きっかけ

 それは三月の、都内にある専門学校を卒業する間際のことだった。

僕こと如月きさらぎ治希なおきは、学生の身分ながら、先生の推薦で数年に一度行われる洋菓子コンクールに出場させてもらい、幸運にも最優秀賞を手にした。正直、気が引けたが、無償で学ばせてくれた学校の恩も相まって、その栄誉をいただいた。

 在学中に賞を取ったことは、調理学校はもちろん、日本のパティシエ界でも快挙らしい。

 当の僕は、画面の奥にいるテレビ番組のタレントを見ているようで、まったくの上の空、心の底から他人事だった。


 卒業式が一週間に迫った夕暮れ時。

 答辞の練習を終えて、学校の門をくぐると、真横に三〇代くらいの二人組の男性がいた。どちらもしわのあるスーツを着ていて、どこか見慣れた顔だ。片方はありふれた眼鏡をつけ、もう片方は、目元が少しだけぱっちりしていた。

 正直、顔はあまり覚えていなかった。

 それだけ僕が他人に関心がなかったし、それだけ彼らが見忘れるような顔だったのかもしれない。

 彼らは僕を二度見するなり言いだした。


「コンクールで優勝したあなたに、日本政府から仕事を依頼したい」

 わけがわからなかった。混乱する僕を無視するように、彼らは、

「君の就職先のことは気にしなくていい。こちらの仕事が終わった時点で、入社するよう取り計らう手筈になる」

 まるで僕を知り尽くしているようだった。

 不安はあったが、のっぴきならない事情がありそうなので話を聞く。

「近くに喫茶店があります。そこで説明してください」

「ここでどうでしょう。すぐ済みますが……」

 二人は遠慮がちだったが、僕は通行人の目が気になった。ただでさえ、僕は学校でも有名で、実際にテレビの取材を受けたこともある。無理を言って案内した。


 その店は、道路沿いにある雑居ビル一階の、小さな喫茶店だった。木製のシックな雰囲気に、小説を中心に置かれた本棚が四方を囲っている。

 僕は三人分のコーヒーを注文すると、仕事の話を聞いた。

「君の作ったスイーツをある人に食べてもらいたい。量は一人分。種類は自由。期間はとりあえず一か月で、希望なら延長も可能だ。費用はこちらで持つ。報酬はひと月ごとに五〇万円用意する」

 その金額に眩暈がした。八万の1Kに住んでいる僕からすれば、恐ろしい金額だ。

 食べてもらう人は芸能人か政治家だろうか。


「何かやばい仕事ですか? 政府の要人か皇族の方々に提供するんでしょうか?」

「国家機密のため、説明することはできない」

 見慣れた顔の、目つきが鋭い男性がいう。

「僕はロボットみたいなものですかね……。ただ、いわれたとおりにやれ、と」

「そうだ」と目つきが印象的な男性が頷く。「我々と同じだ」

「君の好きなペースで出してかまわない。満足のいくレベルでいい。ただし、依頼人はこうも言っている。君の作ったもので「おいしい」と言わせてほしい」

 

 一瞬、胸がしめつけられた。


 それは胸の底に沈殿する虚無感か、あるいは果たせなかった願いの埋め合わせか。

とにかく、氷柱のような冷たく鋭い物が、茫漠とした僕の魂を突き刺した。

 そして、どういうわけか、この仕事は僕でなければならないという、非論理的運命を感じた。ただしそれは、限られた選択の中で、しかたなく選んだ感覚に近かった。

あぁ、そうだ。

 もう僕には、やることが、なかった。

「――条件があります」

「なに?」

 眼鏡のほうが少し驚いた。こんな好条件を飲まない人間がいると思わなかったろう。

 賢い人なら月に一回どんな不味い物でもスイーツを作ればよい。それだけで五〇万円手に入るのだ。

「これは僕のクソみたいなプライドですけど……」

「報酬が足りない、と?」

「いえ、その逆です。もしその人物に「おいしい」と言えなかったら、費用も報酬も全部いりません。それでよろしいでしょうか?」


 この提案に男組み二人は立ち上がると、店の外で連絡をした。

 五分も経たず、

「いいでしょう。では、もし成功すれば、五〇〇万円渡すことを約束します」

 …………金額が跳ね上がっているんですが。

 これは、あれか、依頼人が絶対に無理だと思っているのか。

 だとしたら、変に期待されるよりずっといい。どうせ僕は生きていても意味がないのだから。

「無理をいってすみません。満足できるような作品を作ります」

 その後は、簡単な書類を書いて事務連絡のみとなった。彼らは別れ際に、

「このことは内密に。不用意に広めれば仕事がなくなると思ってください」

 内心では自嘲気味に笑った。……話す相手なんていないのに。

 会計を済ませたテーブルには、冷めた三つのコーヒーが残った。


 二週間が経過した。

 僕は依頼の通り、雇い主のわからないスイーツ提供をしている。

 出したものはこれまで五つ。

 シュークリーム。マカロン。ショートケーキ。クレープ。チョコレートムース。

 出来上がったものは、専用の箱に入れ、クール便で指定された場所に送る。

 結果はその翌日、僕宛のPCメールに欠けたスイーツの写真と感想が送られる。


 感想の項目は【        】。

 見た通りの空白。「おいしくない」だ。


 提供したものは、どれも手を抜いたわけではない。シュークリームはカスタードと生クリームの二層仕立てで、表面はカリカリに焼き上げ、中に苺を入れている。ショートケーキは苺のほかにキュウイやラズベリーを混ぜ、甘さの中に酸味を入れて、クランキーを混ぜて食感を楽しませる。チョコレートムースはコーヒーを混ぜて苦みを強めにしたが……。

 少しの落胆と、大半が想定内。 

スイーツを食べてもおいしいと感じないなら、三つの予測がたつ。


一つは、甘いものが苦手であること。

一つは、食事自体が好きではないこと。

一つは、味を感じないこと。


 そして――昨日のチョコレートムースは苦みが強かったので、甘いものが苦手という可能性はなくなる(僕が大変まずいものを作っていないという前提だけど)。

 食事自体が好きでないなら、この依頼を受ける人間は、パティシエより和食や中華の料理人が適任だった。もう選ばれて、その人たちが諦めたのかもしれないが。

 残すは、味覚。

 もし脳に障害等があれば、最初から「おいしい」という感想をもたない――だが、依頼人が「おいしい」と言わせる希望があるから、先天的な障害があるわけではない。

 そうなると、考えられる可能性は一つ。

 食べている人は、精神的な理由で料理を拒絶している。

 だとすれば、どれだけいい味がするものを作っても意味がない。その人物の心を救い出さなければ、スイーツを「おいしい」と感じることはない。

 僕はスプーンで削られた茶色のチョコレートムースを見て、少しにやけた。

 味を感じない人間においしいといわせるなど、奇跡を起こせといっているものだ。常人ならすぐに匙を投げる。

 きっと僕もその例に漏れない。すべて尽くした後、無力感に打ちのめされるだろう。

 なんて似合いの仕事か。

 相手は誰だろう。女の子? 女性? 統計的に考えれば、男性より女性のほうがスイーツを好む。女性たちにとって甘い物は特別だ。

 ねぇ、君は何で苦しんでいる? もしかしたら、もう死にたいのかもしれないね。

 気持ちがわかるなんて思わない。自分の苦しみなんて他人にわかりっこない。

 ただ、僕も悔やみきれない過去があってさ。

 いつか、君に、話せるといいな……。

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