第15話 ハート・ブレイク
「アイ……ディアル」
血を吐きながら繰り返したのは、メタモルフォーゼだった。
「聞いてない……よぉ。ルナチャイルドだって言ってたけど、まさか仲間がいるなんて。本部、聞いてた?ルナチャイルド『アイディアル』と交戦中。情報ちょうだい……」
胸のスマートフォンに向けてメタモルフォーゼが話しかけている隙に、アイディアルはシンヤに駆け寄る。
「こっぴどくやられたな。これは絶望しても仕方が無い」
「これで説教を喰らったらどうしようかと思った。治せるか」
「ヒーローに出来ないことはない……が、時間はかかる。それまであの子が待ってくれるかどうか」
アイディアルは必死にやりとりするメタモルフォーゼと、息も絶え絶えなシンヤの方を交互に見やる。そしてため息を吐いて決断する。
「あの子を始末してからの方が、安全そうだ」
「……本部?良く聞こえなかったんですけどぉ?勝算無しってどういうことですか?挑みかかったお前が悪い?ちょっと、どういうことですか?あの、まだ話終わってないんですけど、切らないで下さい、ちょっと!ちょっと!」
スマートフォンにすがりつく、メタモルフォーゼ。そちらに向けてアイディアルは悠然と歩みを進める。
「どうやらお話は終わったようだな」
「……はい。終わりましたぁ!」
しかしいつまでも沈んでいるメタモルフォーゼではない。怒りを顕わに、沈黙したスマートフォンを両手で挟む。すると例の耳障りな音と共に、それが磨り潰されていく。
「クソ役立たず。私一人でやれますぅ!やってやりますぅ!オオカミシンヤの討伐。一人でやります!」
「そうか。なら君は、決定的に私の敵だ……!」
片や身長百四十センチメートルあるかどうかの少女。片やガタイのよい大男。戦うまでもなく、哀れなほどに勝敗は明白のように見えるが、お互いがルナチャイルドという点で勝負の行方は分からない。アイディアルを送り出したオオカミは深いため息を吐いて、痛みと出血に耐えかねて気絶してしまわないよう、前をじっと睨んでいた。
その視界に、スキニーパンツを纏った細く長い脚が映る。
「……私が手を下すまでもなく、くたばりそうじゃないの。オオカミ」
「その声、スティグマか。追いつかれてしまったか」
「存外、落ち着いてるじゃないの」
スティグマは言い捨てて、脇で行われているもう一つの死闘に目をやる。一方的な蹂躙には、今のところなっていない。メタモルフォーゼのねじる力は実際に厄介で、警戒のために軽々に手を出せないというのが一つ。もう一つは、アイディアルもスティグマに気付いている。スティグマの方が、遙かに強大な脅威であるということに。
「あのデカイのはお友達かしら」
「……俺の、ルナチャイルド……らしい」
「あんた」
スティグマはオオカミと目を合わせるためにしゃがみ込んだ。その瞳には、ひどい怒りが燃えていた。
「その力がありながら、今まで隠していたっていうの」
「隠したつもりはない。本当に、知らなかったんだ。こうなるまで思い出せなかった。そういう力だったんだ」
「……それがルナチャイルドの異能なら、仕方ないわね」
物わかりが良いのは、彼女自身もまたルナチャイルドだから。そうして苦しんできた過去があるから。
そしてそれ故に、スティグマがオオカミを赦すことはない。
「いっそ、ひと思いに死にたいとは思わないかしら」
「思わん。それよりお前がそう思っている限り、お前は俺に対する脅威だ。メタモルフォーゼの次はお前だぞ、スティグマ」
「やれると思ってる?」
「アイディアルの攻撃は俺の意思とは関係ない。ある種自動的なんだ。俺が絶望しなくなるまで、状況を改善し続ける。だからスティグマが死なないと分かれば、それ相応の対応をするんだろう」
「結論が出たわね」
スティグマは言うなり、オオカミに向けて手をかざした。その手のひらには、真っ赤な裂傷が大きな口を開けて、血を滴らせている。
スティグマの首には、今までは見られなかったチョーカーが巻かれている。
「お前を殺してから、メタモルフォーゼを処理して、私は逃げる。それしかないわね」
「……合理的だ」
命乞いの余地などは、きっと残されていない。だからスティグマの言うことを、オオカミは全て肯定する。
「合理的なんだが……、一つだけ、訊いて良いか」
「なに」
「なんでわざわざ俺を殺しに来たんだ。殺されるなら殺されるなりに、納得してから死にたい」
スティグマはその問いに即答する。
「あんたがオオカミだからよ」
「わけがわからん」
「あんたがオオカミだから。それ以上でもそれ以下でもない。あんたはオオカミであるという事実だけで死ぬ。悪く思うなとは言わない。けど一切の釈明は聞かない」
「そういうことなら……分かった」
深いため息を吐きながら、オオカミは血みどろになったポケットからスマートフォンを取り出した。
「……電話だけ掛けさせてくれないか」
「なんのために」
「三度目の失敗を……詫びるためだ」
オオカミは僅かずつではあるが血の気を失っている。朦朧とし始めた意識の中で、念頭に登るのはいつだってユナのことで、目の前の脅威であるスティグマをどうにかしようとかいうことは二の次であった。
スティグマはそのことに苛立ったが、オオカミにそうするよう手つきで促した。それは温情などではなく、通話中に容赦なく殺そうという打算から来る物だった。
「恩に着る」
そんなことはつゆほども知らないオオカミは、通話履歴に一種類しかない電話番号をタップする。コール音。少し待たされるが、繋がる。
「シンヤ!」
「ああ、ユナ。悪いが、もう約束、守れそうにない」
「アホ言うな。どこや……分かった。十秒まってな」
「……分かった?」
「話は終わりよ」
スティグマが再び、オオカミに右手をかざし、チョーカーに繋がっていたロケットを左手で勢いよく引いた。するとスティグマの喉に巻き付いていたチョーカーが、引かれた勢いのまま回転する。
スティグマの首を、切り裂きながら。チョーカーの裏側には鋭利な刃が無数に生えていて、それが回転することでスティグマの喉を落とさんばかりの切断体となる。
それが意味することは、単にスティグマの傷を増やすということだけなのだろうか。
知ったことではない。知ることもできない。オオカミは恐らく同じように、首を落とされて死ぬからだ。
そう分かっていても、オオカミはユナの言葉に期待してしまう。十秒と言ったから、残り五秒ほど。
「じゃあ、さようならオオカミ」
スティグマの手が、オオカミの首へと伸びてくる。
三。オオカミは目を閉じる。
二。しかし、閉ざそうとした意識の中に飛び込んでくる音がある。
一。スニーカーで駆ける音と、切迫した息切れ気味の呼吸。
〇。
「シンヤ!」
聞き馴染んだ声。ただしそれは絶叫。
それと共に横から抱きすくめられて、オオカミは当惑する。
しかし同時に、そうしてくれることがまったく自然なことに思えて、オオカミは目を開き、隣にぎゅうと抱きついているその娘の頭を優しく抱く。
「アホシンヤ!」
「……ユナ」
「ユナ……」
「コチョウラン、どうして」
殺し殺される側、双方が驚きのあまり瞬間動きを止める中、ユナだけが止まった時間の中で動き続けていた。ユナはオオカミの傷を手に負えないとそうそうに諦めて、代わりにオオカミの頬を両手で挟んで。
「シンヤ……間に合ってよかったわ」
そう言ってオオカミの胸板に、顔を埋めるのだった。オオカミの胸はみるみるうちに湿っていく。ユナの号泣を受け止めているせいだった。
「……三回目やん、シンヤ」
「悪い」
「仏の顔も三度までやんね」
「……本当に、すまない」
「アホか」
ユナはオオカミを見、そしてスティグマを見、決然として言った。
「分かったんよ。シンヤが約束を守れない理由。あたしのせいやん。シンヤの方から来てくれるってずっと待ってるだけだった、あたしのせいやんな……」
「俺は、そうは思わない。守ろうと努力するのは俺の」
「じゃあ一人で約束ができるんか、守れるんか。言うてみいよ。……できひんやろ」
ユナが詰ったことは、しかしオオカミにとっても真実ではあったのだ。
約束は、誓約は。一人だけでは成り立たない。必ず相手がいなければ、成立しない。故に約束は一人だけのものではなく、相手と共に守っていくもので。
「だから、あたしも守る。オオカミがしてくれた約束、あたしも守る。もう離さん。ずっとそばにおるから。遅すぎたかも知れないけど、ずっとそばにおるから……だから、死なんといて……」
「コチョウラン」
やりとりを聞いていたスティグマは、戦慄いていた。
「わざわざそのためだけに。ドーナイザーの目も気にせずに。あなたはハイツから出てきたっていうの」
「ママとポーカーフェイスには悪いこと言ってしもたね。あたしのワガママ通すために、安全な場所まで出てもろうて」
「そうじゃない。オオカミのために、私の前に立ちはだかるのかって聞いてるのよ」
「当たり前や。わざわざそのため?笑わせんといてな。今動かなかったらいつ動くねん。女がすたるわ」
ユナは一歩も退かない。
「大好きな人のことを助けられんで、何がこの命やねん。どうせ半分死んだようなもんやのに、せめてもう半分の命くらい賭けられんで、どうして好きでいられるか」
「その結果、私にズタズタにされるとしても」
「死んだ方の命がもう一回死ぬだけや。シンヤだけ先に逝かすくらいなら……やってみぃよ、スティグマ。あたしはそれでも構わない。やっていいよスティグマ。あんたがそれで満足するんなら!」
それは思い返せば遠い日の記憶のようで、しかし実際には当日に、コチョウランがスティグマに言い放った言葉とほぼ同じ。
スティグマの揺れる心を激しく抉る、鋭い拒絶の言葉。同時にオオカミとの絆を示す、何よりの言葉。
「…………」
スティグマの、手のひらに開いた傷が胎動する。それはスティグマの鼓動の高鳴りにつれて次第に早くなり、まるで何かを取り込もうとしているかのように生々しく動く。
「だ、そうよ。オオカミ」
未だ手のひらはかざしたままだ。しかしスティグマの声からは、殺意という名の覇気は消え去っていた。
残っているのは、哀しい諦念。
「これだけ想われていて、これだけ好かれていて……あんたはまだ、約束とかいう言葉で自分を縛るわけ」
「……言いたいことが分からない。俺にはそれしかない。約束を守ることしかできない」
「だとしたら……」
スティグマはその瞬間、オオカミたちへ瞬時に歩み寄ってコチョウランを突き飛ばした。
「あんた、この先ずっと間違い続けるわね」
そしてスティグマは、オオカミの頬を両側から押さえつけて逃げられないようにして、それを敢行した。
口づけたのである。
それは時間にしてみれば僅かな間だったに違いない。しかしオオカミにとっても、もちろんスティグマにとっても、特別な意味を持っていた。
オオカミは、口づけられているその間に、胸の辺りに痛みが生じてそれがどんどん増していくのを感じていた。鈍痛が常にある。茨が心臓に巻き付いているかのような、脈動の度に痛む感覚。それが極まったときに、最後に心臓へ打ち込まれた強烈な一撃が、オオカミを噎せ返らせて口づけの時を終わらせた。
「……もしかして、ファーストキスだったりして。悪いわね、コチョウラン」
「スティグマ、何をした。胸が痛くて、痛くてしょうがない」
その一言を聞いたとき、ユナははっと察してオオカミの許へ駆け寄る。するとオオカミはユナを遠ざけようとしている。
「ユナ、ちょっと待ってくれ。痛みが……強まる。これはなんだ、スティグマ」
スティグマは、乾いた笑いをあげてオオカミを指さした。
「私の聖痕(スティグマ)。初恋の傷。あんたにあげるわ。後生大事に持っていって」
「初恋の……?なんだって」
「スティグマ!あんたは、どうなったの」
ユナはスティグマの様子が変わったことを鋭く察知して言った。手のひらに胎動していた傷が、今は消えている。それは自分で消したのか、それとも別の要因があるのか。
スカイクラッドが地面に立っているように、スティグマもまた……。
「……ドーナイザーの兵隊が来てる。メタモルフォーゼがやられたか……逃げたか、したせいかしらね」
「征くっていうんやないやろな、スティグマ」
「当たり前でしょ。私が行かなきゃ、銃弾は止められないわ」
「さっきまであたしたちを殺そうとしてたっていうのに、どういう風の吹き回しよ」
「そのとおりよ。気が変わったの。あんたらが揃いも揃って大馬鹿だから、バカバカしくなっちゃった」
スティグマは天を仰いで、次いでオオカミを見て言った。
「オオカミ、あんたのことは絶対に許さない。だけど最後に忠告だけしてあげる。あんたの最初の約束がなんだったのか、きちんと思い出しなさい。今すぐ」
「最後……?スティグマは?」
「大丈夫よ。オオカミは知ってるもの。私はどんな傷を受けてもすぐ元通りになる。だからすぐ会えるわ。大丈夫」
「……今も、本当にそうなの?」
女同士、勘の働くところは気が楽であると同時に、こういうときは少し面倒だ。
「行って。私の気が変わらないうちに」
スティグマは、それだけ言って駆け出した。
これ以上喋っていては、決心が揺らいでしまうから。
また新たな傷が、彼女を埋め尽くしてしまうから。
表通りに出るなり、目に飛び込んできたのは包囲陣系を敷く重武装の兵隊たち。斉射の号令。銃声が辺りに鳴り響く。
――許してね、恋心。他の誰かに託しちゃったことを。
銃弾の雨が、あの日オオカミたちを庇ったときのように降り注ぐ。受ければ受けるほどに血が噴き出す。その傷が治ることはない。なぜなら彼女はすでに、その聖痕を失ってしまっているのだから。
それでもスティグマは、その場に立ち続けた。彼らが逃げる時間を少しでも稼ぐために。
スティグマはずっとそうしてきたのだった。誰彼構わず一方的に、気遣った気になって、相手を愛した気になって。それだけで満足してしまっていて。
それ故に誰からも愛されずに、ここまで来てしまった。
愛されようもなかった。その資格すらなかった。
絆という糸を、結ぼうという気もなかったのだから。
だが、そんな一人やもめだからこそ、できることがある。願えることがある。
今初めて、スティグマは他人の行く末を心から願ったのだった。
前途多難な二人の旅路に、幸多からんことを、と。
「……効いてるぞ。第二射、きちんと狙え」
――ああ、痛いな。これが、痛みか。こんなに痛かったんだ。
「構え」
――でも、こんな程度。
撃て、の号令は早まった一人の隊員が放った銃声によって聞き取れなかった。
その銃弾はよく狙い澄まされていた。スティグマの胸の奥の奥にある、命の源である心臓を、寸分違わず撃ち抜いた。
口から大きく血を吐いて、スティグマは膝から崩れ落ちる。しかしそれが浮かべた表情は、苦痛に満ちたものではなく、むしろ安らかですらあった。
――痛みなんて、こんなもんか。
落命するその瞬間、魂が抜け出るかのように、一条涙がアスファルトに流れ落ちる。それを見送るかのように、スティグマは自ら目を閉じる。
それは、地面に吸い込まれて、誰にも見えないうちに消え去った。
――こんなの、失恋(ハートブレイク)の痛みに比べたら……全然マシだわ。
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