第4話 記憶

“あの子”の話をした夜以来、リラは蕾に対して少し優しくなったように見えた。

リラは“人間”と接するのは苦手なようだが、蕾が“植物”と知ったからだろうか、話をすることにあまり抵抗を見せなくなった。慣れもあるのだろうが。

蕾がこの家に来て3日目の朝、蕾に名前をつけようと言い出したのもリラだった。


視力を初めて得た蕾にとって、目に映るものは何でも面白いらしく、その日の朝も窓辺にたまたま留まったモズに興味を示して、キノジィをつかまえて質問攻めにしていた。

キノジィが「モズのはやにえ」の話をしている時に、リラが突然脈絡なく会話を遮る形で名前の話題になったのだった。

リラが脈絡なく会話を遮って好き勝手な話をすることはよくある。だからその点に関しては何も不思議なことはなかったが、内容が、リラが「アレ」と呼んでいた蕾に関する内容だったため、リラが、

「名前、“リズ”はどうかな?」

と言い出した時、ミミは驚いた。


「…リズ…?」

ポカンとした蕾と、嬉しそうにリラを見つめて黙っているキノジィの代わりにミミが尋ねた。

「…変かな…」

リラは呟くように言って、頬を少し赤らめて俯いた。

「…いや…」

ミミはリラの様子をじっと見ながら続けた。

「“リズ”って、彼女の名前にどうかって言ってるんだよね?」

「うん…」

「ずっと考えてたの?」

「………変かなあ!?」

どんどん赤くなっていく頬がついに爆発したようで、リラは顔を上げてミミを見て大きな声で聞いた。

少し潤んだ瞳と膨らんだ頬を見て面白くなってしまい、ミミは吹き出してしまった。

「いや!変じゃないよ!!」

そう言いながらまだニヤニヤと笑っているミミを、リラはさらに睨みつけた。そんなリラを見ながらミミは続けた。

「いや、わたしは変じゃないと思うけどね?彼女に聞いてみないと。彼女の名前だからね。」

急にミミ、リラ、キノジィ3人の視線を受けた蕾は、誰を見たらいいかわからずあたふたと視線を彷徨わせながら、モジモジと居心地悪そうに動いた。5秒ほど何やら迷っていた蕾は、何かを思いついたように、意を決した表情になると、スタスタと部屋の隅で椅子に腰かけていたリラの方へ歩いていった。

リラは自分に近づいてくる蕾にギョッとしたように身を引いて固めたが、後ろに壁があるので大して後退りはできなかった。

蕾は固まったリラの前に膝をつき、リラの手に両手をのせて、「ありがとう」と言った。


そうして蕾の名前は「リズ」に決定したのだった。


確かに、「アレ」と呼ぶのはどうかと思う、とリラに注意はしたが、まさか自分で名前まで考えてくるとは思っていなかった。ミミはリラが、自分以外の存在に心を開き初めている気配を感じ、心から嬉しく思った。


名前を自分で決めて以来、リラはよりリズに対して関心をもつようになり、リラとリズは少しずつだが確実に仲良くなっていた。


そして、リラがリズに対し、ミミやキノジィに対するのと大差ない態度で話ができるようになった秋の終わりの日、リラとミミは“あの子”のことをリズに伝えることに決めた。


その日は朝から、ミミとリラ、リズの3人で、ピクニックがてら、夕飯のおかずにする木の実を探しに森の中に来ていた。

食べものを持って食べものを探しに行く、という行為は、無駄があるようで無駄はなく、生きものの営みそのものという感じがして、ミミは楽しかった。リラとリズが楽しそうに前を歩く様子を見るのも楽しかった。

しかし、ミミとリラはあらかじめ、「今日話をする」ということを2人で話をしていたので、ミミからはリラが少し緊張しているように見えた。


「ねえ、見て!!」

リズが小川のほとりに一輪だけ咲いている青紫色の小さな花を指差した。

「きれいだね…ねえ、これは何っていう花?」

リズは、隣で一緒にしゃがんで花を見ているリラではなく、後方をノソノソ歩くミミに向かって呼びかけて聞いた。

3人で過ごした2か月の間に、リズは疑問を誰にぶつけるのが一番効率が良いか学んでいた。一番面白い話が聞けるのはキノジィ、端的に早く知りたい時にはミミだ。


ミミは2人がしゃがんで見ている場所まで来ると、2人の頭越しに覗き込んでその花を確認した。

「……?」

ミミは眉をひそめた。

「…なんだろ…少なくともこの辺りでは見たことないな。」

「……スミレ。」

リラが呟いたので、リズとミミは驚いてリラの方を見た。ミミが知らないことをリラが知っているケースはとても珍しかった。

そしてリズはリラを見た後さらに驚いた。リラの目に涙が浮かんでいたからだ。

「…どうしたの…?」

リズが心配そうに聞くので何事かとリラの横にしゃがみ、顔を覗き込んだミミもリズと同じように驚き、動揺した。

「…リラ…?」

ミミは心配そうに呼びかけた。

リラは一度だけパチリと瞬きをし、目に溜まった涙を地面に落とすと、何かを振り払うように首を振り、困ったように笑った。涙はもう出ていないようだった。

「ごめんごめん…。この花、母さんが好きな花だったから…。

この花は…ずっとずっと、遥か未来に咲くはずの花なんだ。いや、“咲くはずだった”花かな…。」

リラは困った顔のまま続けた。

「父さんがまた世界を勝手にいじっちゃったんだと思う。困ったひとだよね。」

リズはミミの様子をチラリと見た。ミミには今の話の内容がわかったのだろうか。反応を見ようとしたが、よくわからなかった。首を傾げて考える顔をしているように見えた。


リラはもう一度、スミレをじっと見つめた後、ぎゅっと口の端を結んで、切り出した。


「リズ。大事な話があるんだ。」


リラの纏う空気が急に重たく、悲しみを孕んだものに変わったのでリズは驚いた。

リラは、意思を固めたような表情で言った後、次は迷っている顔をし、改めてリズを見つめ直した。

「リズは、今でも花になりたい?」

リズは迷わずに言った。

「なりたい。」

「どうして?」

「そのために生きてきたんだもん、なりたいよ。わたしの夢はずっと変わらない。この姿になる前からずっと夢見てきた。“あの子”に『きれいだね』って喜んでもらうの。」


しばらく考えた後、さらにリズは続けた。


「でもね、もしもわたしの姿が“花”に戻れなくてずっとこのままだったとしても構わないよ。だって、この姿なら、自分の口で『ありがとう』って伝えられるでしょう?花の姿でなくても、立派な“人間”になって、『助けてよかった』って思ってもらえれば、それでいいの。」


リラが伝えたい内容は“花の姿には戻れない”ということかと予想していたリズは、「戻れなくても構わない」と伝えることで、リラの顔は晴れると思っていた。


しかし実際にはリラの顔はさらに悲しそうに、苦しそうに歪んでしまった。


その様子を見て、リズの中に不安の雲がじわじわと広がっていった。リズは、必死に目を背けてきた最悪の想定が事実となることを予感した。


「“あの子”のことだけど…」


リラの声が、壁を一枚隔てた空間にあるように聴こえてくる。

どうか、予想が外れてほしい…。


「もう…」


ああ、もうだめだ…

わかってしまう…


「亡くなってる…。」


言葉が染み込んでくるのを身体が拒否しているように、リラの言葉は本人の声色のまま、リズの心の中に反響した。

こだまが鳴り止まない心の中とは裏腹に冷たく静かな頭の中には、最後に会った“あの子”の声が再生されていた。


「守りたい人ができたんだ。だから、僕はいかないと。」

「怖くはないよ。彼女たちの笑顔を守れるなら。怖くは…ないんだ。」

そう言ったあの子の声は、震えていて、そして何かを諦めているような、優しく穏やかな声だった。

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