第5話 ママ、という庇護者
『ママ』と呼ばれるルナチャイルドは、女性であった。想定外だったのは、その若さだった。
小学六年生程度のスカイクラッドがママと呼んでいたから、オオカミは勝手に自分の母親か、それよりも少し若いくらいのふくよかな女性を想像していたが、実際に対面したママは彼女が身に纏うレースのたくさん付いた水色のロリータファッションも相まって、恐らく実年齢より相当に幼く見えている。
ヘッドドレスと、首元にあしらわれた大ぶりのリボンに挟まれた、ママの顔がある。濃いメイク。過剰なほどに引かれたアイシャドーとアイライナー、伸びたマスカラで元の目の形がほとんど分からないほどにぱっちりとしている。その傾向は顔という顔がそうで、オオカミがこのママという存在を、魂を得た無機物なのではないかと一瞬疑ってしまうほど、ツヤを前面に押し出したメイク。
まるで、愛玩用のお人形と対峙しているかのような。そのママがオオカミを見た。過剰に大きく見える瞳が、オオカミを捉える。
「あら、オオカミシンヤさん」
オオカミがスカイクラッドの案内してきた部屋に入ると、そのママがことも無げにオオカミのフルネームを呼んだ。
「……失礼かも知れないが、どこかで面識があったか。俺の方には、あんたみたいな趣味の大人にはまったく心当たりがない」
「いいえ、初対面。そして君の人生は大正解。今まで私に巡り会わなかったってことは、そういうこと。申し訳ないなとは思ったんだけど……ここで起こることは全部見えてしまうし、耳に入ってしまうの。『ハイツ・ムーンライト』へようこそ、オオカミシンヤさん」
「どういうからくりかは……もういい。どうせルナチャイルドの力なんだろう。それよりシンヤと呼ぶのを止めてくれ。今すぐに」
オオカミは天井を仰ぎながら言った。さっきまでどれだけの時間眠っていたのか分からないが、もうそろそろ新しい現実を受け入れる力の限界が近づいてきているようだった。何せ仰いだ天井にも、小学六年生くらいの女の子が平然と立っているわけだし。もうオオカミは、なにが本当でなにが嘘でも、驚かない心持ちになっていた。ただひとつだけ、譲れない線を除けば。
「ユナに会わせてくれ。訊きたいことが山ほどある」
「いいえ、ダメよ。シンヤ君」
オオカミに対してママは、再びその名を言い放った。
「コチョウランちゃんはまだ、ダメ」
「ユナがそう言っているのか。あとシンヤと呼ぶのを止めろ」
「そうよ、シンヤ君」
「止めろって言っているんだ……!」
「そうよね、やめて欲しいわよね。じゃあ、私からのお願いも聞いてくれるかしら」
唸るオオカミに対して、人形然としたママは平然と答える。
「スカイクラッドは……ハイツ・ムーンライトで生活するためのルールを教えてくれたと思うの。でもここから先は、私ママがいうことは、違う。コチョウランちゃんと接するときのルール」
「なぜそれをアンタが決めるんだ」
「コチョウランちゃんと話して決めたからよ」
「ユナは生きているんだな」
「聞いてくれるの、くれないの……ヒーローサマ」
「……お前!」
オオカミは叫んでいた。普段の冷静さを忘れ去ってしまったかのような大声で。
「何よりの証拠でしょう。コチョウランちゃんと話したという」
しかし静かに染み渡る、ママの声の方がこの場ではよく通る。
「話を聞いてくれる気になったかしら。それとも……それどころじゃないかしら」
「ユナに何をした。どうせルナチャイルドの力で何かしたんだろう。そうじゃなきゃおかしいんだ。だって、ユナがそれを他人に喋るわけがない」
「信じているの、コチョウランちゃんのことを。それとも……」
ママはあくまでも淡々と問う。
「疑っているの……? 怒っているの……?」
「ユナに会わせてくれ。そうしなきゃあんたの言うことが、嘘か本当か分からない」
「なら、私のお話を最初に聞いてくれるわね。どうしてかっていうとね、オオカミシンヤ君。それを守らないと、コチョウランちゃんの命に関わるから」
「生き死にの話だと。なんだ、なにを話したんだ、ユナと」
オオカミは依然、噛みつかんばかりに前のめり。だが……、ついに息を大きくついて、敵意を解いた。
「……分かった。聞くよ。俺はどうすればいいんだ」
そうしなければ、どう足掻いてもユナのそばには行けないと、分かってしまったためだった。
「一途な子は嫌いじゃないわ……」
「一途って何だ。俺はただ」
「おにーちゃん、話が進まないからいちいち噛みつくの止めて」
天井のスカイクラッドがうんざりした声を上げ、オオカミは黙る。
「で、ママ。オオカミおにーちゃんはなにを守れば良いの」
「ありがとうスカイクラッド。じゃあ、オオカミ君。一つだけだから、必ず守ってね」
「ああ、何だよ」
「コチョウランちゃんのね、ルナチャイルドとしての異能が何なのか……聞かないであげて」
ママは淡々と言った。オオカミはそれを聞いた。
「……それだけか」
「ええ、それだけ」
「分かった。ユナに会わせてくれ」
「復唱して。コチョウランちゃんに会いたいなら、そうして」
「必要ない。俺が会うのはコチョウランじゃない。ユナだからだ……」
オオカミは信念の元、そう口にしたつもりだった。
ユナは、ユナだ。あくまでもこっち側の人間のはずだ。
はず、だった。
「コチョウランなんて呼び名、必要ない」
「優しい嘘をついてあげることもできたわ。でも、それはきっと君の望みじゃないでしょう、オオカミ君」
ママの言葉は常に的確だった。
他ならぬユナが名乗ったのだ。コチョウランという耳慣れない名前を。
ユナは、オオカミの知らない顔を持っている。
コチョウランとしての顔を持っている。
ならばオオカミはそれを知っておく必要があった。しかしオオカミは今、その肝心要となる情報を得ることを、禁じられてしまったのだった。
「さぁ、じゃあコチョウランちゃんのところに行きましょう」
「……待ってくれ」
オオカミはややあって、呟いた。
「まだ、どんな顔してユナに……会えば良いのか分からない。今のユナは、ずっと前からコチョウランなんだろう」
「ええ、そうよ。当然のこと……」
ママは冷淡に、事実だけを告げる。
「もしも覚悟が決まらないのなら、あなたはここで帰りなさい。まだルナチャイルドじゃないあなたをここに置いておくのは、ハイツ・ムーンライトのルール違反なの。本当ならこのままスカイクラッドに、お空の果てまで飛ばしてもらっておしまい。だけど君は例外。どうしてか分かる……」
「ユナに、必要だからか」
「そうよ。それをコチョウランちゃんから聞いたから。あの子は君のこと呼んでるよ。応えてあげる? あげない?」
ママはそう言うと、ドレスの裾を僅かに揺らして立ち上がり、しずしずと奥にあった部屋へ立ち去っていく。
「ついてくるなら、今。そうじゃなきゃ、スカイクラッド。お外に帰してあげて。お空にじゃないわよ、お外に」
「……私は出られないのに?」
「聞き分けて、スカイクラッド。さぁ、オオカミ君。来る?来ない?」
扉の前で一度だけ、ママは振り返った。
そしてオオカミがまだ目をつぶって震えているのを見て、嘆息を吐き、扉の奥へ消えようとする。
「待て」
オオカミは、まさにその時覚悟を決めたのだった。
ユナが何であったとしても。
コチョウランが何をして来たのだとしても。
「関係ない。ユナが俺を必要だというなら、俺は行かなきゃならない。俺のことをヒーローサマ呼ばわりするくらいなら、その辺の事情も分かってるんだろう」
「……律儀なこと。でも、合格点。ついていらっしゃい」
少し離れたママの背中を、オオカミは小走りで追う。そして、追い越す。驚きのあまり漏れたママの叫びをも追い越して、扉の向こうへ。
そこにはオオカミが寝かされていたのよりもさらに大きな天蓋付きのベッドがあって。
豪奢な飾りの付いた天幕が下りていて、のりの利いたシーツの上に掛け布団がしわくちゃになっていて。
その中心に、コチョウランが、咲いていた。
「シンヤ」
「ユナ」
「シンヤ、堪忍な」
コチョウランの居るベッドに歩み寄ろうとしたシンヤは、ユナの悲痛な声に足を止める。
「なにがだ、お前が俺たちの関係をしゃべったことか?」
「もう聞いとるんやね……それもあるし、他にもいっぱいある」
「いい、それを言うなら最初に約束を破ったのは俺の方だ。俺がお前を傷つけた。だから……少しだけ、ホントのこととそうで無いことを分けさせてくれ。いいか」
スカイクラッドとママの前だったが、オオカミは居ても立ってもいられなかったし、ユナも難色を示した様子はなかった。
お前はルナチャイルドか? ……はい。
それはあの喧嘩が原因か? ……いいえ。もっとずっと前から。
ドーナイザーとの繋がりも? ……はい。なった瞬間から。
ドーナイザーは敵か? …………。
「分からんの」
コチョウランが言いよどんだのは、その問いに対してだった。
「ドーナイザーの人らは……ある意味では優しかった。少なくとも、ドーナイザーの人らには、あたしの本当の姿を隠さずに済んだんよ」
「包み隠さず言ってくれれば、俺だって」
――受け入れられた。
そう言いかけて、オオカミは勢いその無責任な言葉を飲み下す。
「約束。最初に、ずっと昔に破っていたのは、お前の方だったってことか。俺がヒーローで、お前がお姫様。お前は俺に、ユナを守らせてくれなかったのか」
「そう。だから、堪忍な」
オオカミは崩れ落ちそうになった膝を叱咤して、ユナの目を見続けた。
構わない、と一言で流すには、落胆が強すぎた。
かといって怒り狂うのもまた違った。
ユナのヒーローとして、彼女を守る者として、この場でふさわしい振る舞いはなにか。オオカミはたっぷり三秒、深呼吸をして、応えた。
「……ドーナイザーってやつらには、なにをさせられてたんだ」
「端折って言うとな。人殺しよ」
「なんだって」
オオカミは思わず、一歩ベッドに向かって踏み出す。すると突然くるぶしを掴まれて、転んでしまいそうになる。見ればカーペットから細い右手が生えていて、オオカミを留めているのだった。
「オオカミ君。望んでやらされていたんじゃないことは、分かっているはずよ。それと、私たちとの約束のこと、忘れないで」
口を挟んできたママを見れば、その右手はなく、袖だけが力なくぶら下がっている。ママのルナチャイルドとしての異能は、巨大な建造物を隠蔽するだけではない様子で、底知れない。
「ドーナイザーってやつらに、やらされていたんだな」
「そうやわ。あたしにはそれしかなかった」
ユナは俯く。オオカミの真っ直ぐな視線から、目を逸らす。
「言われるがままに何人も何人も。そうしなきゃ、あたしが……」
ルナチャイルドは、本来ならば駆逐されて文句の言えない存在。もし、自分がそれであると誰かにばれてしまったなら、それが巨大な組織だったとしたら。いいように扱われることを是とせざるを得ない。
「……分かった。でも、俺はお前のヒーローだ。お前を守る」
オオカミは目眩を抑えながら、何とかそう言い切った。
敵を定義して、そういう連中からユナを守る。遠ざける。それが政府組織であるということなど関係が無かった。ユナに対しては怒っていない。いま、オオカミの怒りが向かっているのはドーナイザーに対してのみ。
後ろから声がかけられても、それは変わらない。
「威勢のいいこと。でも、丸腰のあんたに何が出来るっていうのかしらね」
その場に居たうち、オオカミとユナだけがその声の方を見た。
「あんた、スティグマ」
アンチマテリアルと名乗ったルナチャイルドの襲撃、その際にアンチマテリアルを殴り飛ばした娘だった。名を、スティグマ。失われたはずの右腕は……元通りだ。
「コチョウラン、だっけ。無事?」
オオカミの誰何をスティグマは無視した。オオカミを追い越してベッドへ歩み寄ると、ユナの体をペタペタと触りだした。
「なに、なんやのあんた」
「じっとしてて……」
「ひゃっ……どこ触っとんねん」
「いいからじっとしてて……ケガしてる」
オオカミは、ユナがいいようにされるのを黙ってみていた。ユナがいいというならそれでよかったからだ。しかしどうも雲行きが怪しくなってきたので一歩踏み出そうとした。しかしカーペットから生えている右手は依然、オオカミのくるぶしを掴んで離さない。
「スティグマおねーちゃん、あいつはどうなったの」
代わりにスカイクラッドが、疎ましげな声でスティグマに問うた。スティグマはそちらを顧みようともしなかった。
「無理」
「無理ってどういうこと」
「相性が悪かった。傷をもらうのは十分できるんだけど、触った瞬間に吹き飛ばされるからもらった傷の移しようがなかった。つまり、誰だっけ……アンチマテリアルはまだ生きてる」
オオカミはその宣告に、体を強ばらせる。
オオカミたちを殺すべく送り込まれた、と思われるルナチャイルド。恐らくオオカミたちの顔を知っている、唯一のルナチャイルド。それが、生きて、まだ街をうろついている。
「連中が出してくるルナチャイルドもいよいよ、まともに戦えるのばっかりになってきたね。私としちゃ楽しいけど……ハイツ・ムーンライト、探されてるよ、ママ」
「分かっていますよスティグマ。その点はポーカーフェイスを信じて」
「あいつ平気で男にもなるからなぁ……はいおしまい。コチョウラン、体動かしてみて」
スティグマが、ようやくユナから離れた。ユナが言われたとおりに体を動かすと、
「別に、何も変わらんのやけど」
「そう? 私は満足したけど」
「なんや、それ……」
スティグマは艶っぽい含み笑いで応える。
「女の子同士仲良くしましょう、ってことよ。だから、そこの男」
オオカミは、アンチマテリアルが生きていたという報せを受けて思案に暮れていた。そこに突然、自分以外に該当しないその呼び方をされたものだから、訝りながらも「なんだ」と応えた。
「話はだいたいママから聞いてる。正義漢ぶるのは結構。ヒーローサマ気取りも構わない。だけど、女の子を傷つけるヤツとは私はお近づきになりたくない。近寄らないでくれる……」
「初対面からえらく嫌われたものだが、俺とあんた、ユナに関しては目指すところは一緒なんじゃないのか」
スティグマが長いウェーブをかけた髪を掻き上げる。
「おなじ。笑わせないでよ。せっかく男でいるくせに」
「言ってる意味が分からないが、一方的に嫌われるのにはまぁまぁ慣れてる。あんたが、ユナのそばに居てくれるんだとしたら安心だ。あのアンチマテリアルと引き分けるんだろう……」
オオカミは自分の手のひらを、じっと見つめている。スティグマは鼻を鳴らして、その様子を睨み付けている。
「口だけのヒーローサマより、よっぽど頼もしい」
「…………アンタ、オオカミだっけ」
「ああ」
「バカオオカミ」
即座に飛び出す罵倒。
「……なんなんだおまえら。さっきから俺のことをバカ呼ばわりしかしてないが」
「バカにバカって言ってなにが悪いの」
「なんだと」
「ソラ、疲れちゃったぁ。ちょっとお外の空気吸いたいなぁ」
罵倒の応酬になりかけたその時、スカイクラッドが大声でそれを遮った。
「ママ、ちょっとぐらい平気だよね。お外出ても」
天井にトントンと、履いているスニーカーの爪先を打ち付けながら、スカイクラッドは問うた。ただ、その口調がやや捨て鉢に聞こえたのがオオカミには気に掛かった。その疑念はすぐに、ママの一言によって解き明かされた。
「ダメ」
「なんでぇ」
「この間のお出かけは、コチョウランちゃんを助けるための特別だったの。ルナチャイルドはハイツ・ムーンライトの中から出ちゃダメ。そうじゃないと」
「……はぁい。分かりました」
スカイクラッドは、特段しょげかえった様子もなく部屋を後にしようとする。
「どこへ」
「おへやでるるぶ読む」
「そう……好きになさい」
スカイクラッドが扉を跨いで、コチョウランの居室を後にする。軽快な足音が、遠ざかっていく。
「オオカミ君、ちょっとお願いがあるのだけど」
「ソラの行き先のことか」
「話が早くて助かるわ。私たちはスティグマを交えて、今後の作戦を練るから」
「……分かった」
体よく追い出された格好になる。なぜならママには、館で起こることが全て見えているはずだからだ。スカイクラッドのためにわざわざ見張りを出す必要など、本来なら無い。
それでもオオカミは従わざるを得なかった。
無力な自分にうんざりしていたのもそうだったし。
スカイクラッドのことも少しだけ心配だったからだ。
今ならまだ、足音を頼りに追える。
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