第6話 そら

スカイクラッドの居室、その前までは比較的容易にたどり着くことができたが、オオカミはその後どうするべきかを考えあぐねていた。

その異能故に、絶対に外に出られないスカイクラッド。しかし遊び盛りである、ソラ。

どう、声を掛けてやったらいいのか。

部屋を追い出されるというポーズを取ったオオカミにとってみれば、これから先のことはしようがしまいがどうでもいいことだった。それでもオオカミは真剣に悩んでいる。

たとえそれが形式上の物だと分かっていても、約束は守らなければならない。オオカミがオオカミたる所以であり、同時にバカ呼ばわりされる遠因でもあった。

たっぷり五分は悩み、オオカミはついに答えのようなものを見出した。

軽く三回、開け放たれた扉に手を伸ばしてノック。そして考え抜いた一言を掛ける。


「その、るるぶって本は面白いのか。一緒に読ませてくれないか」


緊迫の一瞬が過ぎ去り、聞こえてきたのは、失笑だった。

「おにーちゃん、るるぶ知らないの。旅行とか行ったこと無いの」

「言われてみれば自発的に行ったことは無いな。小中の修学旅行は行き先が決まっていたし、高校のはまだ行けてない」

「そっかぁ。じゃあ入ってきていいよ。おにーちゃんは今、ソラと同じだから」

「……そうか。分かった」

ソラと同じ。その切ない響きがオオカミの胸を打った。

どこに行くのか選択肢のないソラと。

ユナとの約束を隠れ蓑にどこにも行こうとしなかったオオカミと。

それは能動性において真逆の性質から来るものだというのに、スカイクラッドは結果を見てそれを同じと呼び、オオカミを受け入れた。

「……入るぞ」

その、なんと哀しいことか。

スカイクラッドの部屋には、そうやって積み重ねてきた無数の、望みの残骸が、天井にへばりついてた。地方編はもちろんのこと、存在する者は都道府県別の『るるぶ』。旅行情報雑誌。ツーリスト向けのもっと細かな観光地案内地図。海外まで網羅した本。

ありとあらゆる外への羨望が、その部屋にはうずたかく積まれていて、見上げるオオカミの頭を撫でそうなほどだった。

「いらっしゃい、おにーちゃん。びっくりしたでしょ」

「……少しだけ。だが予想をしていなかったわけでもない。外に出られないのであれば、外の世界のことは本で知るしかないから……、仕方ないことなんじゃないかとは思ってた」

「その想像力をさ、もっとおねーちゃんに向けてあげたらいいのに」

「それは想像力の問題じゃない。約束だから。それだけだ」

「バカをもう一回つけようかな」

スカイクラッドは読みふけっていた、沖縄編の雑誌を投げ捨てる。

――ばさ、

と乾いた音を立てて、雑誌はページを開いたまま天井に落ちる。

「なんてね。おにーちゃん、ママに言われてきたんでしょう」

「そうだ。追い出された」

「分かってんならいいよ。おにーちゃんは基本よそ者なんだから、それっぽい態度でいてよね」

「分かった。……と言いたいところだが、正直地雷原の真ん中に居る気分だ。どこに足を踏み出しても爆発しそうで、なにに気をつければいいのか、さっぱり分からん」

「コチョウランおねーちゃんに対してもかな」

「そうだな。ユナは……どうやら俺が約束を守り続けることに不満があるみたいだ。それがなんでなのか、聞き出したかったんだが」

「追い出されたんだ」

「ママっていうのはナニモノなんだ。まるで人の心が読めるみたいだ」

オオカミがため息と共に、カーペットの上に腰を下ろす。スカイクラッドの、にやにや顔と目が合う。

「そうだよ。ママは何でもお見通し。このハイツ・ムーンライトの中のことなら、ね」

「こうやって愚痴を吐いていることもか」

「聞いてるかどうかは分かんないけど、聞こえてると思うよ。ママ、ハイツ・ムーンライトのオーナー。この狭いドールハウスの持ち主で、みんなのお母さん」

オオカミは周囲の豪奢な調度品を、もう一度見渡す。

「ドールハウスの中、なのか」

「そして私たちはお人形さん。だから持ち主のママに、ずっと見られているっていうわけ。ドールハウスは眺めてこそだから。ママはそういう意味でみんなを平等に愛してる。そう意味で、だけど」

そのスカイクラッドの口ぶりには、僅かな嫌味が感じられた。

「ドールハウス……ハイツ・ムーンライトの中にいるかぎり、ママは絶対に味方でいてくれるんだ。でも、外に出ようとしたら」

「けんもほろろ、ってやつだったな」

「なにそれ」

「絶対に交渉の余地無し、っていう意味だ」

「なるほど。そうなのよ。それなの」

普段から饒舌なスカイクラッドだが、ママのことになると口調のトーンが一つ下がる。オオカミはそのことに気付いていたが、指摘するかどうかは迷っていた。

「ママってば根っからの引きこもりで……それでこんな狭苦しい異能になったんだろうけど……、だから外の世界に全然興味ないし、なんなら嫌いなんだよね。そんなところに飛び出していこうっていうのが、信じられないみたい」

スカイクラッドは新たな雑誌を手に取って、開き、顔に被せるように落とす。ページの端はすり切れていて、発行年度はよく見れば四年前だった。


「きっとそんなこと言い続けてるソラのことも、嫌いなんだ」


寂しげに呟いた、スカイクラッドの顔を窺うことは出来ない。

オオカミに出来ることもない。自分で言ったばかりだ。「地雷原の真ん中に居るようで」「なにを踏んでも爆発させそう」であると。

ママの真意も分からない以上、オオカミに分かっているのはスカイクラッドの寂寥だけ。

しかしその寂寥は。

オオカミをユナに対して動かす原動力に近しい物だった。

「ママと、仲良くなりたいのか」

「……は? そうだよ、どこにも行き場がなかったソラを拾ってくれたんだもの。もっと仲良くなりたいよ」

所々声を詰まらせながら、スカイクラッドは強くそう言った。

「なら、ママともう一度話そう」

「ヤだよ。めちゃくちゃ渋い顔するんだもん」

「そもそも交渉をしないのでは話が進まないぞ」

「バカオオカミおにーちゃんにだけは言われたくありませんー」

オオカミは言い返さなかった。代わりに、何と言えばこのあまのじゃく娘をママの元へ連れて行けるか、真剣に検討し始めた。

オオカミを罵倒するその声ですら、元気がなくて萎んでいた。それは思い返せば、ユナがと大げんかしたその日のユナのようだった。

信じていた者が、自分のことを認めてくれない。その落胆によって人は容易に覇気を失ってしまう。スカイクラッドのような天真爛漫が服を着て歩いているような娘であっても。

「……わかった。お前が行けないというなら、俺が直談判してみよう」

「へ?」

「なんだそのびっくりした声は。さっきも言ったばかりだ。交渉なしでは話が進まない。だったら、新しい人間が突破口を開くべきだ」

きっぱりとそう言い切って、オオカミは踵を返して部屋の出入り口に歩いて行く。一切の迷い無く、まるでそうするのが当然だと言わんばかりの勢いで。

「……! ちょちょ、ちょっと待ってよ! おにーちゃん一人であの部屋に戻るつもり」

「そうだが」

「バカ! そんなことしたら……今は特にダメ。スティグマに吹っ飛ばされるよ」

スティグマに吹っ飛ばされるという、不可解な言葉を訝りながらも、オオカミは毅然とした態度を崩さない。

「俺は今、コチョウランに守られている恰好になっている。ママが許しはしないだろうさ……ちょっと恐ろしいのはもっともだが、お前の願いの方が大切だ。それは、ママと話さえすれば解決するんだから」

「なに言っても本当に聞かないんだね。狼か猪かどっちか選んだ方がいいんじゃない」

「俺はオオカミだ。じゃあ、行ってくる」

オオカミは、ドアを引く。ゆっくりと、見せつけるように。

一刻でも長く、彼女に与える猶予を引き延ばせるように。

その中で、葛藤が堰を切って溢れ出すのを期待して。


「……分かった。分かったよ、行く。行けばいいんでしょ」


賭けは、オオカミの勝ちで決着した。

スカイクラッドは出入り口に駆け込んで、オオカミと頭を並べ歩き出す。

「お前が来てくれるなら、俺もむやみに吹っ飛ばされずにすむかもな」

「うるせっ。私を引きずり出す言い訳のくせに。バカオオカミ」

「気付いてたのか」

「気付くわ。嘘をつくの下手すぎ」

「呼び方も、バカオオカミの方が呼びやすければそれでも構わないぞ」

そのように冗談交じりに言った返事が戻ってこないのに、オオカミはしばらくして気付いた。スカイクラッドの跳ね返すような応答にしては珍しいことだった。

天井のスカイクラッドを見上げる。すると……彼女は落涙していた。

「おい、どうした」と声を掛けそうになったのを、オオカミはすんでのところで堪えた。このタイプの涙にも、見覚えがあったからだ。ユナが怒り始めるその直前に見せたものとそっくりだった。歯を食いしばって堪え、それでもあふれ出てしまう涙にすら憤っている、憤懣のやるかたない涙。

これがいわゆる地雷で、オオカミはいつの間にか、その真上に片足を乗せてしまっていたのだった。

「どうせ、出られやしないんだもん」

スカイクラッドが歩みを止めることはなかった。むしろ早足になってすらいた。オオカミが、追いつくために少し早歩きになるくらいに。

「ママは、いい子が好きなんだもん。ママの言うこと聞いて、おとなしくお家に籠もってる子が好きなんだもん」

「……悪かった。戻ったほうがいいならそうしよう」

「それは……でも、もっとヤだ。そしたらおにーちゃん、ソラのいないところでソラを自由にしようと頑張るんでしょ。それはヤだ」

その時が一番、ソラの声は震えていた。

「ソラの自由はソラのものだもん」

「……」

「だから、ソラが頑張らなきゃいけないんだもん」

悲痛な繰り返しはまるで自分に言い聞かせるかのようで、オオカミはそれが故になにも言ってやることができず、同時になにも言うべきでは無いと思った。

『愛されなかったから、ルナチャイルドになるんだよ』

他ならぬスカイクラッドが、何ということなく流したその一言がオオカミの脳裏に蘇った。

ユナは……確かに、愛されなかったのだろうと思う。親戚という親戚をたらい回しにされた、私生児。一体いつからルナチャイルドだったのだろうか、推測するのをオオカミは止める。

そしてユナの愛されなかったという境遇が示すのは、スカイクラッドもまた同じくらいに愛されなかったということだった。

ユナはオオカミ以外の誰にも、自身の境遇を話さなかった。知られたくなかったからだし、詮索されたくもなかったからだ。

ならばスカイクラッドのそれに対しても、同じくらい丁寧な敬意を払うべきだとオオカミは思ったのだった。

「……調子狂うな。噛みついてこないの」

「俺をなんだと思ってるんだ……」

「ユナキチ」

「ぼんやりあってるが狂ってはない。俺はユナとの間で取り決めたルールに従ってるだけだ。それより、軽口をたたけるくらいには元気が出てきたのか」

スカイクラッドは常にオオカミより前を歩いていたから、その表情をうかがい知ることはできない。ただ、その歩みや、ぷらぷらと揺れるツインテールの弾み方を見るに、先行きに少々希望が持てたのは確かなようだった。

折良くママの居室にたどり着いたところだった。

スカイクラッドは、その時初めてオオカミを振り返った。

オオカミは息を呑む。

スカイクラッドは笑顔だった。しかしその上から、大粒の涙がとめどなく流れては天井に落ちていく。

「励ましてくれてありがと、おにーちゃん」

しゃくり上げながら、スカイクラッドはオオカミを呼んだ。

「でも、無理だよ」

そんなわけない、悲痛な声で。


「ソラの自由は……お空の果てにしかないんだもん」

将来はなにになりたい?と聞かれたとき、ソラは本当は、

「ちょうちょになりたい」

って答えたかった。どこにでも行けるし、きれいだから。

だけどそういうと、ものすごい勢いで怒られちゃうから、

「お医者さんになりたいです」

「どうして?」

「みんなの役に立てるからです。それと、お父さん、お母さんを支えることもできるからです」

心にもない、暗記させられたフレーズを、ただ吐き出すだけ。

練習は大詰め、本番は明後日。

私立の小学校に入るための、入学試験。その面接対策、だったんだと思う。

「……***、どうしてずっと俯いているの!」

ダイニングテーブルを挟んで向かい合っていたお母様が、激高して台パンをかます。

「昨日もおとといもいったでしょう! 質問に答えるときは前を向いて、面接官の方を見てはっきりと、笑顔で!」

「はい、わかりました。お母様」

「なにが分かったの、言ってみなさい」

「質問に答えるときは前を向いて、面接官の方を見てはっきりと、笑顔で話す」

台パン二発目。

「声が小さい! もう一回!」

「質問に! 答えるときは!前を向いて! 面接官の方を見てはっきりと! 笑顔で話す!」

「バカにしてるの!?そんな答え方……!このっ!」

三発目は台パンではなく、ビンタ。

爆弾でも破裂したかのような、灼けるような痛み。もう慣れっこではあるけれど。

「情けない、泣けば終わると思っているんでしょう。そんなことは絶対にないからね。完璧にできるまで、そのイスから立たせないから。さぁ最初からよ。『将来の夢は、なんになりたい?』」

涙を止める術にも、慣れた。

そうしないと、もっと痛いから。

「お医者さんになりたいです!」

「どうして?」

「みんなの役に、立てるからです!」

「泣きじゃくってんじゃないわよ! 感情のコントロールもできないで、なにになれるって言うの!」

今にして思えば、お前にだけは言われたくない案件だったのだけど。

当時五歳だったソラにとって、ちょうちょじゃなかったソラにとっては、お母様の言うことが世界の大部分だった。けれど。

ちょうちょが飛んでいける果てしないお空の果てにも、同じくらい惹かれていたんだ。



だから、怒らないで。

もう蹴らないで。

ソラはただ、飛んでいきたかっただけなの。

息苦しくて仕方が無かっただけなの。面接室の空気も、面接官の目線も。隣に座っているお母様のピリピリした空気も。

「……では、将来の夢を聞かせてくれるかな」

貼り付けたような笑顔の面接官、質問も紋切り型。


……つまんない。そう思っちゃっただけなの。


開いてた窓からまっしろなちょうちょが、入ってきて、ソラの前を横切って。

自由に飛んでいくもんだから。


「***もちょうちょになる!」


そうやって後を追いかけてみたけれど、ちょうちょは反対側の窓から、ソラを置いて飛んで行っちゃった。

面接は終わりになって、お家に帰って、今。

痣だらけで痛む体を引きずりながら、ソラは泣いてた。泣き声が聞こえるとまた蹴られるから、腕を噛んで泣いてた。

「もうこれでどこにも行けなくなったじゃない!」

爪先がお腹に食い込む度にねじ込まれた、お母様の言葉。

本当かなぁ。ソラ、どこにも行けないのかなぁ。

これでお父様が帰ってきたら、どうなっちゃうのかなぁ。

……本当に、どこにも行けなくなっちゃうかも知れないなぁ。


「……***は、ちょうちょだもん」

そんなの、嫌だ。

「***は、どこにだって行けるんだもん」

だってそうじゃなきゃ、

「***だって、いろんなところに行きたいんだもん」

ソラは、なんのために生まれてきたの……?


体中はあちこち痛くて、それだけで泣いちゃいそうだけど、頑張って玄関まで行って、靴を履いて。

扉を開けたその時、お父様の車が帰ってくるのが見えた。


痛む体に鞭打って走った。後ろからお父様とお母様が、ソラの名前を呼びながら追っかけてくる。

逃げなきゃ。

どこでもいいから、どこかへ。

どこでもよくない。すぐ捕まっちゃう。

だから、誰の手にも届かないところへ。

真っ青に晴れた、


あの大空へ。ちょうちょが飛んでいく、あの大空へ。


まさにその時だったんだ。

***がソラになって、蒼穹が床になったのは。

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