第9話 スティグマというキョウキ

彼女の葬送を見守った、スカイクラッド。

開いたパラシュートに庭石を詰め込むことによって得た重力を地上へ向け、帰還を果たした。

正確には、果たそうとした。着地の少し前、落下速度を調整しようとしたときにそれは起こった。

「おにーちゃん! 指パッチン効かない」

「……冗談、おい、どうするんだ、取りあえずリュック捨てろ!」

石の重みは確かに致命傷たり得る。しかしそれを今更捨てたとて、重さに関係なく襲いかかる速度がある。いかにスカイクラッドの体が小さいと言えども、生身のオオカミが受け止めきれるものではなくなってしまっている。

「うわあああん死んだぁぁぁ!」

「そもそもなぜ、いや、諦めんな。俺がなんとか」

「うっさいわ、あんたたち」

そこに割って入ったのは、長髪の麗人。スティグマだった。オロオロしているオオカミを突き飛ばし、スカイクラッドをその全身で受け止めて、ぐしゃり、と肉塊になる。

「スティグマ」

「スカイクラッド、珍しいじゃない。あなたが測距を誤るなんて」

その肉塊から、何事もなかったかのように声がする。直後、まるで潰されたのが巻き戻るかのように、スカイクラッドの尻の下に、スティグマの姿が蘇る。

「はやくどいてね。重いわ」

「重いってなに。でも助かった。ありがとう」

「……それより、あなた。重しは?」

「さっき捨てた。……分かんない。無くても立ててる」

「なら結構。急いで。脱出するわよ」

スティグマが辺りを警戒する。釣られてオオカミも、スカイクラッドも周囲を見、そして気付く。

「ドーナイザーか?」

「人払いって、兵隊を使ってしてたんだね」

機動隊と同等の武装を施された兵士たちが、オオカミたちを取り囲むように迫っていた。透明な盾に、警棒。恐らくは銃火器の類いも。

恐らくは、アンチマテリアルと戦ったときと同等か、それ以上の窮地。しかしオオカミの心には怯えはない。

手の中にある小さな手のひら。スカイクラッドのそれだ。

それが、微かに震えているから。

「……約束したな、ママのところへ帰るって」

「でも」

「でも、なんだ。約束したら、守るものだ。約束は守られるものだ。だからここからも脱出する。脱出してみせる。そうだろう、スティグマ」

「クソ寒い口上で私の頑張りを自分の手柄みたいに言うのをやめて」

スティグマは怖気を各層ともせずに吐き捨てる。

「私はスカイクラッドさえ助かれば良いの。あんたをおとりにする作戦だって考えてないわけじゃないのよ」

「それはやめて、スティグマおねーちゃん。おにーちゃんも助けてあげて」

「……冗談よ。言ってる場合かってのもあるけど。スカイクラッド、一番近い幹線道路はどっち」

「今が中央休憩所の西だからほとんど真ん中だけど……強いて言うなら左。正面は車止めがあるからヤツらの控えがいるかも」

「右は。今のところ一番薄いのだけど」

「森の向こうに控えてるかも」

「じゃあ、左に見える十数人をぶっ飛ばしていくのが早いってわけね」

スティグマはそういって、大きなため息を吐いた。

それは嘆きの発露……ではない。息を吐ききったその後から、まるでけいれんするかのようにスティグマの肩が跳ねる。

笑っているのだ。この状況では不気味、と表現せざるを得ない、引き笑い。

「アンチマテリアルにやられた分、誰にもまだ返せてないのよね……ヒヒ……的がたくさんあるなら、その方が良いわ」

「スティグマおねーちゃん」

「……ええ、行くわよ。合図したら全力ダッシュするから、私の後ろから離れないように。そうじゃなきゃ銃弾もらっても知らないからね」

「ちょっと待て、どういう作戦だ」

オオカミが当惑してスティグマに手を伸ばしかけたのを、スカイクラッドが慌てて止める。

「もう、ああなっちゃったらスティグマおねーちゃんは止まらないよ」

「さーん」

「止まらないって言われてもな……確かにあの再生には驚かされたが」

「にーい」

「とにかく、今は黙っておねーちゃんの後ろを走ることだけ考えて。だっておねーちゃんは」

「いーち」

「聖痕(スティグマ)。ハイツ・ムーンライト最強の」

「レット、ミー、ダンス(よがらせてよ)」

その時彼女が浮かべた笑みは、引き笑いの不気味さをまるで煮詰めたかのような、もはや狂気の体現と呼んでも過言ではない、欲望の体現。

走り出したスティグマは思いのほか速い。オオカミの恵まれた体躯と運動神経をフルに使ってようやく追いつけるかというところ。

「すまん、ちょっとガマンしてくれ」

スカイクラッドを小脇に抱えて、オオカミは走る。

遙か前方ではドーナイザーの兵隊が、銃器を解禁しているのが見える。スティグマとの距離、最短でおよそ二十メートルほどある。スティグマの奥の手が何であれ、蜂の巣にされてしまうのは間違いない。

それでも今は、スティグマを信じるしかない。

ハイツ・ムーンライト最強の、ルナチャイルドを。

「……斉射!」

号令。そして無数の銃声。オオカミがテレビでみて想像していたよりも少しだけ軽快な音がなる度に、無慈悲にスティグマの体へ銃弾がめり込み、彼女をまさに躍らせる。

まるで糸の絡まった操り人形のよう。銃弾が彼女の体を貫く度に肉と鮮血が反対側へ突き抜けて噴出する。すぐに彼女はただの肉塊と化してしまう。残ったのは、なにか、金物。オオカミの知識にないものだ。

「撃ち方、止め! 再装填!」

流れるようなリロード、そしてオオカミたちに向かう銃口。

さしものオオカミも、この状況には冷や汗を掻く。

「撃ち方……」

始め。それよりも一瞬速く。


「よくも貞操帯に当てたわね」


それまでになった銃声を一挙に鳴らしたかのような大爆音が響き、オオカミたちは堪らず耳を塞ぐ。そして顔を上げれば、肉塊と化していたのは兵隊達の方だった。盾の防御も意味をなさなかった様子で、真ん中から折れてさえいる。

目の前で起きた、一瞬の間の殺戮に戸惑っていたのはオオカミたちだけではない。奥で控えていた第二陣もまた、状況の判断を一瞬、放棄してしまう。その隙が彼らにとっては命取りとなった。

「食い込んで痛いじゃないの、クソ」

なぜなら、形を取り戻したスティグマの接近を許してしまったから。

スティグマは、下半身を覆い隠すような金属性のコルセット……彼女に言わせれば貞操帯だけを纏って、宙を舞っていた。そして第二陣の先頭へ華麗に着地した。スティグマが居た場所には巨大なクレーターができていた。オオカミに分かったのはそこまでだった。

「アンチマテリアル……陰気な力。でも、嫌いじゃないわ」

第二陣の先頭にいた兵士は、ある意味では幸運だったかも知れない。自分の死がどんなにむごたらしいものになるのかを知らずにいられたのだから。頭部が血の霧と化して消し飛んでしまったとしても、他の兵士よりは幸運だったに違いない。他の兵士はみな残らず、それを目撃したうえで、恐慌におちいった中で爆散させられてしまったのだから。

「……なんだ、なにが起こってる」

確かに肉付きがよいが、決して筋肉質とは言えないスティグマの打撃。そもそも人類の打撃に人を爆発させるだけの力はない。スティグマの攻撃力の由来を推測するのを、オオカミは止めた。結局ルナチャイルドとしての力なのだろうから。それよりも彼女から遅れることを避けたかった。猛烈に叱責されそうだったからだ。

スティグマは少し先で、着替えをして待っていた。兵隊の装備を着ていたのだ。

「遅い」

「それ、殺したヤツのだろう」

「ストリップショーし続けるよりずっとマシよ。あんたにとっては、ちょっと残念なのかしら」

「いや、それどころじゃないが」

「なら結構。早く愛しのお姫様のところへ帰りましょ。スカイクラッド、ポーカーフェイスと合流するならどこがいい」

「アイツ車運転できたよね、バイクだっけ。裏路地でこっそりもアリだけど、そうも言ってられなさそうだし」

背後から、東に構えていた部隊が近づいてくる気配がする。スティグマを先頭にオオカミたちは再び走り出し、御苑を囲う壁の西端を目指す。

「三分後に千駄ヶ谷五丁目の交差点で送るよ」

「ええ。間に合わせるわ。まだまだどうやら……ヒヒ、発散できる相手がいるみたいだから」

植物増生のための立ち入り禁止柵を乗り越えた先には、敵の姿は見えない。スティグマが何のことを示しているのか訝りながらオオカミは走り、ついに西端の壁に到達する。

「……高いな。どうやって越える」

「離れてて。ケガされても面倒だわ」

「まさか壁を吹っ飛ばす気じゃないだろうな」

「他に手はないわ。生きてお姫様に会うのとただの壁と、どっちが大事なの」

オオカミはためらったが、スティグマの言うことが真理だった。

スカイクラッドは、ママの許に。

オオカミは、ユナ……コチョウランの許に。

帰らなければならない。

「すまなかった……頼む。今はお前だけが頼りだ、スティグマ」

オオカミが彼女の名を呼んだ次の瞬間のことだった。

オオカミは喉元をスティグマに締め上げられていた。まるで捉えられなかった。速い。

「合流したときには見逃してあげたけど、調子に乗るなよ、男」

「なに、にだ」

呼吸すらままならない中でオオカミが問うと、オオカミを縛める力が一層強まる。スティグマは昏い瞳を三白眼めいてつり上げている。オオカミは思い出す。ルナチャイルドと接するのは、地雷原を歩くようなものだったと。何気ないオオカミの所作が、地雷の一つを踏み抜いたのだ。


「その濁った薄汚い声で名前を呼ぶんじゃないわよ。吹っ飛ばすわよ」


口を開いてしまったら、「薄汚い声」がスティグマの耳に入ってしまうから。そうしたら今度こそ、締め上げるではすまないかもしれない。オオカミは一も二も無く頷く。するとスティグマは、まるでオオカミに対して一切の興味を失ったかのように手を離し、吹き飛ばそうとしている壁に向かうのだった。

「忘れるんじゃないわよ。次に私の名を呼んだら……その時がお前の最期よ。コチョウランとの約束なんて、関係ない」

そう言いながらスティグマが壁に手を触れると、それは大きな音を立てて粉砕され、瓦礫へと変わる。

「スカイクラッド、そのなんとか交差点はどっち……。バカの相手してたら時間がぎりぎりだわ」

「言いたいことは色々あるけど……取りあえず正面の道路を道なりにまっすぐ。ポーカーフェイス、あの車で来るのかな」

「迷彩としては逆に優れているんじゃないかしら。第一印象が強いから」

「ちょっとキモいけどね」

スティグマはその軽口には応えず、淡々と走り出す。オオカミは慌てて後を追う。小脇に抱えられたスカイクラッドは、降ろせと要求するタイミングを失ってしまったが、

「まぁ、もうちょっとくらいこのままでもいいか」

目を閉じて、オオカミに全てを委ねるのだった。

「ところで、スティ……なぁ、車で来るんだろう。合流地点でどうやって見分ければいいんだ」

「黙ってればリスクもないのに……。その点については問題ないわ。アイツの車は目立つから」

交差点までは百メートルほどしかない。すぐに到着する。

そこに待っていたのは、助け船ではなく。

絶対に彼らを逃がすまいとする防衛線だった。三十人は越える中規模な部隊が、待ち構えていた。

「道理で、壁の向こうに誰もいなかったわけだ。単に運がよかったわけじゃ」

「撃ち方始め!」

その号令が飛んでくるのを、オオカミは予期していたから、少し戻った位置にあるビルの影に躊躇いなく隠れた。間断なく銃声が聞こえる。恐らくスティグマはまた、躍っているのだろう。愉悦に顔を歪ませながら。銃声が徐々に兵士達の悲鳴に変わっていくのがその証左。不死身のスティグマ。ハイツ・ムーンライト最強の、ルナチャイルド。

「ソラ、さっき言いかけてた……スティグマは最強のなんなんだ」

「覚えてたんだ。これ、本人に言うとめちゃくちゃ怒るから言わないでね」

「肝に銘じた」

「おねーちゃんは最強の、クソレズドS女」

「…………なるほど」

怒号と悲鳴の渦巻く、恐らくは一方的な殺戮の中で、高らかに聞こえてくる笑い声を聴けば、頷かざるを得ないというものだった。

「あはははは、もっと躍らせてよ、躍らせて見せてよ!」

「榴弾の使用を許可する、とにかく足止めしろ!残りの二人だけでも――」

水袋の弾けたかのような音。最期の指令がどこまで通ったのか不明だが、敵の戦術は僅かに変わったのだろう。

それを遂行できるだけの人数が残っているかどうかは、また別の問題として。

「スカイクラッド! ポーカーフェイスが来た!」

「こっちに回して! おねーちゃんは後で拾う!」

「いつも通りってことね。了解」

そうやりとりするが早いか、猛烈な速度でエンジン音が近づいてくる。それは耳をつんざくようなドリフトに変わり、急ブレーキとともにオオカミたちの前に姿を現す。

深夜アニメだろうか……オオカミが見たこともないキャラクターのイラストが全面にプリントされた、いわば痛車だった。その右後ろの扉がひとりでに開く。ポーカーフェイスは親指を立てて、「乗れ」と促している。

「……ポーカーフェイスってのは本当なのか」

「ホントじゃなきゃあんな車乗れないよ、たとえ一時だってね」

「そうか……」

オオカミも、それを議論している時間もなければ、拘っている場合でもないことを理解している。スカイクラッドを放り込んで、オオカミ自身も転げ込むように乗車する。扉が閉まり、出発するのかと思いきやポーカーフェイスはジェスチャーをしている。手を右上から左下に。「シートベルトをしろ」と言っている。

「冗談だろ」

オオカミは口に出しながら、しかしポーカーフェイスが登場したときの、まるで車が悲鳴を上げるかのような轟音を思い出す。スカイクラッドの方を見れば、すでにベルトを着けた上に耐衝撃姿勢すら取っている。

「……了解だ」

オオカミがベルトを「カチリ」と装着したその瞬間だった。

ボンネットの上に何かが着地して。

そのボンネットがねじ切れて吹き飛ぶのと、ポーカーフェイスがアクセルをべた踏みにしたのがほぼ同時だった。

何者かはボンネットと共に取り残され、もんどりうちながらもこちらをにらみ据えていた。スティグマと同じか、それより若い。女だった。

「ルナチャイルド……スティグマは大丈夫なのか」

「おにーちゃん、名前。クセつけといた方が良いよ。スティグマおねーちゃんの名前を呼んだ男はみんな」

「分かってる。でもそれとこれとは話が別だ。スティグマは大丈夫なのか」

「大丈夫……と胸張りたいところだけど、もしかしたらマズいかも。どう思う、ポーカーフェイス。愛車の一番可愛いところをねじ切られたところ悪いんだけど」

ポーカーフェイスは速度を緩めずに運転しながら、スマートフォンを取り出す。スカイクラッドのメッセージングアプリに、スタンプ。

『奴を信じろ』

『逃げるが勝ち』

『いつか処す』

『また明日』

「ブチ切れてんのはわかった。じゃあはやく逃げよ」

『りょ』

再び猛烈なドリフトターンを決め、車は裏路地に入り停車した。ポーカーフェイスは顔をかきむしっている。

「どうしたんだ」

と問う隙もなく、ポーカーフェイスは裂けた顔から脱皮していた。その中から出てきたのは、全くの別人だ。さっきまでは確かに小太りの男だったのに、今は男装の麗人といった趣の女になっている。

そして、車も。先ほどまでは大きめのバンだったのが、今はスポーツタイプになっている。天井も元通り。

「……もう驚かないぞ」

「ハイツ・ムーンライトはどこ、ポーカーフェイス。狭いし、ソラたちがいないほうがやりやすいでしょ」

『助手席、空いてますよ』

「きも」

スタンプのセンスをスカイクラッドは言下に切り捨てて、のそのそと前に出る。そして、消える。ハイツ・ムーンライトの中に入ったのだ。

オオカミもそれに続く。

ドールハウスの中身に触れた瞬間に吸い込まれたくらいでは、もう驚かない。驚いている場合でもない。

約束を、今こそ果たすときなのだから。

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