第14話 オオカミ少年の根源
「おにーちゃん、まだ解けないわけ?」
「むむむ、もうちょっとなんだ……足りないピースがもう少しで埋まるような、そんな気が、する」
「それゼッタイ解けないヤツなんですけど。ついでにそれが最後の問題なんですけど」
「もうちょっとだけ、もうちょっとだけ時間をくれ」
「それも何度目……。あ、ママ。全身で来るなんて珍しい、ね…………」
開け放っていた扉の前に立っていたのは、紛れもなくママだった。角に目を大きく誇張したアイメイク、硬質な印象を与える肌化粧。優しいママだった。
ただ一つ、ソラが絶句した原因であるところの、球体関節タイツを纏った両腕が消し飛んでいることを除けば。
「……ママ!」
「ソラちゃん、私は大丈夫だからオオカミ君を外に」
「なんだ、何が起こった」
オオカミはママの切迫した様子に応じて、即座に臨戦態勢に入る。
「ソラはもう普通の女の子だ。自分の身は自分で守る。だから何から身を守れば良いのか教えてくれ」
「ああ、そうだったわね……。今この瞬間だけは、ごめんねソラちゃん、それが口惜しいわ」
「……ハイツの中で何かが起きているのか?」
「時間が無い。私の腕が頑張って止めているけど……」
そう言っているそばから、ママの顔が苦痛に歪む。きっとどこかに伸びている腕が、苛まれているのだ。
ママの権能を前にして楯突けるだけの存在。オオカミはそれを、一人しか知らない。
「まさか、スティグマが暴れてるのか」
「そうよ。あの子が自室に帰って、アレを手にしてしまったら……私じゃ止められないし、そうなったら止めない。ハイツごと壊されるのはごめんなの」
「ママ!それじゃあ」
「ソラちゃん、ごめんね。だけど私は……、私のお城を守るためにオオカミ君を放り出す」
そう言うが早いか、ママの左手がオオカミの足元から生じた。その大きさは、オオカミの決して小さくはない体を握りしめてあまりあるほどだった。
「ママ、なんで!スティグマおねーちゃんを止めればいいじゃん。そうじゃなきゃ、どうせスティグマおねーちゃんも放り出すんでしょ。おにーちゃんが」
「そうよ、死んでもらう!」
いつの間にか右手も、ママの許に戻っていた。その右手でママは顔に爪を突き立てていた。血が流れ出て、目尻を伝い、まるで血涙を流しているかのようだった。
「ここは私のお城。私の砦。私が主。私が掟。そして私が要(かなめ)。故に私を脅かすものは万難を排して排斥する。悪いわね、オオカミ君。さようなら」
ソラが絶叫するのも、ママがその瞬間にうずくまるのも、おぼろげな残像にしか見えないほどの速さで、ママの左腕はオオカミを引きずって窓をぶち破り、外界とハイツを隔てる壁を登っていく。あまりの加速度に失神しそうになるのをオオカミは堪える。
ここで気を失ったら、何もかも終わりになってしまう。オオカミの気がかりは、たった一つだけだった。
ハイツ・ムーンライトの上端からオオカミが放り出された時、ハイツを運搬しているポーカーフェイスが食事を取っていたのはとある老舗のカレー屋だった。人が突然その場に現れれば、当然騒ぎになる。ポーカーフェイスは顔色こそ変えなかったが、明らかに苛立った舌打ちを一つして、脱兎のごとくその場から逃走する。残されたのはオオカミ一人。今のところは。
店主がどこかしらに電話を掛けているのが見えた。恐らくは、ドーナイザーのところ。彼らに追いつかれることもまた、ほぼ確実な死を意味する。しかしオオカミはポケットに入っていたスマートフォンを取り出し、ソラに一言メッセージを送る。返信はすぐに来る。それを見てオオカミは初めて、スマートフォンを握りしめて気合いを入れるのだった。
「……ユナが無事なら、あとは俺が生き残るだけだ」
でも、どうやって。
オオカミの中の正気が、そう語りかける。
「できるできないじゃない、生き残るんだ。だってユナが待っているんだから」
答えたのはオオカミが抱く、約束という名の束縛だった。あまりに強く心を締め付けるその縛めは、どう転んでも死というこの状況に対して正直に笑いはじめた膝も、引きつりはじめた頬も、冷や汗すらも抑えこんで、オオカミを正常な状態に戻していく。
その機序を異常と呼ぶものがいたとしてもおかしくはない。しかしオオカミにとってはそれが普通だったから、何の疑問も抱かない。
「約束したんだ。ユナと」
その一言だけで、オオカミは走り出すことができる。
「それに……」
その一言だけで、オオカミは戦うことができる。
「約束したからな……あいつらとも」
それを異常と呼ぶのなら呼べばいい。
異常、ということを表す言葉を、この社会は様々に持っている。
しかし生まれに起因し成長によって育まれた、それを表す言葉は一つしか無い。
ルナチャイルド。オオカミのこともまた、そう括るほかない。
慎也という少年は、食い入るようにテレビ番組ばかり見ていた。
それしかやることもなかった。正確に言えば、それしかできることがなかった。オオカミの部屋には切れかけの蛍光灯とそのスイッチ、そしてデジタルテレビが一台あるだけで、そのほかには何も無かった。その時には、布団すらなかったと記憶している。
真冬の夜のことだった。室温ですら冷蔵庫の中を下回る中で、慎也にできたのは夜に眠ってしまわないようテレビに食らいつくことだけだった。温かくなれば、学校に行ける。学校に行ければ眠ることができる。少なくともそれで、家庭に対してのつじつまは合う。
そうやってごまかしをしなければならないほどに慎也は追い詰められていた。嘘をつかなければならないほどに、窮していた。
約束を破らなければ、生きていけない。その結果さらにひどい状況に追い詰められていくことが分かっていたとしても。
約束そのものは、数こそ多いが単純な物だ。
「私の前で泣かないで」「ご飯をこぼさないで」「トイレの蓋は閉めて」「お漏らしをしないで」
しかし同時に、幼かった慎也にとっては残酷な物だった。到底守り切れるものではなかった。
慎也の家族は約束を破っても、殴ったり蹴ったりはしなかった。その代わりに慎也の自由を一つずつ奪っていった。手放す自由をどれにするかは慎也が選ぶことができた。それもまた残酷なことだったが、ともかく慎也は最後の最後にテレビを残したのだ。それは彼の心が、自身を守るために。あるいは守ってもらうために選んだ、最良の選択肢だったかも知れない。
学校に行く直前の僅かな時間、あるいは日曜日の朝、睡魔のあまり眠りに落ちる直前。まどろみの時間の中で見つめていたのが慎也を救ってくれる存在。画面の中で活躍するヒーローたちの姿だった。
常に格好良く、弱きを助け悪しきを挫く彼らの姿を、慎也という少年は眠い目をこすりながらも食い入るようにして見つめている。そういった存在が、たとえ画面の中だけでも良いからいてくれるという事実が慎也にとって救いだった。
テレビの中でヒーローの一人が叫ぶ。
『助けに来たぞ、ボク!』
『わぁぁ!』
『アイディアル、参上!卑劣なヤツらだ、子どもを攫うなんて……』
「俺……僕も……」
時折画面に手を伸ばして、彼らに触れようとすることすらあった。
「僕も、……こんなにカッコよくなりたいな」
幼い慎也が初めて、そして唯一抱くことのできた夢は、基礎を幻想に委ねる砂上の楼閣のような物だった。しかしヒーローたちがそこにいてくれる限り、慎也の幻想が揺らぐことはない。
慎也は、ヒーローになりたかった。
いま自分が置かれているような、囚われのお姫様のように可哀想で救われる存在ではなくて、燦然と現れて縛めをぶち破る方に、救う存在になりたかった。
なってみたかったのだった。しかし現実の慎也はあまりに無力で、最後に残った希望を手放さないように生きるしかなかった。
その屈辱が、原風景だった。慎也という名前をした、オオカミシンヤの原風景だった。
「なんで今、あんなこと思い出すんだ」
オオカミは全力疾走しながら首を振って、意識を今現実として迫っている危機的状況に振り向ける。
ドーナイザーへの通報は為されたと思って間違いない。つまり新宿御苑で体験したように、普通に考えれば非常識なレベルでの交通遮断と包囲が行われることも大いに有り得るということだ。
それに、アンチマテリアルのようなルナチャイルドが駆り出される可能性もある。そういう意味ではスティグマにも追われているのだった。
対峙するのがそのいずれであろうとも、その瞬間に戦う力の無いオオカミの敗北は決定する。敗北とは死ではない。ユナの許に帰るという約束を果たせなくなることだ。それだけは避けたい。取り返しの付かないことだからだ。
カレー店の階段を駆け下りて右に折れたオオカミは、いまは都道四三〇号線、家電量販店とファストファッションショップが一体になったビルや、映画館の入ったビルを横目に見ながら東へと逃走している。追われているときに公共交通機関を使うべきではないというのもまた、テレビドラマから得た知識の一つだった。相手が政府組織であるなら尚更。
しかし目抜き通りを全力で走っているというのも、目立つものかも知れないとオオカミは考え直す。幸い周囲に人はたくさん居るし、ある程度偽装できるかも知れない。となると邪魔になるのは、オオカミが洗濯をしながらもずっと着てきた制服だった。これを捨てられれば、多少は目をごまかせるかも知れない。
ちょうど差し掛かった交差点には、衣料品店があった。オオカミはさりげなさを装いながら店に入り、二十秒足らずでデニムとTシャツを買って外に出る。ごまかせれば何でも良い。拘りは特に無かった。あとは、着替えるだけ。
衣料品店と、その先の映画館の間が、比較的細い路地になっていて遮蔽も多い。一も二もなくオオカミはそこに駆け込んで、買い物袋を破り捨てた。
その時だった。
「オオカミめーっけ!」
大声と共に正面から駆け込んできた、小動物かと思うほどに小さな体をオオカミはすんでの所で避ける。体当たりを試みた……少女は飲食店のゴミ箱に突っ込んでその中身を盛大に被る形になる……かと思われた。そうならなかったのは、次の瞬間少女の周囲に竜巻のような風が集い、その全てを吹き飛ばしたからだった。
「……間の悪い。ルナチャイルドか」
「こっちにとってはサイコーのタイミングですよぉ。えへへ、こいつはちょっとしたお手柄かもなのです」
吹き荒れる風の中で、少女は立ち上がりこちらに振り返る。スモック風の白い上着に短いプリーツスカート。ベレー帽を斜めに被ったその姿はちょっとした芸術家のようだが、背丈はオオカミより二回りほど低い。
オオカミの方は動けずにいる。その顔に見覚えがあったからだ。新宿御苑から脱出するとき、ポーカーフェイスの愛車の屋根をねじ切った、あの娘だった。
「メタモルフォーゼ、って呼ばれてますっ。よろしくお願いしますね、オオカミシンヤさん」
「俺をシンヤと呼ぶな」
「分かりました、オオカミさん。じゃあ、早速なんですけどぉ」
矮躯に見合った可愛らしい笑顔。しかし遠く離れているにもかかわらず聞こえてくるのは、メタモルフォーゼが、
ゴキ、
ゴキ、
と折れそうなほどに力強く指を鳴らす音なのだった。
「一応聞いておくが、見逃してくれっていうのはどうだ」
「ダメです」
にべもなく即答。しかし次いで彼女は、三日月のように口を細めてこう言った。
「……スティグマちゃんの居場所を教えてくれなきゃ、ダメです」
指を鳴らし終わった手を、メタモルフォーゼはだらりと下げる。
「スティグマの」
「そうです。スティグマちゃんに用があって私はぁ、新宿くんだりまで出てきたんです」
「用件によっては、取り次げるかも知れないと言ったら」
「その用件が果たし合いだとしたら?」
「……交渉決裂だ」
「じゃあ、死んでもらいますねっ。オオカミさん!」
メタモルフォーゼが走り出す。しかし、遅い。それは単に体が小さいということもあるし、その色白の肌を見るにもともと運動が得意なタイプではないのだろうと思われた。
メタモルフォーゼは路地側から迫ってくる。オオカミは迷うことなく背を向けて、空いている大通りの方へと全速力で駆け出す。
彼女が起こした突風の由来も、体格で大きく勝るオオカミに対して真っ向から追いかけっこを挑む勝算がどこにあるのかも分からない。しかし分からなくても逃げなければ始まらない。どうにかして撒かなければ、待っているのは敗北だ。
「あはは、オオカミ君ったらぁ。待ってよぉ!」
哄笑をあげるメタモルフォーゼ。そちらの方から、聞いたこともない音がする。まるで何かを砕きながら擦り合わせて、圧縮しているかのよう。非常に耳障りで大きな音。それが突然途絶えたので、オオカミは振り向いて愕然とする。
振り向いた先に、大通りがあったからだ。
つまり、オオカミの体はいま、
どちらに向かって走っているのか。
「つっかまえたー」
言うなり、オオカミは両足を掴まれた。先に聞いた耳障りな音が徐々に大きくなる。オオカミは奇妙な力が脚にかかるのを、覚えながらも抵抗できずにいる。それが非情なまでの激痛を伴うためだった。人体の構造を無視してねじ上げられる関節技を、もっともっとひどくしたかのよう。関節どころか、骨そのものが。ねじ切られそうで。
ボキリ、と想像を絶する音を立てて、それは実現されてしまった。
オオカミはあまりの痛みに絶叫することすらできなかった。もっともそれができていたとしても、メタモルフォーゼの起こす突風がそれをかき消しただろう。
「はぁい、いっちょあがり。やっぱり男の人の脚はちょっと固いんだね」
メタモルフォーゼはころころと嗤って、自らの所業を満足げに見下ろす。
オオカミの脚がどうなったか。捻れていた。右足は右方向へ、左足は左方向へ投げ出されていて、ハの字にぺたんと座っているように見えるが、その曲がっている位置は太もものど真ん中なのだった。骨が折れるだけでは済まない。肉もやや裂けて、血が流れ出している。
「どう?オオカミ君。いくら君もルナチャイルドだっていっても、これは相当キツいでしょ」
指をくるくる回しながら、メタモルフォーゼ。口の端から蟹のように泡を吹きながらけいれんするオオカミを見下ろして、意地悪げな笑みを浮かべる。
「って、ルナチャイルドもみんながみんな、痛みに強いわけじゃないのか……スティグマちゃんがやっぱり特別なだけなんだね」
オオカミの真っ赤に染まった視界に、メタモルフォーゼの興味深げな顔がいっぱいに映る。顎に手を当てて、首を傾げて。
「……でも、君も大概だよ。普通の人は大腿骨折ったら気絶するか最悪死ぬもの。どうして、君は痛みに強いのかな……?」
オオカミは息も絶え絶えだ。しかしメタモルフォーゼのことはしっかりと見えていたし、睨み返しもした。そうすることが唯一の抵抗だからだ。
「あ、あんたらがドーナイザーで、俺を殺そうとしてたなら、知ってるんじゃないのか」
「私は知らなーい。じゃあ、それは君をもっと窮地に追い込んだら……見れるわけだね?」
メタモルフォーゼはくすりと笑って、その右手を、オオカミの肩に掛ける。先ほどオオカミの腿をねじ切った、あの音が大きくなっていく。
「……や、やめろ」
「命乞いは聞きません。最初に言ったとおり。でもあなたが、ドーナイザーから直接狙われるようになった狂気(ルナ)ってのを見せてくれるなら別です。それが美しかったら、見逃してあげます」
「命なんか……、俺の命なんか、別に要らない。ただ、止めてくれ」
「うわごとですかぁ?」
メタモルフォーゼはオオカミの顔を、間近でのぞき込んだ。するとオオカミは目を閉じて、その好奇の視線を遮った。
オオカミは、涙を流していた。
「思い出した。頼むから、俺に約束を諦めさせないでくれ。さもないと、俺は……」
「俺は、なんですかぁ?」
「……俺が、いや、あいつが。
あんたを殺してしまう」
次の瞬間、丸太のように太い脚が横薙ぎにメタモルフォーゼの胴を刈った。完全に意識の埒外からの攻撃。メタモルフォーゼは為す術もなく吹き飛び、最初に巻き散らかしたゴミの山の中に突っ込んで、うずくまる。
「……何者……ですか」
「この一撃で死んでおけば楽だったものを。悪役はいつだって、油汚れのようにしぶといな……なぁ、慎也」
そうやってオオカミに呼びかけたのは、決して小さくはないオオカミを遙かに上回るタッパに筋肉量を誇る、大男。全身が真っ赤なタイツで覆われていて、顔面の部分には白い、無地の仮面が貼り付けられている。
「忘れてたのが信じられないくらいの格好だ。また来てくれたんだな」
「十年ぶりくらいのことか。よく頑張ったな。同じヒーローとして、誇りに思う」
「よしてくれ。俺はまた、俺の矜持を裏切った」
真っ赤なタイツの男は、その大きな手でオオカミの頭を乱暴に撫でた。
「そうならないために俺がいる。気にするな、お前はお前の約束を守れ」
「……すまない、頼むしかなさそうだ。俺の……」
「なにをごちゃごちゃ言ってんですかぁ……こちとら血反吐なんか吐いてるんですけど」
メタモルフォーゼの怨嗟の呻きを無視して、無貌のヒーローは大仰に腕を組む。そして頷いてみせる。まるであの日観ていた特撮番組のヒーローがそうしていたように。
無貌のヒーロー。全てのヒーローの集合体。
それが、オオカミの狂気。
「俺の……『アイディアル』よ……お前の力で、俺を照らしてくれ」
「……任せろ、慎也」
オオカミを、シンヤと呼ぶのはこの世で二人だけ。
彼がオオカミではなかった頃を知っている二人、即ちユナと、それから無貌のヒーロー『アイディアル』だけだ。
ではこの無貌のヒーローがどこから現れたのか……それを解き明かすには再び慎也少年の話をする必要がある。
ある日下校した慎也は、部屋からテレビが無くなっていることに気付いて、すぐさま親を問い詰めに向かった。返ってきた答えは「テレビを消し忘れていたから」という端的な物だった。それなりに大型で高性能だったテレビは、今は夫婦の寝室にあるという。
当然、慎也は食い下がろうとする。しかし慎也の……あれはたしか母だったと思う、彼女は今まで決して使わなかったものを躊躇いなく繰り出した。
平手打ち、である。
慎也に手をあげた彼女が言うことは、要約するとこうだった。
今までは自由を取り上げることで、慎也が改心するかと思っていろいろな物を取り上げてきた。けれどもそのやり方では、慎也の腐った性根は治らないようだから、もう容赦しない。叩くし、蹴る。お前から奪える自由は、もうそれしか残っていないから。
そう言い切って、母は再びオオカミに平手打ちを見舞った。
『私の前で泣かないでちょうだい』これに抵触したせいだった。
慎也は自身の心身が腐っていくのを、ただうずくまって待っていることしかできなかった。
もうヒーローたちにも会えない。なぜなら彼らはテレビの中にしかいないから。
もしも現実にいるのだとしたら、もうとっくにこの場に現れているはずだ。絶望の淵に呑まれそうな少年がいて、それが今死にかけている。今現れなくていつ現れるのか。
「そうじゃないのかよ……頼む、誰か」
慎也は嗚咽を聞かれないように抑えこみながら、呻く。
「良い子になるから。もう絶対に約束を破らないから……頼むから、俺を助けてくれよ……」
「……呼んだか、少年」
慎也は勢いよく跳ね起きる。それは今まで聞いたことのない、しかし紛れもないヒーローの口調。しかしテレビはない。どこから声が聞こえているのか。驚くべきことに、彼は紛れもなく慎也の頭の中から語りかけているのだった。
「あんたは、誰だ」
「私か。私は誰でもあって、誰でもなく、しかし君自身であることは間違いない」
「眠いんだ……難しいことを言わないでくれよ。助けてくれんのか、くれないのか」
「助ける」
しかし、と声は付け加える。
「できる限り、今回きりにして欲しいものだ。なぜなら私が君を助けると言うことは、君が敗北を喫するということだからだ。ヒーローとして」
「ヒーロー……?俺が?」
「そうだ」
「こんな、今にも凍え死にそうで、何にも持ってない俺が?」
「何も持ってない、なんていうのは嘘だ。君は光り輝く物を持っている。約束を……誓いを守ろうとする、その姿勢だ」
「そんなもの、なんの役にもたたなかった」
慎也は声に出してそう言った。
「役に立たなかったんだ。どんなにそうしようと思っていても、俺は、約束を守れない。結果がこの部屋だ。俺にできることは、もう何にも無い」
「そうだ、何も無いから私は君のところに現れることができた。何もかも無くすまで、逃げ出すことなく約束を守り通そうとした君のところへ」
「現れる……って」
所詮、妄想に違いない。いよいよ自分は狂ってしまったのだ。慎也はそう思って、この会話をせめて楽しもうとしていた。しかし妄想の方から、それをぶち壊してきた。僅かな苛立ちと共に、慎也は狭い部屋を見渡す。「見ろ、誰もいないじゃないか」そう言うために。
部屋の対角の隅に、彼はいた。
ずっと憧れていた五色の戦隊ヒーロー然とした、筋骨隆々の大男が座っていた。全身真っ赤なタイツの装いで、顔面は白い無地の仮面で覆われている。
「やぁ」と片手をあげたその所作は妙に芝居がかっていた。それゆえに幼い慎也は確信した。彼が、本物のヒーローであると。
「……来てくれたっていうのか」
「ああ、数多の障壁と苦難を乗り越えて、絶望の淵に立った君の前にやってきたのさ」
ヒーローは立ち上がった。見上げるような大男だった。それが慎也を見下ろしている。恐らくは、笑顔を浮かべながら。
「君を絶望から、救いに来たんだ」
「……本当か。本当なのか」
「ああ、本当だとも。私は君だけの味方だ」
現れたのは、慎也だけのヒーロー。彼はかがみ込むと、慎也の震える肩を優しく抱きしめて言った。
一番欲しかった、一言を。
「君は、もう一人じゃない」
その一言でオオカミの感情は決壊した。涙、叫び声、それに留まらない感情の波涛が、喉も裂けんばかりに、眼球を絞り尽くさんばかりに溢れ出した。
火が付いたように、堰を切ったように。矛盾する二つの表現が同時に成立するオオカミの爆発に、当然家族も気付き駆け寄ってくる。そして息を呑む。慎也が泣いているだけなら叩けばよかったが、その脇にいる大男は誰だ。それがこちらを、殺意すら込めてにらみ据えているのはなぜだ。
「そいつらだな」
「ああ!」
「分かった。ではシンヤ。私の名前を呼んでくれ。それで私は」
「ああ、やっつけろ『アイディアル』!」
シンヤは声の限りに叫んだ。今まで抑えこんだ分を全て吐き出すかのように、血を吐きながら叫んだ。
「俺の自由を取り戻してくれ!」
「了解だ。シンヤ!」
†
そうして全てが終わった後、シンヤは自分に備わった力のことを知った。
シンヤが約束を守ろうとし続ける限り、彼は普通の人間にすぎない。しかし約束を守れなくなったとき、それによって絶望したその瞬間、シンヤのところには「ヒーロー」が訪れる。
それは単純に、現れたアイディアルだけに留まらない。彼を絶望から救えるような、ありとあらゆる事象が発生しうる。
だが、世界の何者もがシンヤを見捨てたときには。
その時には、彼が現れて助けてくれる。今日、シンヤを縛り付ける鎖を全て、文字通り引きちぎったシンヤだけのヒーロー、アイディアルが。
「なぁ」
「どうした、シンヤ」
全てが終わったリビングで、シンヤとアイディアルはソファーに並んで腰掛けている。
「本当は、二度と会わない方がいいんだよな、俺たちは」
「そうなるな。約束が守れないなんて事態は、避けたいものだ」
「じゃあ、今言っとく。ありがとう」
シンヤはしっかりとアイディアルのほうを向いて、その手を取ろうとした。しかしその時にはすでに、役目を終えたアイディアルの体は透け始めていた。
「君が真に絶望したときにしか、君は私のことを認識できない。だから明日から、君は普通の人間として過ごすことになる。それはきっと、君にとって幸せなことだろうと思う」
「そう……かな。また助けてくれよ。俺一人じゃ、きっと何も出来ない」
「何も出来ないという結果だけで物事を語ってはいけないよ、シンヤ。君の心が気高いのは、その過程のおかげなのだから」
アイディアルは、小指を立てた。
「指切りだ。
自分で自分を裏切らない。
約束できるかい?」
「ああ、する。必ず守る。だから」
「それなら、安心だ」
アイディアルはそう言い切ると、風となったかのように唐突に消えた。
その場にまだ漂っているのか、声だけが聞こえた。
「私が必要にならないことを……祈っている」
†
その後、父母が突然殺人鬼に殺されたとしてシンヤの家は鑑識やら警察やらで上を下への大騒ぎになった。
一人残されたシンヤを、拾ってくれたのは大上という家の優しい養父母だった。
そうして彼はオオカミシンヤになった。大上という名字をシンヤは気に入っていた。約束をいかにも破りそうな名字だったからだ。それが逆にオオカミを奮起させた。
必ず、約束を守るという固い意思だけを胸に。
その由来はどこにあるのか、忘れたまま。
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