もう一つのスペシャリテ
目が覚めると水色の天井が目についた。土と草と甘い香りがしたので、横を向くと花瓶に花が飾られていた。黄色い菜の花と赤いチューリップだ。
私はそれを目に焼き付けてぎゅっと目を閉じて、鼻から深呼吸する。
夢みたいだ。もう一生蘇らないと思っていた。
頭は少しズキズキするけど、すぐにあの人に会いたかった。
「あ……」
白と黒と茶色をした猫の振り子時計は、三時五分を指していた。窓の外は真っ暗で何も見えない。一二時間前くらいにお酒で倒れたきり、目が覚めなかったのか。
「どうしよう……」
起こしにいったら絶対に嫌われる。 そんなの絶対にできない……。あの人にだけは嫌われたくないよ……。
『ねぇ、僕のために絵を描いてくれるかな。僕は君のためにスイーツを作るからさ』
約束!!
不意に思い出して全身が震えた。
いましかなかった。もし婦警さんが起きたら監視を続けるだろう。
でも……怖い。
あの人を失いたくない。それも私の絵のせいで、狂うなんて絶対にいや。
『いいよ死んでも。君の好きなことのためなら、僕は命を差し出すよ』
また、あの人の声だ。これも、スイーツの魔法なの?
信じていいの?
『大丈夫。君は天才だから』
怖い。すごく怖い。
でも、信じられる気がした。あの人が、私のために最高のスイーツを作ってくれたもの。私も最高の
部屋を出て二階の奥の納屋に入った。ここには父さんが使っていたカンバスや油絵のセットが置いてある。私が絵を描かないと言ったから、婦警さんも信じてそのままにしてくれた。設備上、ここには監視カメラがないのも知っている。
ごめんなさい! 婦警さんに心の中で謝ると、その場でカンバスを掲げて筆を準備する。
いまの私には、色も、匂いも、味もわかる。
絵具を一匙指ですくって舐める。苦くてべたべたした味がして、すぐに唾を出して吐き出した。全然美味しくない!! でも、わかる。絵の具の味!!!
みんなが起きるまで時間がなかった。
ぜったいに描き上げるんだ!!
パレットにつけた群青色を筆先で力強くすくった。
「何やってるの!」
水瀬さんの怒鳴り声が建物中にこだました。
朝方、水瀬さんが「色香ちゃんがベッドにいない!」と騒いで起こされて、間もなくのことだ。僕といえば洗面して歯を磨いている最中だった。
口の中をゆすいで、二階の廊下にいる水瀬さんのところへのんびり向かう。すると、もう元気になったのか、乱れた髪の色香ちゃんが涙目になって口喧嘩をしていた。
いつになっても泣き虫だなぁ。
「おはよう。お腹すいてない?」
「それどころじゃない!! この子、あなたに絵を見せたいって聞かないの!」
僕と色香ちゃんの目が合う。
「私……約束を果たしたくて……だから!!」
「ほんとに!? すごい嬉しい!! どこにあるの?」
「ダメに決まってるでしょ! 色香、あなた昨日まで死んでいたみたいなのに! 君もせっかく助けてあげたのに、なんでそんな無謀なことするの!」
水瀬さんはヒステリックに叫んだ。無理もない、三年もあの子を見てくれていたんだ。普通だったら、もう少し様子を見たほうがいい。
――けど、五感を取り戻してから一晩で描いた。
彼女はやっぱり天才だ。もう絶対に、普通じゃない。
そして、生憎僕も普通じゃない。元気な色香ちゃんをもっと見てみたいけど、それ以上に彼女を信じたい。これはもう僕たちしか感じられない運命の糸がある。
「奇跡を起こしくれたのだ。彼を信じてみようじゃないか」
騒ぎに駆け付けたお祖父さんも来てくれた。これで三対一。
水瀬さんはやさぐれたようにそっぽむいた。
「――絵は、万が一のために布を敷いて監視室に置いてあるわ。でも、部屋に入るのは一人よ。凶暴化してもいいように、外側から鍵をして閉じ込める。絵を見て三〇分、何も変化がなければ鏡の外の私たちに合図して」
深呼吸して彼女を監禁させていた部屋の中に入る。
部屋の中央には布をかぶせたカンバスが、鏡に背を向けて置いてあった。鏡の外からは見えない配置になっている。
外側から鍵を閉められる。心臓の鼓動が早くなるのを感じながら布に手をかける。
僕は、いま、幸せだ。
ずっとずっと叶わなかった。救えなかったあの日。
あの日の悲しみをずっと噛みしめていたから、もっと大事な人を助けられた。
ありがとう。
勢いよく布を取った。
背景が真っ白の中に浮かんだ、群青色の三角帽子。その下ではコック服を着た少年が、真っ赤なイチゴだらけのショートケーキを手に乗せて笑っている。
明日なんて来なくていい――そう思えたのは初めてだ。
だって、いまこの瞬間が、最高なんだから!
カンバスの下の表題。伝わってくる君の想い。
『私の大好きな魔法使い』
あなたが魔法をかけてくれたから、嬉しくて、泣きそうだ。
モノクロの君に味のないスイーツを 君影 奏 @kuroyurisan
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