?キノジィには実体があるように見えるけど…」

「ああ、キノジィは特別だよ。ココアが飲みたくて実体化してるんだって。力の強い精霊にはそんなこともできるみたい。」

変人だよね、とミミは笑った。


リズはキノジィが精霊だとわかって「なるほど」と思った。キノジィは人間には見えないと、初めて見た時から思っていた。


「どうしてリラは、精霊に“許されてない”の?それって“家に入っちゃだめ”ってこと?それともリラは精霊と仲が悪いってこと?」

「前者だね。精霊には好き嫌いの概念はないから。精霊は、人間よりももっともっとクリアな感じ。泥沼っていうやつの真逆かな。感情はあるのかもしれないけど、純粋な観測者、というか…何というか…無関心ではないけどとことん無干渉?みたいな…」

だからキノジィは本当に変人なんだけどね。とミミは言った。

「で、どうしてリラが家に入るのを許されてないか、だけど、許されていないのはリラだけじゃないんだ。むしろ、わたしが例外中の例外。なぜわたしがあの家…というかあの土地に入れるのか、そっちの方がわからなくてね。キノジィに理由を聞いてもいつもニコニコして何も答えないんだ。」

そう言った後、ミミは前方にうずくまる人影を見つけて足をとめた。

それを見てリズも立ち止まり、森の先をじっと見つめた。

「リズはそこで少し待っててね、変な人だといけないから。」

そう言ってミミはひとりで人影に近づいた。


夕焼けのオレンジの強い逆光のせいで遠目ではよくわからなかったが、人影は二人いるようだった。

二人の人影はミミが近づいてくるのを見て顔をあげたが、逃げることはなかった。

「…大丈夫?」

ミミは目の前にうずくまる二人の男の子に声をかけた。大きい方の人間は顔が血だらけで、意識も朦朧としているようだった。

大丈夫なわけがない、と思ったミミは、

「君は大丈夫?」と、小さい方の人間にも声をかけた。

小さい方の人間は涙目で、驚いたような表情をしていたが、ミミと目が合うと力強く頷いた。

ミミはその様子に微笑むと、「こっち来て」と後ろにいたリズに呼びかけ、大きい方の人間の手をにぎった。

リズがそばに来ると、「ごめん、わたし、一度に運べるのは二人までだから、ほんの少しだけ、この子とここで待っててくれない?」と伝え、大きな人間と一緒にキノジィの家までテレポートをした。



唖然としている間に兄が見知らぬ女の子に連れていかれてしまったが、アルは焦ってはいなかった。先ほどの女の子も今一緒にいてくれている女の子も、優しそうで、悪意を感じなかった。これで助かった、とアルは安心していた。

一方残された女の子の方はおろおろとしていた。残された直後からこちらをチラチラと見ては、手を出して引っ込めて、何かをしようとしているが出来ない、といった様子で落ち着かない。

アルは見かねて、「ねえ…!」と声をかけた。

女の子はビクッとしてこちらを見た。初めてまともに目が合った。年上のようだが、弱々しい表情のせいで、全く頼りにはならなさそうだ、と思った。奴隷の自分が言うのもなんだが、目のクマは酷いし髪もボサボサだし顔色も悪いし、非常に不健康そうな子だと思った。

女の子は目が合うと、そらさずにじっとこちらを見つめて黙っていた。

彼女を見てアルは生まれて初めて、生物として「自分の方が強い」と感じ、心がぎゅっとした。

”うれしい”はあるかもしれない。いや、”うれしい”は確実にある。しかし同時に言いようのない不安も感じた。崖の上からのびた平均台の上に赤子を抱えて乗っているような…。

兄も自分を抱えてそんな気持ちだったろうか、とふと思った。

「…大丈夫だよ、すぐにもどってくるよ。」

アルは内心、これは自分が言うセリフではないな、と思いつつ、そういってみた。すると女の子は驚いたように目を見開いた後、くすくすと笑って「ありがとう」といった。アルはなんだか自分の耳が赤くなっているような気がして、女の子から目をそらした。


そうこうしていると本当にすぐに先ほどの女の子がひとりで戻ってきた。


アルはワクワクしていた。先ほど兄を連れて行った時、この女の子は魔法をつかっていた。魔の力は穢れた力だと大人たちは言うが、アルにとってはそんなことはどうでもよかった。早くその力が見たかった。

「さあ、次は君だ。」

リズもつかまって、といって女の子はアルと彼女の手を取り、目を瞑った。

アルは何が起こるかを全て見ていたい、とワクワクしながらその瞬間を待った。


「…あれ…?」

ミミは瞑った目を開けて眉をひそめた。

「…。」

ミミはじっとキノジィの家の方向を見つめた後、その方向に向かって走りだした。

「ミミ!?」

リズは驚いてミミの後を追おうとしたが、見えない壁にぶつかって跳ね返った。


「ミミ…?」

見えない壁に囲まれた空間の中に、リズとアルは取り残されていた。


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