第8話 アンチマテリアル

「……あの時と、同じだ」

オオカミが呟く。

「聞かなかったことにしようか?」

「そうしてくれると助かる。長話をしている暇は、どうやらなさそうだ……っ!」

オオカミはそう言うが早いか、走り出す。するとまさにオオカミが居たその位置を貫通するように、飛翔体が猛烈な速度で通り過ぎていく。完璧な精度。それが示すところは即ち。

「できれば近づきたくもなかったのに。これでもう、私自らやらなきゃいけないじゃないですか……ったく、汚らわしい」

アンチマテリアルもまた、オオカミたちに追いついていた。

「せめて苦しまないように、とか」

そしてスカイクラッドを見上げて。

「似たもの同士の感傷、とか。そういうの無いから」

スカイクラッドとにらみ合って、大人げなく叫ぶ。

「今日こそぶっ殺してやる、スカイクラッド!」

「分かった。アンチマテリアル」

答えるスカイクラッドも、激情に燃えていた。

「似たもの同士の感傷とか、ちょっと持ってたけど、もう捨てる。同じ世界から逃げ出した同士だけど、ソラとアンタは決定的に違う」

状況は圧倒的劣勢。恐怖に震えて言葉にならなくてもおかしくないなかで、スカイクラッドは毅然として言った。

「ソラは、空を飛ぶことを選んだ。だけどアンタは、ナニモノからも閉じこもることを選んだんだ!そんな陰キャヤローに、ソラが負けるもんか!」

「一人ではこの場に居ることもできないくせに、偉そうに!」

そう叫んでアンチマテリアルは無数のパチンコ玉を撃ち放つのだった。それぞれが危険な速度で飛翔する殺傷兵器。しかし数を増やしたせいか、精度は低い。射線を逸らすように走ることで回避することができる。

オオカミが気にしたのはその背後のことだった。観光客のように無関係な人間に当たってしまっては大惨事だが……オオカミの見渡す限り、人気(ひとけ)は無い。

「人払い……この規模で」

「ドーナイザーの連中がなんとかしてるんでしょ。抱えてるルナチャイルドの中にそういうのがいるのかも知れない」

「好都合か、不都合か……、どちらにせよ変わりないか。盾が増えたとしたって、相手の狙いは変わらない」

「おにーちゃん、なかなかドライなこと言うね」

「約束のためだ、使えるものは何でも使いたかった。ところでソラ、ちょっと話が違わないか。なぜアンチマテリアルはあんなにゆっくり向かってくるんだ。地上なら速く動けるんじゃなかったのか」

実際、走って逃げるオオカミ・スカイクラッドと、浮遊しながら追うアンチマテリアルの距離は徐々に離れつつあった。そうだというのに、アンチマテリアルに焦りの色が見えないのが、また不気味なところであって、オオカミの不安を煽る。

「それに、ソラ。スカイクラッドとしてのお前に聞くが……、どうやって勝つつもりだ」

スカイクラッドは、どちらにも答えなかった。

「……ソラ」

「おにーちゃん、もう一回聞くよ。約束、守ってくれる?」

「なんだ唐突に。当たり前だ」

「どうやって?」

「それを今、俺も考えてる。だからお前も諦めるな。そう言いたかった」

諦めるな。オオカミは繰り返した。

「諦め……? なんで」

スカイクラッドがオオカミを見下ろす。オオカミの目はじっと鋭く、スカイクラッドを見上げていた。

「同じ顔してんだよ。正確には同じ目をしてる。ママの前から逃げ去ったときと、まったく同じ。自分の力ではどうしようもない状態に直面した時、お前がする顔だ。着地した瞬間から急に覇気が無くなったと思ったら、やっと分かった」

スカイクラッドは、オオカミからの指摘を受けて顔を歪める。

「そ……そんなことない。ソラは戦うもん」

「もちろんだ、そうじゃなきゃ困る。俺一人では無理だ。だがお前一人でも無理だ。力を合わせるしかないときだ。分かってるんだったら逃げ腰でいるのをやめろ。勝つんだ!」

「逃げ腰なんかじゃ」

「勝つんだよ! セカイに! お前を打ちのめした、打ちのめしてる、そして打ちのめそうとしてるセカイに!」

オオカミが、滅多に見せない激情をスカイクラッドに叩き付ける。その本心は後悔、あるいはそれが故の決意。二度とそれを繰り返さないという決心の発露。

「俺は、そのためのヒーローだった……!ユナのためのヒーローだった。でもユナは、守れなかった。ルナチャイルドになるずっと前から、小さい頃からずっと約束してたのに、俺はユナを守れなかった。ユナのことを幸せにしてやれなかった……!」

ユナと同じ、このセカイのありとあらゆる物事に諦めしか見出すことのできない目をしたスカイクラッドを前にして、オオカミは無力であるが故に立ち上がった。

「だが、お前には! 俺が、スティグマが、ママが付いてる! お前は孤独じゃない。まだどこにでも行けるんだ! 諦めんな!」

「……さっきからごちゃごちゃうるさいなー!」

「いよいよ火が付いたか?」

「火なんて、……最初から付きっぱなしだよ!」

スカイクラッドは、両手をオオカミの手に重ねて叫ぶ。

「行こう、おにーちゃん! 明日へ、セカイへ!」

「その意気だ。で、作戦は」

「ノープラン」

「だろうと思った。……ヤツは?」

遙か後方に突き放したはずの、アンチマテリアル。しかし見通しのよい御苑を見渡して、見当たらないのは不自然だ。木の陰に隠れているのか。しかし彼女にとっては射線が通っていた方が有利なはず。

となれば。


「上かッ!」

「遅えんだよバーカ!」


次の瞬間、ものすごい重さがオオカミの体を襲う。まるで体重が二倍にも三倍にもなったかのようで、足を動かすことすらできない。

今度はアンチマテリアルが、自らオオカミたちの真上を選んだ。

「十メートルってところかしら。この高さなら、あなたたちがいくら落ちても追いつける。もっとも、落ちられるだけの力が出せれば……の話ですけど」

「く、そ……反発力か」

「直上を取られた不覚を、あの世で悔いることですね。なにが起こっているのか分かったところで、もうお前にはどうしようもないです。無能力者、幸せな人、そして不幸せな人。この場に居合わせたことを呪うんですね」

「それだけは絶対にしない。舐めるな、アンチマテリアル」

「ならば、そのまま潰れて死ぬことです。今度こそさようなら、淫行学生。ついでに……スカイクラッド」

ゆっくりと、上空のアンチマテリアルが下りてくる。オオカミたちにかかる力もまた、アンチマテリアルに近づくに従って強まっていく。骨という骨が軋みをあげる。何度も、膝をつきそうになる。

しかし、

「……そういうことなら」オオカミは耐えた。

「お前の、アンチマテリアルの矜持は、そんなもんだったってことか」

「なんて?」

「別に助かろうとか、助けてもらおうとか思っちゃいない。ただ、残念だった。ナニモノからも触れられないように、触れてもらいたくないから、その異能を得たんだろう。そうだというのに、今のお前はその異能を介して間接的に、俺たちに触れようとしている」

「だったら、なんだというのです」

「いや、もはや詮無きことだ。お前は自分の望みを、自分の手で曲げた。そんなブレてるやつに、俺たちは負けない。うちのソラが、負けるはずがない」

「この期に及んで痴れ言を……」

アンチマテリアルの、眼鏡の奥の端正に整った美貌が、怒りに歪む。

醜い、と切り捨ててしまうにはあまりに哀しく。

可哀想、と憐憫を抱くにはあまりに両者は敵対しすぎた。

ならば今、二人にできることは。

アンチマテリアルという哀れな娘にしてやれることは、一つだけ。

「……いけ、スカイクラッド。手はず通りに行くことを祈ってる」

「あいよ、おにーちゃん」

オオカミはその一言を餞別に、スカイクラッドを送り出した。

手を離したのだった。それは迫り来る重力に対する限界ではない。ちゃんと位置を狙いすまして、スカイクラッドがアンチマテリアルの真下に来るよう念入りに調整した結果だった。

スカイクラッドは落ちていく。アンチマテリアルへと落ちていく。短い距離、しかし確かな浮揚、そして標的に近づくにつれ、それは遅くなっていく。直下に抑圧する力場と、空に向かう力場。両者は拮抗し、やがて脆い方が崩れ去る。

スカイクラッドは真っ直ぐに、アンチマテリアルの目を見つめて落ちる。

アンチマテリアルはその目線を遮るように、両手を前にかざして叫ぶ。

「やめろ……その目で私を見んな!」

「それが、お前の本心だ。アンチマテリアル!」

地面に潰れそうになりながらも、オオカミは役目を果たした。

「お前はソラの純真さから目を逸らした。スカイクラッドの望みから目を逸らした。向き合いきれなかったんだ。お前自身も持っている、望みの光から!」

「うるせぇっ、健常者が偉そうに!」

語勢は強い。

しかし、アンチマテリアルはオオカミを睨むのに精一杯で気付いていない。スカイクラッドとの距離が、徐々に縮まっていることに。

「私たちの望みに向き合う? 目を逸らす? 私たちにとってはそれが日常だ! だってまともに向き合えない。必要とされなかった事実になんて、誰も!」

「そんなつらいこと、俺を含めて誰だってできやしない。だってそれは望みじゃない。お前の痛みじゃないか」

「なにを言ってんだテメェ……!」

「俺が見たいのは痛みじゃない。言ってみろ、見せてみろ! お前の希望は、どこにある!」

何ということは無い、一つの見得を切った口上であるはずのその言葉は、しかし状況に大きな打撃を与えた。

「私の、希望は……」

「ソラの、希望は……!」

その時、アンチマテリアルを覆う力場から、まるでガラス玉にひびでも入ったかのような礫壊音が生じた。

その中心にいるアンチマテリアルは、自身が泣いていることにも気付かなかったに違いなかった。その直後に、力場は完全に破れ、突入してきたスカイクラッドに、接近を許してしまったのだから。

「ぶん殴ってやろうかと思ったけど」

指を一度鳴らしたスカイクラッドは、落涙するアンチマテリアルに面食らったのか僅かに躊躇った。

「このくらいで、許してあげる」

繰り出したのはやさしい、しかし必殺の、デコピン。

アンチマテリアルの体が、徐々に持ち上がり始める。

「一緒に来てくれるの、スカイクラッド」

「いいや。ソラはまだ、お空の果てには行けないよ」

「なぜ。それが悲願だったのでしょう」

「……そうじゃないって、思わせてくれた人がいたから」

地上を見やる、スカイクラッド。

「案外、地面の上も悪くないなってさ」

「……ふん。結局男ですか」

加速度の交差する時点。片方は地上へ、片方は蒼穹の彼方へ。

決別の時。

「じゃあね、アンチマテリアル」

「……ふん。これでもう、本当に誰にも触れられずにすみます。せいせいしますよ」

「意地っ張り」

「うっせ」

それを最期に、アンチマテリアルは空の彼方へと飛んでいく。

落下速度に耐えかねて気絶するまでの僅かな時間、彼女はなにを思ったのか。

ただ一つ確かなことは、胎児のように丸まった彼女は最期まで、スカイクラッドが額に残した傷を大事に抑えていて。

「……温かい。ちくしょう」

それは、彼女がこの世に抱いた最期の、想いだった。

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