破
拉致
真っ暗な視界の中、エンジン音と対向車の車が通りすぎる音が聞こえた。
腰からの振動がなくなると、小さなピヨピヨという機械音が鳴っている。信号機の音かな。
誘拐犯の人質になった気分だった。少し面白い。
僕はいま、目隠しをされた状態で他人の車に乗って連れていかれている。
きっかけは、引き受けた仕事の報告メールだった。
最後に出した、チョコレートのスイーツ。茶黒く長い、麩菓子のような見た目のクッキーに、熱したチョコ入りマシュマロだ。
感想の欄には【 】案の定の空白。
いつもどおりの写真だろうと期待もせずファイルを開くと、
――少し戸惑った。
普段なら一かけらしか減っていないスイーツが、皿から消えていた。
白紙の感想からすると、味はおいしくないのだろう。でも、完食してくれたことに、パティシエとして少し誇らしく思えた。
もう一件。感想とは別にメールが送られてきた。
『もし依頼成功のため、試食者に会いたい場合は連絡をください。ただし、重大な機密に関わるため、会う際は、相応の覚悟が必要です』
正直、向こうから会いたいという旨が来るとは意外だった。
『かまいません。連絡を待っています』
すぐに返信したが、疑心暗鬼になった。
本当に僕は依頼を成功させたいのか? そもそも、大金を得たところで、贅沢な暮らしも、女の子にモテたいわけでもない。そんなありふれた幸福はとうに捨てた。
救いを求めているのだろうか。
作ったものを、誰かに食べてほしい、と。
その願望が、普通の相手では意味がない。味がしないからこそ、僕のスイーツを認めてもらいたいのだろうか。
……やっぱり辞めよう、くだらなさすぎる。
返信を考えているうちに、向こうから連絡が来た。
『予定を合わせるので、都合のよい以下の日時に、携帯番号を記載して返信を下さい』
タイミングを逃してしまった……。
いまさらキャンセルするのも面倒だったので、メールの内容に従った。その後、東京から新潟駅まで新幹線で向かい、そこで拉致された。
「気分が悪くなるようでしたら早めに言ってください。こういう状況は不慣れでしょうから」
そういって優しく声をかけるのは水瀬さん。おそらく偽名だろう。
一見すると、OL然としたスーツスタイルで、年齢はアラサーくらい。未成年の僕からしたらお姉さんという言葉が似合う。輪郭は丸いが、目が大きく可愛らしい顔立ち。
この水瀬さんが僕のメール相手で、日本政府――警察庁の人間だという。
車に乗せられたとき、試食者にどうしても会うかと念を押されたが、東京から新潟にわざわざ来たこともあって、面倒だから頷いた。そしたら、目隠しを渡されて、スマホを取り上げられて今に至る。
「一つ質問していいですか?」
「内容によります」
水瀬さんの反応は少し冷たい。親しくなって余計な話をするのが嫌なのだろう。職務に忠実なのかもしれない。
「僕がお菓子を提供している人、味覚がないんですよね?」
車の走る音とエンジン音が少し続いた。黙秘権を使われたかもしれない。
「正確には、味覚と嗅覚と色彩。精神的なものが原因よ……」
水瀬さんは何かを諦めたようにため息をついた。
「どうして貴方はわかったの? パティシエの天才だから?」
「仕事内容から推測したつもりですけど……」
「だとしたら、もっとわからない。相手が味覚障害なら諦めたくなるでしょ。何を作ってもおいしいと感じないし、食べかけの写真を何度も見たらやる気も削ぐわ。プロの料理人ならなおさらよ」
そうですよね、と相槌を打つ。
「しかも、一生警察の監視に置かれるかもしれない。なのにどうして付き合うの?」
返答に窮した。
正直、何も考えてない。視界には、ぐるぐる、もやもや、漆黒の煙が動き続けている。
「えーっと……。たまたま上手くいって、次やることができたから、それをしているだけです。実際、コンクールに参加した流れもそうでした。
僕、全般的に動機が薄いんですよ。無欲っていうか、虚無に近いっていうか……」
「だから理解できたの? 味覚がないことを」
「どうだろう……なんか、同じ匂いがしたのかもしれません。わざわざ空欄を送ってくるあたり、精神的ものなのかなって。勝手にそう思い込んでいるだけですが……」
自分はなんだか変態のように思えてしまった。
「……母親のことを引きずっているのかしら」
不意にいわれて少し驚いた。
「調べたんですか?」
「気を悪くしないでね。最初はあなたの先生を雇う予定だった。最低限の内容を説明したら、どういうわけか貴方を推したわ。貴方に、挫折か、その逆の経験をさせたかったのかもしれない」
いや、まぁ、聞きたいのはそこではないのだけど……。
「過去を調べたのは契約した後。でも、あなたのバックボーンを知ったとき、少しばかり期待したわ。もしかしたら、あの子を救えるんじゃないかって」
すらすらと語っていく水瀬さんに、どう反応したらいいか悩んだ。
どうやらこの人は、必要以上に主観を含めながら話すらしい。わりと無口な僕からしたら少し羨ましい。
「勝手に君の過去を持ち出してごめんなさい。感情的よね、私。警官失格ってよくいわれるわ」
「いえ、過ぎたことですし、過去に戻ることはできませんし」
正直、あの日あのとき貫かれた喪失感は、いまなお僕の記憶に沈殿している。
水瀬さんは、僕の過去を詮索したせいか、気まずそうに黙り込んだ。
話題を転換するように尋ねてみる。
「お菓子を食べさせているのは誰なんです?」
「…………」
あ、選択ミス。職務上、話すのをためらったのかもしれない。
「
「どうして警察の監視下に置かれているんです?」
「君、私の話を聞いてた?」
呆れ声が返ってきた。黙れという意味も含まれるんだろうが、気にしない。
「その人が家庭の不和で味覚や嗅覚を失っているなら、それはただ『精神的』なだけです。警察が関与する必要はありません」
「だからあなたには、その子に五感だけを蘇らせて、この件を忘れてほしいの」
「優しいんですね……」
そういうと、水瀬さんが咳をした。
「でも、その子を救いたいなら、なおさら僕に教えたほうがいいです」
お姉さんは聞こえるくらい大きなため息をついた。少しの間、話すか決めかねている。でも、この人は話す。絶対に。だって、根が、優しいんだもの。
「彼女は、天才画家の才能を強く受け継いだわ」
「いいことじゃないですか」
「普通はね。でも、悪用されたの」
車のカチカチという方向指示器の音がした後、体がゆっくりと遠心力で左に傾いた。
「色香は父親の妻に引き取られ、娘になった。義母は娘の絵の才能を見抜いて、金を稼ぎたかった。何しろ模写が完璧で、専門家でも本物だと信じるほどだった。
色香は義母の虐待を受けながら、生きるために贋作を作り続けた。彼女の絵は、有名な画家の作品としてネットオークション出品され、高額な値段で買い取られた。最終的に母親は捕まったけど。総額は一〇億を超え、知的犯罪者たちの間で瞬く間に広がった。その犯罪者たちは、彼女に贋作や偽ドルを作らせたくて狙っているの。
実際、孤児院に引き取られた彼女は、海外から里親が殺到した。純粋に絵の才能を大切にしようとした人もいただろうけどね」
ひどい世の中……。
僕が呆れてため息をつくと、「まだあるわ」と水瀬さんが鋭い口調で続いた。
「孤児院で自由を得た彼女は、一人絵を描いていた。
精神的に病んでいるせいか、健やかな絵ではなく、死を連想するような怖い絵だった。でも、天才ゆえに妙に惹きつけるものがあったわ」
「実際に見たことあるんです?」
「えぇ、一部は警察に保管されている」
どんな絵か興味をもった。これはパティシエをやっている影響かな? 先生とか、すごく美しい飴細工を作るんだ。
「贋作じゃなければ問題ないと思いますが……」
「ところが別の問題が発生した。そして、そっちのほうが重大だった」
水瀬さんが一呼吸置くと、
「…………貴方、映画の『キングスマン』とか『虐殺器官』とか見たことある?」
「いえ。フィクションは疎くて……。何か関係あります?」
「それらの作品のモチーフには【人の脳には無意識に暴力的になる器官がある】というのを扱っている。どういう原理でそうなるかは医学的に証明されてない。
ただ、彼女の描いた作品には【無意識に人を傷つける】作用が持ち合わせていた」
一瞬、戸惑った。
「ほんとですか? 絵を見ただけで暴力的になるって?」
「私だって信じたくない。ただ、事実としてあるの。これまで温和だった人たちが、いきなり家族の人を殺めたり、DVが急増した。加害者たちを尋問した結果、彼らは絵画系の投稿サイトで彼女の絵を見たの。施設の人間がよかれと思って彼女の絵を投稿したわけ。
その事実は、都市伝説やアングラサイトで急速に広がった。彼女の絵はISILの処刑動画をまとめたサイトと一緒に並んでいるわ。一応、絵は安全を考慮して加工しているけど」
なんというか、与太話を聞かされた気分だ。
「ただの噂話じゃないんですか?」
「そのほうが幸せだけど、残念ながら事実よ。その絵を没収して調べていた警官も署内で暴れまわったわ。発砲まであった」
「本人はそのことを?」
「知っている。だから大人しく警察の保護を受けている。彼女も故意でそうした絵を描いたわけではないし、警察も科学的根拠がつかめないから逮捕もない。だから、重要参考人として、保護という形式をとっているわ」
想像より酷い内容で閉口してしまう。
「これは超機密事項。下手に誘拐でもされたら、偽造屋かテロリストになる。だから国家ぐるみで隠しているの。
……これでもう全部喋った。後は何も聞かなかったことにするか、全部ゲロってあなたも監視下に置くしかない」
「僕のことはどうでもいいです」ほんとに、どうでもいい。「その子はいまどうなってるんです?」
「何もしてない。ただぼんやりしているだけ……」
女性の鼻をすする声が聞こえた。
「自分は呪われている、生きているだけでみんなを不幸にする。だから、何もしないほうが幸せだって……。そんな幸せ、あるわけないじゃない!」
おそらく、この目隠しをとれば、水瀬さんの泣き顔を見ることになるんだろう。
……あぁ、だから、呼ばれたんだ。
虚無に生きる僕が、何もしないことが幸せだと信じる少女を引き寄せたんだ。
「あの子がお菓子を完食してくれたとき、あなたなら助けられると思った。これまで食事もお菓子もまともに食べなかった子が、初めて食べることに向き合った。あの子のいわれない罪が消えるとは思わない。せめて、人並みの幸福を与えてほしいの」
――――――ようやく依頼の合点がいった。
極秘の情報も。
破格の報酬も。
空白の感想も。
けど――それは――
「僕は、
いまだに生きる意味を失っている僕に、他人を幸せにできるはずがない。
「世界は甘くないことはわかってる。でも、信じさせてほしい。あなたがあの子の生きる糧になるって」
「身勝手な話ですね……」
「そうよ、大人はみんな勝手よ。だからこそ、もがいて苦しんで、いまここにいるの。年を重ねればあなたも少しはわかるわ」
「大人かぁ、なんか空虚だな……」
ため息交じりにいうと、水瀬さんがハンドルをダンダン叩く音がした。
「あー、君はほんとしみったれてるわね。酒飲みなさいよ、もう!」
「警察官が未成年にお酒を薦めていいんですか……?」
「ダメに決まってるでしょ」
まったく……無茶苦茶な人だな。
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