会話

 その日は、水瀬さんが夕飯を作り、色香ちゃん、僕、水瀬さんとおじいさんの四人でオフィスに集まった。色香ちゃんは小皿によそったカレーをとても不味そうにゆっくりと食べた。これは稀なことで、普段は個別に食事をとっているという。

 カレーの味は申し分なかった。牛肉のジューシーな香りと、玉ねぎの甘味が加わっていて、ピリッとしたスパイスも効いている。ただ、色香ちゃんの沈んだ顔を見ると、おいしいというのも憚った。空気が重くなるから一緒に食べないんだな、とひとり頷きながらカレーをおかわりした。婦警さんとおじいさんが僕を一瞥し、黙って驚いたけど。


 食事が終わって一息ついた後、婦警さんに色香ちゃんと二人で話したいと伝えた。

「会話になるかわからないけど」そう忠告されたが、気にしなかった。

 彼女のいる、マジックミラーがついた部屋に向かう。

 ノックしたが、返事がないので一声かけてドアを開けた。

 中古のオフィス用デスクに、彼女は何もせずぼーっと座っていた。ほんとに、本も開かず、勉強道具もださず、ぼーっとだ。

 ふと、懐かしくなった。僕も、そういう時があったな……。


「心の傷は、いつか治ると思う?」

 何気なく浮かんだことを色香ちゃんに訊いてみる。返事はない。

「僕は、もう、全然ダメなんだ。一〇歳の時に止まったまま。もし、あの日をやり直せたら僕は幸福だったんじゃないかって思うんだ。君はどう思う?」

 ダメ元でまた訊いてみる。

 僕はなんでこんなことをしているんだろう。

 いまさら答えを求めても意味がないのにな……。


「どうしてここに来たの?」

 小さな声が聞こえた。悲しみで沈んだ低い声だ。

 でも、その声は容姿と同じくらい綺麗だった。

「私に関われば不幸になる。ここに来たら一生、外に出れないかもしれない」

 案じてくれるのが嬉しかった。やっぱり彼女は優しい子だな。

「僕が幸せな人間だとおもうのは勘違いだよ」

 反応がない。だからこそ続ける。

「僕の家庭は変わっていてね。母親は子育てなんてできないほど鬱だった。僕の面倒みてくれたのは親戚の人で、母さんは死んだように毎日ぼーっと遠くを見ていた。そんな日々が五年くらい続いた」

 参ったなぁ。当時のことを思い出すと泣けてくるんだ。

 あぁ、僕はやっぱり過去を克服できないな……。


「変わったのは僕が一〇歳の時だ。成長期で、自我が出て、自惚れていたのかもしれない。僕は母さんを元気にしたくて、母さんの誕生日に手作りのケーキをプレゼントしようとした。でも、家には全然お金がなくてね、とにかく近くのお菓子屋さんにお願いした。それから二週間くらい努力してケーキが作れるようになった」

 話しているうちに、彼女の瞳に色が戻った。困惑と同情が混ざった、憂いた瞳だ。

 それがかえって僕の胸にきた。


「そして、待ちに待った誕生日に最高のケーキが出来上がって、母さんがいる家に戻った。そしたら、母さんは部屋で首を吊って死んでいた。その瞬間、大事に抱えたそのケーキがスッと落としたことを、いまも覚えている……」

 安心させるように苦笑する。だけど、瞼の横から熱いものがあふれる。

 やっぱだめだな。人を慰めるのが上手くない。

「ごめんなさい」

「気にしないで。こんなこというと、怒るかもしれないけど、君のほうが辛いのはよくわかるよ。僕なんてまだ幸せなほうだ」

「でも……」

 泣かせるつもりじゃなかった。そんなことが顔に書いてある。

「気にしないでいいよ。僕は、君の痛みが少しだけわかる人を、少しだけ伝えたかった。それで君を救えるわけじゃない。でも、僕の虚しい人生を捧げる価値はあったと信じたい」

 彼女は力強く首を振った。

「あなたは優しい人。だって、私のために、スイーツで楽しませてくれたもの。あなたの作るスイーツはきっとおいしい。味がわからなくて……本当にごめんなさい……」

 ぽろぽろと泣き出す色香ちゃんを見て、胸が苦しくなった。


「謝る必要はどこにもない! 僕は、心のどこかであの日をやり直したいのだと思う。でも、それは現実的に不可能で、その穴を君に埋めようとしている。最低な人間だよ」

「そんなことない! それがあなたのためなら私を使って構わないの……。初めて、誰かのために、なるのかもしれないから。でも、私には――」

 味覚がない。言い出せない自分がもどかしいんだろう。唇を強く噛んでいる。

 皮肉な巡りあわせだ。味がわからないから僕らは出会ったのに、そのせいで僕の願いを叶えることもできない。


「僕は、君が幸せなら、それでいいんだけどな……」

「私、あなたの希望にならない。私が生まれたことで父親も母親も死んで、養母は狂って捕まった。ほかの人も……。私は生きてはいけない人間なの。だから、幸せになんてなったら、これまで傷ついた全員が私を恨む……」

 恨んでほしかった。生まれた家を、与えられた才能を。

 そうすれば彼女は救われるのかもしれないのに。

 親がどのような人間で、どんな才能があろうが、何も関係ないはずだ。

「僕の先生はいっていた。生き方を決めるのはいつも自分だって。生憎僕は、いつ死んでもいいって思ってるけど。君が「幸せになってはいけない」って自分を縛る必要はどこにもないんだよ。だから、やりたいことをやったほうがいい」

 色香ちゃんは俯いた。

「それをしたら、私はみんなを傷つける」


「もしかして絵のこと? だとしたらすごいことだよ! 僕はスイーツで人を狂暴にはできない。誰かの心を動かすってとんでもないことなんだ。めちゃくちゃ羨ましいよ!」

 色香ちゃんは一瞬、ぽかんとした。

「あなたは狂わせたい人がいるの?」

「いや、そうじゃないけど……。天才性っていうのかな? 僕にそんな力はない。色香ちゃんが描いた全力の絵、見てみたいな」

 興奮して声量が大きくなった。うわ、ちょっと引いた顔してる。

「……死んでもいいの?」

「全然かまわない。僕は生きることに薄いからさ。いまやりたいことは、君のためにスイーツを作っておいしいって思われたいだけ」

「でもあなたが絵を見たら、スイーツが作れない。私はおいしいって言えない」

「そうだね。どうしようか……」

 自分が矛盾していることをいって、ついつい笑ってしまう。

 彼女もそうなのか、僕に言ったあと、急にもじもじした。可愛いなぁ。


「ねぇ、僕のために絵を描いてくれるかな。僕は君のためにスイーツを作るからさ」

「見たら死ぬかもしれないのに?」

「いいよ死んでも。君が好きなことをするためなら、僕は命を差し出すよ」

 不意に、色香ちゃんは止まって目を隠して震えた。

 あれ、僕、さらっとすごいこと言った?

「それは……卑怯……。そうなったら、私、今度こそ自殺する……」

 えーっと、どういう意味だろう。

 彼女からしたら、自分を救ってくれる人を殺すことになるのか。それは最低だな!

 僕が、あっ! 気づくと、彼女は顔を背けて吹き出した。顔を戻すと、目を押さえている。

「じゃあ、死なないように努力するから、君も僕が死なないように努力して」

「無茶いわないで……」

 肩と声が震えている。

「大丈夫。君は天才なんだから。僕よりもいいものを作れるよ」

 全然説得力がないが、まぁいいか。

 そこへドアが勢いよく開いて、目が血走った水瀬さんが駆けてきた。

 あーそっか、監視されているんだもの。会話も聞かれてるよね……。

 首根っこを掴まれ、色香ちゃんに手を振りながら追い出される。

 話は途中だったけど、伝わったかな……。


 ドア越しから婦警さんの強烈な怒鳴り声が聞こえてきた。

 あまりの剣幕に、壁越しでもびくっとするくらい。

 ――想像以上に変な人。

 死んでもいいといっているのに、泣いたり笑ったりして……。

 いまめちゃくちゃ叱られて。

 想像したら笑いが込み上げた。

 初めて……。こんなにおかしいと思ったのは……。

 泣きながら、私、笑ってる……。

 どうしよう。無邪気に笑うあの人が頭から離れないよ……。

 好きなのかな。

 だとしたら――いやだ。死なせたくない。

 絵が見たいといわれて、すごく、とてもすごく嬉しかった。あんな最低の絵でも、期待してくれるなんて。私もあの人のためにしたい。でも、絵だけは無理だ。

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