第3話 ルナチャイルド、っていうカノジョたち

宙に浮く少女は、まるで幽霊がそうするようにゆっくりと滑りながら、こちらへ向かってくる。

「やっぱ、本命の男とはヤれないか。残念……聞き耳立ててようと思ったのに」

オオカミは、これまでに起こった出来事の情報量に圧倒されてしばし動けずにいた。しかし体の上にある、ユナの恐慌を来した震えを感じ取ったときに、急速に我に返り状況を判断する。

宙に浮き、固い扉をいとも容易く吹き飛ばす。それは世間では超能力と呼ばれる。そして、この世に超能力を保持するものといえば、噂に聞くそれしか、存在しない。


「……ルナチャイルド」


それは特異なものに対する、蔑称に近い呼び名。

『性癖検査』と呼ばれる試験がある。その公然の秘密の一つに、検査の目的があった。

即ち、ルナチャイルドと化してしまいそうなメンタリティの人間をあぶり出すということ。

ルナチャイルドになりやすいものの条件は明らかになっている。愛着だとか、執着だとか、そういったものが両極端に振れすぎているものが、男女問わずルナチャイルド化しやすい。一度そうなったものは元の人間には戻れないと広報されている。大概はその際に得た力を以て、それまでの抑圧に反発するかのように暴虐の限りを尽くしたのち、警官隊などによって処理される。

そういった事件が多かったから、性癖検査が生まれた。即ち、未然にルナチャイルド化しそうなものを洗い出し、適切なカウンセリングなどを施すことによってまっとうな道に更生させる。オオカミは少なくともそう聞いていた。だから面倒でも、予防のために毎月欠かすことは無かった。

しかし、状況は異なる。ルナチャイルドである『アンチマテリアル』は、誰かの指示を受けてここに立っている。

「……アンチマテリアル……待って、まだ始まってもないわぁ。もうちょっとでやれるから。お願いだから」

「命乞いとか笑わせないで下さい。一度でも失敗すればこうなることは、契約で織り込み済みのはずです。やっと、この鬱陶しい目付役から解放されると思うと、胸が空く想いです」

アンチマテリアルは淡々と、一切の容赦なく、オオカミたちに迫る。

コチョウランは顔を覆ってガタガタ震えている。その様子を見て、オオカミは悟るのだった。

いよいよもって、彼女の本当の姿は、情感豊かで多感なこちらの方なのだと。

これまで自分が見てきた、飄々としていて何が起きてもどこふく風といった様子の彼女は、今露呈している弱さを覆い隠す仮面に過ぎなかったのだと。

「おい、立て。ユナ!」

「それはコチョウランですよ」

もはや三歩の距離もない、アンチマテリアルとオオカミたち。しかしアンチマテリアルの進みは亀のように遅い。必死のオオカミはそこに、ユナを救う活路を見出した。

「ユナ、すまん」

オオカミは体の上にまたがっているユナを突き飛ばした。部屋の奥側に倒れ伏す彼女を顧みることなく、オオカミは間髪入れずにベッドにかかっていた掛け布団と枕を、一斉にアンチマテリアルへ被せる。これで本当に僅かな時間ではあるが、視界を奪うことができるはず。

「無駄なあがきを……鬱陶しい」

アンチマテリアルは毒づきながらも、避けない。そしてそれらが彼女の肌に触れるか触れないかの瞬間、目隠しに使ったそれらが猛烈な速度で跳ね返ってきた。コチョウランの手を取ってベッドの上を迂回していたオオカミは、自らが放った目隠しに押し出されて、二人もろとも……窓へ。爆風によって打ち割られて、もはや阻むものがなくなった、窓へと一直線に吹き飛ばされる。

「なにをやっても無駄なこと。アンチマテリアルには何物も触れられないのです」

烈風の中に佇む少女は、最後まで無表情だった。オオカミたちが重力に負けて落下を始めるまでの僅かな間、じっとこちらを見つめてはいた。

「さようなら、淫行学生二名。墓前には三面記事でも晒しておいて――」

しかし、その時だった。二つの奇怪な出来事が同時に起こった。


まず、アンチマテリアルが殴りとばされた。

乱入してきた第三の少女によって。年齢はこれまたオオカミたちと同じくらい。グラマーな体つきをしていて、長めのたっぷりとした黒髪にうねりをつけている。

少女はアンチマテリアルを吹き飛ばした。当然爆発は起きる。現に乱入してきた少女は右腕を失っている。オオカミは声を上げそうになるが、下から「静かにして」と唐突に幼い声がして口をつぐむ。

そういえば、落下していない。

アンチマテリアルが驚愕の表情を浮かべながら、頬を押さえて立ち上がった。この一部始終を見つめていることができたのは、きっと真下にいる女の子のおかげなのだろう。

「『スティグマ』! 足止め頼むね!」

答えて部屋の中の娘……スティグマ曰く。

「早く行って、『スカイクラッド』。ここが無事であるなんて、あなたも思ってないでしょ」

「おおこわい、意地っ張りなんだから。じゃあ行くので、エロねーちゃんとバカにーちゃん。お願いだからしっかり掴まってね。今から、空に堕ちるから」

どういうことだと問いただす前に、その現象がオオカミたちを震え上がらせた。

スカイクラッドと呼ばれた少女が、配管を掴んでいた手を離す。必然オオカミたちは落ちる。

ただし、今は重力に逆らって上向きに。

曇天、灰色の雲の海に向かって真っ逆さまに落ちていく。

服のはためきも、肌をさらう風の感触も本物だ。落ちている。確実に。空に向かって。

オオカミもコチョウランも、恐怖と混乱のあまり声を上げることすらできずにいる。このまま落ち続けたらどうなる?宇宙空間まで到達するにしろ、途中でまた地面に落ち直すにしろ、間違いない死が待っている。助かったのだと、喜べるはずもない。

「……とか考えてるんでしょー、バカおにーちゃん。大丈夫だよ、ちゃんと助けに来たから」

小生意気な声で小学生、スカイクラッドが言った。「高さ十分かな」などと言いながら、平然とスマートフォンを取り出して何やらやりとりしているがすぐに終わって、やおらオオカミたちに向かって言う。

「今から下に落ちるようになるから、ゼッタイ落ちないでね」

それを聞いてオオカミたちが衝撃に備える姿勢を取ると、スカイクラッドは満足げに頷く。そしてその小さくて細い指を、一回「ぱちょん」と鳴らした。

スカイクラッドたちをとりまく世界の法則が、その一音のもと、切り替わった。

急激に重力が下方向へ働き、オオカミたちは歯を食いしばって堪えた。スカイクラッドはオオカミたちの様子を顧みることなく、次の行動に移っている。即ち、下に向かって落ち始めた自分たちの身を守るための行動。背負っていたリュックサックから飛び出していた、防犯ブザーのようにも見えるそれを、思いきり引く。

途端、リュックサックが弾け飛び、パラシュートが開く。それに支えられて、スカイクラッドたちは緩やかに地上へと降りていく。

「バカおにーちゃんたち、耐えてくれてよかった」

スカイクラッドがこの時初めて、安堵のため息を吐いた。

「ソラの引力と、バカおにーちゃんたちの引力とで釣り合いとるつもりでいたから。二人とも落ちちゃってたら私もお空の果てにサヨナラだったんだ。良く耐えたねー」

「……あたし、吐くかと思ったわ」

「おねーちゃんは正直者だねぇ。それで、おにーちゃんはどう? 吐きそうで言葉も出ない?」

スカイクラッドは珠の転がるような声で笑いながら、オオカミに水を向ける。

「……いや、別に吐きそうなわけじゃない。分からないことだらけで、混乱しているだけだ」

「しょーがないなー。教えてあげましょう。ソラに分かることだけ」

「ソラ?」

「クソみたいなお母様からもらったお名前じゃないよ。ソラの、ソラだけの名前」

「……わかった」

オオカミは目を閉じる。

スカイクラッドと名乗る、空に向かって落ちる女の子。

腕を吹き飛ばされても平然としている、同世代の少女。

烈風を纏った殺戮者、アンチマテリアル。

そして、……コチョウランと名乗った、ユナ。

「お前たち、マジモンのルナチャイルドなのか」

それは質問というよりも、諦念を振り払うための確認だった。スカイクラッドはやるせないオオカミの呟きを受け取って、再びコロコロと笑った。

「大正解、バカおにーちゃん。ただの人間が空に落ちる? 生身一つで爆発したりすると思う?ソラたちみんな、ルナチャイルド」

「じゃあ二つ目だ。もう片っぽの子……スティグマっていったか。あの子は置いてきてよかったのか」

「片手に美少女、片手にエロおねーちゃん持っててまだ足りない?」

「茶化すな。真面目に聞いているんだ。大丈夫なのか」

「つまんないの。スティグマおねーちゃんは大丈夫だよ。相手がたとえ何だったとしても、ゼッタイ大丈夫」

スカイクラッドはそう答えた。しかしそれは、なんとも言いがたいニュアンスを持っていた。全幅の信頼を寄せている、という安心感ではない。どこか嫌悪……気味の悪さを抱いているように、オオカミには聞こえた。

「……大丈夫ならいい。女の子ひとり犠牲にして逃げ延びたとなったら、後味が悪すぎる」

「……バカおにーちゃんはバカおにーちゃんで決定だねぇ」

「さっきからなんだ、人のことをずっとバカ呼ばわりして」

「だってぇ、バカなんだからしょうが無いでしょ。ねえ、エロおねーちゃん」

「やめてな、水を向けるの。恥ずかしくて顔から火がでそうやわ」

顔を押さえることが出来ないのが、もどかしくてしょうが無いといった風。

「そうだ、ソラ。ユナのことをエロ呼ばわりするのもよせ。こんなに恥ずかしがってんだから」

「バカ」

「アホ」

「え……ソラはともかくなんでユナに怒られなきゃいけないんだ。あの喧嘩の種のこと、引きずってたんじゃないのか」

「アホ。言うに事欠いていまその話するか、アホ!」

地上が次第に近づいてくる。その安心感からか、ユナは大胆にもオオカミの向こうずねを蹴飛ばそうと、体を捩ったりひねったりしてどうにか足を届かせようとする。パラシュートが揺れる、揺れる。堪ったものではないのは、スカイクラッドとオオカミだった。

「おねーちゃんバカ! まだ地上まで十メートルくらいあるんだよ!落ちたら死ぬよ!」

「止めろ、ユナ。悪かったから、下りたら話聞くから今は止めてくれ」

制止は、僅かに間に合わなかった。

揺れによって姿勢の制御を失ったパラシュートは真っ逆さまに墜落し始める。

「だから言ったのにー!」

「ソラ、お前だけでも助かれないのか?」

「バカにーちゃん!何でソラが下に落ちてると思う? おにーちゃんたちに働いてる引力の方がソラのより強いからいやああ落ちる落ちるあああああああ!」

地面はもうすぐそこ。絶望に目を閉じかけたオオカミたちはその時、見る。圧倒的な速さでこちらに駆けてくる短距離走者ばりの疾駆を。

彼女は落下地点に追いついて見せた。その疾走を見た後では信じられないことだが、その人物はカバンを抱えていた。スプリンターはカバンを広げ、ヘッドスライディング。

奇行であった。オオカミとユナにとっては。

「……『ポーカーフェイス』!」

しかしスカイクラッドにとっては、それはどうやら福音であるらしかった。残り僅かな距離をパラシュートの微妙な傾きで姿勢制御。カバンの上に落ちるように調整しているようだった。

オオカミには、その行為に命を守るうえで何の意味も見いだせなかった。だからオオカミはユナを強く抱き寄せていた。せめて自分の方が先に落ちるように。

幼なじみが、死んでしまわないように。自分は死ぬと確信したが。落下の衝撃と共に新宿の果てで地面の染みと成り果てるのだと……思っていたが。

一向にその時は訪れない。地面からカバンへの距離よりも、落ちている時間が明らかに長い。オオカミは薄目を開ける。そして驚愕に目を見開く。

眼前には、豪奢な洋館があった。オオカミの貧しい知識ではそれ以上のことは分からなかったが、そんなことはどうでもよかった。こんな建物はさっきまでなかった。衝撃であった。

しかしそんなこともどうでも良いのだった。

「落ち」

言い切る間もなく、オオカミたちは青々と茂った芝生へと叩き付けられた。


「大丈夫よ、ハイツ・ムーンライトはみんなに優しいもの」


気を失う直前、オオカミはそんな優しい声を聞いた気がした。

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