第2話 空中浮遊のよくいる「カノジョ」
ユナに指定された住所を地図アプリで検索すると、どうやらよくあるビジネスホテルの一つであるらしいことが分かった。それそのものをオオカミが使ったことがあるわけではなかったが、ごく狭い部屋にベッドが一つか二つ、あと冷蔵庫とか照明とか、それだけの簡素なものだと想像する。
そんなところをなぜ、ビジネスとは無縁な女子高校二年生であるユナが指定してきたのか。
オオカミは初めて、電車の進みが遅いことに対して苛立ちを覚えていた。本当に生まれて初めてのことだった。中央特快の速さに文句があるようなら、立川などには住んでいられない。
鞭打つように、床を軽く蹴る。否が応でも、彼女が彼女の年頃だから可能な、手を出しかねないビジネスのことに思考が奪われてしまう。
オオカミのせい、か。
ユナが、犯罪に手を染めるまでに追い詰められていたのだとしたら。
「俺は、どうしてやったらいいんだ……」
新宿に電車が到着し、速度を落として停車、そして扉が開くのを待ちきれずに、扉に肩をぶつけたことすら気付かずにオオカミは東口改札を駆け抜け、歌舞伎町を突っ切る。地図アプリは最短距離を呈していて、オオカミもそう走るべきだと思ったからだった。
「お兄さんお兄さんお兄さんそんな急いでどこ行くの」
キャッチの声が苛立ちを加速させる。ユナは、お前たちの同類じゃないはずだ。
もしそうなってしまっていたのだとしたら、俺のせいだ。
息の持つ限り走って、二十秒くらい止まって。また息の持つ限り走ってを繰り返して、指定のホテルに着いたのは電話を受けてから一時間後のことだった。
ホテルの入り口には、ユナが立っていた。
いつもの舐めきった服装だった。シャツとブレザーの間に淡いピンク色をした薄手のパーカーを挟み込んで、なにを主張しているのかと思えば「あんたには一生分からんよ」と来たものだから、オオカミはそれ以上追求するのを止めたものだった。そんな、いつもの姿で。ユナは立っている。
そうだというのに。
オオカミは、彼女に近づくことを一瞬躊躇したことに、自分自身でも驚いていた。
「……ユナ?」
呼んでみたのは、確証が持てなくなったから。
目の前の幼なじみからにじみ出ている、あまりに悲壮な気配が。いつもやる気なさげで気だるげで、どこを見ているのか分からない彼女と一致しなかったからだ。
ユナは、答えない。
「ユナ」
もう一度問う。
お前は、誰だ?
「シンヤ」
聞き馴染んだ声が答える。でも、それはまるでだれかがユナの声を使って喋っているかのような、ぎこちなさ、あるいは抑圧を抱えた震え声。
「シンヤ。あんたなら、来ると思ってた」
「ユナ、何があった……? どうしたんだ?」
学校を二週間休んだことなんか、もはやどうでも良い。
「俺が、何かしたせいか。だからお前は、ずっと家にも帰れないくらいに……俺が、傷つけたっていうのか」
「それも、ある。だけど女の子には他にも色々あんの。結局シンヤには分からなかったみたいやけど……」
ユナは半歩先に立っていたが、踵を返してホテルの方へと帰っていく。帰っていく、というのが表現として適切に思えてしまうほど、自然な所作だった。自動ドアをくぐってエレベーターの方に向かっていく、ただ歩いて行くだけの動作に自然も何も無いものだが……普段のふわふわしたユナは作られたもので、違和感の強い今のユナの方が本当のユナなのではないかと、思わされたのだった。
その途上で、ユナは立ち止まった。そして顔だけ振り向いた。顎先まである長い髪の間から、彼女の茶瞳が妖しく光っている。
「立ち話は嫌いなん。オンナノコって感じやん。座って話そうか。ついてくる気があるなら……教えたげる。あんたの知りたい本当のあたしが、何なのか」
オオカミは即座に頷いた。
「聞けば、帰ってくるんだな。帰ってこれるんだな?」
「ちゃう。……っていったら?」
オオカミはユナと並んだ。自分よりも遙かに小さいユナを見下ろすのはいやだったが、今はそれが必要だった。
「変わらない。聞いて、連れ戻す。場合によっちゃ力尽くだ」
「……アホ」
ユナは浅くため息を吐いた。そしてカードキーでエレベーターを呼んだ。
その時、オオカミは、ユナに集中していた意識を散らす存在に気付く。フロントからの視線だった。
オオカミは制服を着たままだった。ユナも学生風だった。その、風紀の乱れに対する冷たい目線、なのだろうか。好色の眼差しだろうか。
ちがう。もっとおどろおどろしい、底の見えない悪意を、オオカミは感じていた。フロントからはすぐに人がいなくなってしまって、真偽のほどは分からない。
「シンヤ。来たよ」
促されるままに、エレベーターに乗る。
その時繋いだ手が、あまりに温かくて。熱いくらいの温度を持っていて。
この時オオカミは、初めて他人の体温というものを知覚して。
「……熱あるのか、ユナ」
「アホ」
その程度の感想しか、出てこなかったのだった。
一番小さなシングルルーム。小さなベッドに枕とバスローブが二つずつ。ついでに色違いの折り鶴。ユニットバスには歯ブラシからひげそりまで各種アメニティが取りそろえられている。枕の反対側には巨大なテレビが据え付けられていたが、電源は切られていた。
ベッドに腰掛けるユナに倣ってそうすると、どこからとなく視線を感じる。見回せばルームデスクの長さと同じだけの鏡が据え付けられていて、間抜けな顔をしているオオカミと、その向こうにいて手先の爪を撫でているユナを映していた。
「ビジネスホテルは初めて?」
ユナが唐突に尋ねた。
「あるのは知ってる。でも実際に入ったのは初めてだ。こんなに狭いんだな」
「そう、狭いん。だからもうちょっと詰めていいね」
オオカミの右腕に、ユナがピッタリと寄り添う形になる。
「ビジホは、初めてやんね」
「そうだな」
「じゃあラブホは?」
「バカか? 無いに決まってるだろ」
オオカミは上目遣いに見上げるユナを一蹴する。
「……そう言うお前は、どうなんだよ」
「オンナノコにそうやって、いけずなこと訊く。そういうとこよ、オオカミ」
そう言い返したユナの目は潤んでいた。なぜだ、と尋ねることは、できなかった。
次の瞬間には、そう尋ねようとした唇が、ユナに奪われていたからだった。
口づけが続いたのは時間にして三秒ほどだったが、オオカミにとってのそれは一瞬の出来事
だった。柔らかい感触と、エレベーターで感じた熱に焼かれ、「はぁ、」と唾液の筋を引きながら息をついたユナの姿を見て、初めて自らがなにをされたのか、はっきりと理解したのだった。
「……何のつもりだ、ユナ」
「バカオオカミ!」
ユナは興奮からか、いつにない大声を上げた。
「狼のくせにぴーちくぱーちく喋ってばっかり。つまんないわぁ。その大口は喋るためばっかりに付いとうの。あたしに説教するためだけに付いとるって言うの、ねぇ!」
「わけの分からん質問だが、答えるなら、そうだ。約束を破ろうとするお前を説教するためなら、いくらでも言葉を尽すさ。苦手なことだが」
涙すら流して言いすがるユナに対して、オオカミの態度は不自然なまでに非情と言えた。
しかしオオカミという男子高校生は、そうなのだった。今、迫ってくる女がいるにもかかわらず。約束という文脈の元、彼は全ての想いを押し殺すことが出来る。
しかし、決して小さくはないオオカミの体は、その約束故にユナに対しては無力であった。華奢で、故に一回りほど小さいユナに突然飛びつかれ、容易に倒されてしまう。
「っ……? 何だ、ユナ」
「あんたの、その意地っ張りが」
オオカミにまたがる恰好になったユナが、震えた声で言う。
「あたしがあんたをやらないけなくしたんよ……」
「やる?」
「せめて気持ちよくイってな……『コチョウラン』最高のサービス、するかんね」
言いながら、『コチョウラン』と名乗ったユナは、オオカミの腰の上でブレザーを脱ぎ捨てて胸のリボンを乱暴に取ると、シャツのボタンを上からひとつひとつ外し始める。オオカミはそういったことに無関心だが知識はある。なにが始まろうとしているのか、恐らく正確に理解している。
その上で、オオカミは問うた。
「『コチョウラン』っていうのは何だ」
「源氏名……みたいなもんやね」
「そういうつながりがあるのか」
「あたしはやりたいからやってる。あんたとは特に……」
「いいや、ウソだ」
ユナの……いまは、コチョウランの瞳は最初から今に至るまで、ずっと潤んでいた。それは単なる体のほてりのせいではない。今、オオカミの中でそれは確信に変わる。
「だれにやらされているんだ。お前、ずっと、給食で海藻の甘酢和えが出てきた時を千倍ひどくしたような顔してる。やりたくないことやらされてる顔だ」
コチョウランが息を呑む。
「もし万が一、俺がその気になったとしても……有り得ないことだが……ユナ、いっつも誰かに強いられてヤらされてるのか。だとしたら、俺は尚更、お前をこのまま連れて帰る。俺の知らないところでお前がそんな顔してるのは、嫌だ」
ボタンが全て取れ、はだけきったシャツの下には、発育の悪いまま成長を終えてしまったコチョウランの小さな胸を覆い隠す、シンプルなブラジャーが垣間見えている。それが、次第に過呼吸気味になっていく彼女の胸が上下しているのをはっきりと浮かび上がらせている。
「う……うう……」
コチョウランは顔を覆い、呻く。
「……! でも、それでも!」
そして、叫ぶ。
「でも、でも! ……うう、できない。やだよ、こんなんで。シンヤとお別れなんて」
「お別れ?」
オオカミが、訝しんでいる間もなかった。
部屋の入り口、堅牢なオートロックの扉のほうから、まるで爆発したかのような轟音がした。それは実際に、扉がそのまま部屋の中に飛び込んできたことから、どうやら本当に爆発したらしいとオオカミは認識した。その方法は、分からないが。衝撃の連続であった今日、オオカミは更に自らの常識を疑う光景を目撃する。
「はいはい。結局私の、『アンチマテリアル』の出番ってわけですね。わかりましたよ」
粉塵の後から現れたのは、ユナ……コチョウランと同じくらいの歳の少女だった。ごく普通の、ただ一点を除けば特筆するところのない、眼鏡を掛けた地味な少女。
宙に浮いている、という。その一点を除けば。
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