追憶

 冷たく、滑らかなくちどけの後に喉を通した。

 冷えていたはずなのに、私の喉は少し熱を持っていた。

 甘みも苦みも、辛みもなかった。ただ、ほんのかすかに、鼻につく臭いがした。

 胃の中に入った後、すぐに身体中が熱くなった。

 効き目の高い薬を飲まされたみたい。

 如月さんが? まさか?

 すぐに胃と頭の中がぐるぐるして、白黒の視界がぐらぐら揺れた。だけど、モノトーンのデザートだけはやけに目についた。

 おそらく、わざとだ。私に色彩感覚がなくても、それがティラミスだとわかって作ってきたんだ。


 婦警さんがもう一口、と促す。仕方なく食べる。今度はきちんと匂いがわかった。アルコールだ。私のお父さんはお酒が一滴も飲めないと思ったけど、私もなんだ……。

 顔の知らないお父さんとの繋がりに戸惑った。同じ血が流れているの? その認識は私の血液は加速させ、酔いという、未知なるものに襲われた。

 これまで我慢していた何かが決壊した。

 気づけば先に泣いていた。最近は泣いてばかりだ。

 悲しさと、ほんの少しの楽しさと。でも、いまは、苦しい……。

 なんで私は、味がしないの?

 なんで私は、色を失ったの?

 なんで私は、こんなふうに生きなきゃいけないの?

 いやだ、ほんとはこんなの、いやだ! もっと普通に生きたかった! 愛されたかった!! 絵なんて上手くなくていい!! お父さんとお母さんがいて、お母さんが作ってくれた料理を食べたい。学校にもいけなくて、友達もいないなんて、もういやなの!!

 泣いていると、婦警さんが泣きながら催促する。

 うんうん、と首を振る。でも、婦警さんは私にスプーンを持たせる。

 ――わかっているんだ。このスイーツが特別スペシャリテであることを。


 また一口食べる。

 おぼろげな視界の中、私を殴ったあの女性が蘇る。

「このアバズレの娘が!」「あんたなんて、金づるにしかなんないんだよ!」「あんたのせいであの人が死んだ! あんたのせいで!!」

 発狂しながら私の手足をぶってくる。

 嫌だ、嫌だ、怖い記憶だ。もう思い出したくなんてないのに!!

 飲み込むと、また催促される。

「いや!」

 声に出したけど、婦警さんは泣きながら皿を前にだした。

「いやなの、思い出したくないの!!」

「食べなさい」

 仕方なく、またスプーンを握る。

 心は嫌でも、私の本心のどこかで、食べたほうがいいと訴えているんだ。

 とても苦くて、辛いスイーツなのに。

 口の中に入れる。アルコールの酸味とともに、コーヒーの苦みが舌と鼻に残った。


 味と共に流れてきたのは、孤児院にいたときの記憶――。

 見知らぬ外国人は私を見るたび喜び、周りからは気味悪がられる。

 独り閉じこもって無心に描きなぐった絵は、黒と青と赤が混ざったぐちゃぐちゃな絵。私の殴ったあの女が脳裏から離れず、それを抽象化した絵。

 きらいきらいきらいきらい!!!

 この世界なんてなくなればいい!! みんな死んでしまえ!!!!

 その不気味な絵はなぜか、訪れた外国の人たちから絶賛された。

 褒められるのが、少しだけ、嬉しかった。こんな絵でも認められるのか。

 私の想いに応えてくれたのか、養護施設の先生が写真を撮ってくれて、それをインターネットに載せてくれた。嬉しかった。また、褒められると思った。

 でも、数日して、変化があった。

 優しかった先生たちが暴力を振るい始めた。私だけでなく、年上の人も。年下の子も。

 すぐに分かった。

 私のせいだ私のせいだ私のせいだ私のせいだ……。

 押し入れに閉じこもりながら、誰かに救いを求めた。

 たすけてたすけてたすけてたすけて――少しずつパトカーのサイレンが近づいてくる。


 ――私はそこで意識が途絶えた。

 警察に保護された私は、大きなパイプ椅子に座り、淡々と話を聞いた。内容はよくわからなかったけど、あの絵のせいでみんなおかしくなったといわれた。

 私は頷いた。だって、その通りだから。

 ――それから、お父さんのお父さんらしき人が来て、私を引き取り、この場所へ連れてこられた。警察の人も同行して、いろんな機械を置いて私をここから出ないようにした。


 モノクロの視界の中、ティラミスが最後の一口になった。

 もう、思い返す記憶はなかった。この場所は、私の背と髪と爪を長くするだけで、蓄積する過去なんてない。

 アルコールで頭も顔も指先も熱くなっている。揺れる視界のなか、最後の一口をすくう。これを食べたら、私は、死ぬかもしれない。


 舌にのせる。

 その瞬間、視界が真っ白になった。さきほどまであったコーヒーとお酒の苦みの中から、甘いものが広がった。

「!!!!」

 驚きとともに、瞼をぱちくり動かした。白くなった視界が戻ると、茶色や金色や水瀬さんの肌の色や、私の赤くなった頬が見えた。

「おいしい!」

 口の中で広がる甘みと苦みのハーモニーに胸が高鳴った。

 なんておいしいものを食べているんだろう、私は。世界で一番おいしかった。

 紛れもなく、魔法。

 私に、色と匂いと味を救ってくれた魔法。

 鏡の奥にいる、その魔法使いさんは、泣きじゃくった私を見てどう思っているんだろう。

 ありがとう。

 ありがとう――声が出る前に、私の頭はくらくらして、視界が真っ白にぼやけた。

 なんで、まだ、お礼、言ってないのに……。

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