第2話 堕神と神子~忘失者の執着の始まりについて~

ジルカースとテオの再会は、予告も前触れもなく、ある日突然に訪れた。


分厚い雲間に三日月の隠れた、頼りない月明かりの照らす夜。

キスクが買い忘れた葡萄酒を片手に、ジルカースはひとり煙草をふかしながら、今晩のねぐらである宿への道を辿っていた。


昨晩キスクに強制連行されたジルカースは、着飾った女ばかりの浮ついた酒場に連れて行かれていた。

そういった軟派な空気を好まず、また女性慣れしていなかったジルカースは、やれ散々な目に合ったなと思い返す。


ジルカースは顔や外見で判断してくる類の女性は特に苦手だった。

褒められている事に変わりはないのだが、それでも、ジルカースからすれば自分個人の内面、人間性を無視されているようで、腹が立つ事だったのだ。

(あんな一見の人間に、俺の何が分かるんだろうな)

ふと蘇った後味の悪い記憶を打ち消すように、ジルカースは短くなった煙草を黒いブーツの底で踏み消す。


追加の煙草に手をつけようとした時だった。

不意に路地の角で、出会い頭にひとりの女性がぶつかってきた。

「きゃっ……!」

歳は十六、七歳程度だろうか。

雲間に隠れた月光の薄明かりにも、きらりと明るいブロンドの長髪を靡かせた彼女は、なぜだろうか、ひどく震えていた。まるで何者かに追い立てられているかのように。

その気配は到底殺気立ったものではなく、猫に追い詰められた鼠のような、とても頼りない気配を纏っていた。足元にはおとなしそうな犬が一匹、ぴったりと寄り添うようについて来ていた。

「くそっ、どこに行った?」

「女の足だ、そう遠くへは逃げられないだろう」

過ぎ去って行った追っ手を巻いて、ほっとした様子の名も知らぬ目の前の彼女に、ジルカースはなぜか不思議な既視感を抱いていた。

そもそも、これまでほとんど女性に執着するようなたちではなかったジルカースであるだけに、そんな些細な違和感すら意識にひっかかった。

そして次の瞬間、妙な記憶の断片のようなものが、ジルカースの脳裏に”甦って”きた。


―――水鏡越しに現れた彼女の表情は、なぜかとても不安げだった。


その姿はなぜだろうか、初めて会うはずの目の前の彼女とよく似ていた。

「……あんたどこかで会ったか?」

「えっ?」

直後に飛び出した自分らしくない軟派な言葉に、ジルカースは咄嗟に口元を抑える。

次に現れた感情の波は恐ろしさだった。

失ったまま、ながらく空白となっていたジルカースの過去の記憶。

その隙間に、間違いなく関係すると思われる、目の前の見知らぬ女性。

敵なのか味方なのか分からないながら、間違いなくジルカースの過去、ひいては秘密を握っていると思しき彼女。

暗殺者なら本能的に理解する、その得体のしれない穏やかな暗闇は、ジルカースの背筋に言い表しようのない悪寒を感じさせた。

「……近寄るな!」

「……っ!?」

ジルカースはすかさず彼女から距離を取ると、葡萄酒の瓶を隣に転がし、腰に装備していた愛用の刀(かたな)に手を添える。

雲間から差し込んだ月光が、スポットライトのように路地に光を落とし、立ちすくむ少女を照らし出した。

(不安げな表情の女、なにをそんなに憂いているのか)

わずか震える手に力を込め、ジルカースは恐れを逃がすように刀を強く握りしめる。

不意にズキンと痛む額を覆いながらも、目の前の彼女から目線は離さない。

その鋭い眼光に、目の前の彼女は戸惑い、そしてひどく怯えた様子を見せた。

「お前は俺のなにを知っている!?答えろ!」

ジルカースの問いに答える事無く、彼女は現れた時のように、飼い犬を伴って逃げるようにその場を立ち去って行った。


***


「狭い所だけれど、今晩はこの一室を使いなさい。テオ、貴女にも神の導きがあらん事を…」

父の遠縁のつてを辿り頼った、教会の倉庫のような一室で、東国の神子テオはようやく安堵できる一晩を過ごしていた。


母国を追われ逃れてきた身とはいえ、毎日水鏡の向こう側を映し見る習慣は止められなかった。

幼い頃からそうしてきた、彼女の中での決まり事の様なものだったからだろう。

(もう神託を受ける必要も無いのに、この水鏡の盆だけは捨てられなかったわね…)

その日もテオは水鏡の盆に水を引き、母国での神託の儀の真似事をしていた。

相変わらず水鏡の向こう側には、不穏な黒い影と、赤黒い血の色しか映らない。

それが何を意味するのか、神はもう存在していないのではないか、という想像を一時して、テオはぶんぶんと首を横に振った。

見慣れていたはずの在りし日の神の姿は、もう記憶の中でさえも薄れていた。


(今はどこでどうしておられるのだろう、神にも逃げ出したい弱さがあるのだとしたら)

そんな俗物めいた弱さが神にあるのだとしたら、世間の皆はおかしいだとか愚かしい事だと笑うだろう。

けれどテオは知っている、水鏡の向こうに居た”彼”は、テオから世情を耳にする度、辛そうな顔をしていた事を。

(世を憂うお気持ちのあるお優しい方だった)

最後の神託の日に、水鏡を通して渡された一輪のしおれた花を浮かべ、テオは誰にともなく祈った。


「……せめてあなたもどこかで生きていて下さい、私の最愛の方」


***


翌朝、起きてこない相棒を気にかけたキスクが隣室の宿部屋へ入ると、珍しく悪い夢にうなされている様子のジルカースが、寝苦しそうに寝台に寝ていた。

「おーい、ジルカースの旦那、もういい刻限ですぜ」

薄ら開かれたジルカースの瞼から、灰色の瞳が覗いてどこか遠くを見つめる。

そして”テオ”と女性の名を呟いた。


昨晩のジルカースは少々帰りが遅かったため、何かあったのだろうかとキスクは察したのだが、そういう事かと合点が行く。

さして女性に興味を示さないジルカースにしては珍しい事だが、所詮酒の絡んだ男などそんなものだ。

キスクも身に覚えがない訳では無かったため、やれやれジルカースも隅に置けないなと思いつつ、いつもの様に手のかかる相棒の世話を焼くのだった。

「まったく、まだ寝ぼけてんのかよ旦那、女なんてもう居ないぜ」

そう言ってキスクが揺り起こせば、ジルカースはハッとしたようにがばりと起きて、辺りを見渡すように確認するとまた頭を抱えた。

いよいよ訳ありという風体である。

「あらら、二日酔いですか?昨晩はだいぶ飲んでたからな……いま水を持って来ますよ」

キスクが水を持って部屋へ戻ると、ジルカースは真昼近い曇り空の窓際に座り込んでいた。寝起きで喉が渇いていたのだろう、キスクの手にしていた水を受け取ると一気に飲み干し、またぼうっとしたように視線を落とす。

まだ目が覚めきっていないのだろうと思われた。

「さっきはうなされてましたけど、嫌な夢でも見てたんですか?」

キスクは面白半分、面倒半分で、ジルカースに昨晩あったことを問い詰めた。

その問いにジルカースは俯いたまま”女に会った”と言った。どうやらキスクの勘ぐりもあながち間違いではなかったらしい。

この堅物硬派の暗殺者ジルカースをもってしても敵わない女とはどんな相手なのか、キスクは俄然興味が湧いた。

どうやら、ジルカースの過去の記憶は戻りかけているらしく、昨晩会ったという女性”テオ”がそれに大きく関係しているらしかった。

「名は聞かなかったが、記憶を辿るうちに思い出した、あれは水鏡の神子だ」


―――水鏡の神子

東の国で神々よりの神託を受け取るとされる神子の一族である。

その歴史ははるか数百年より昔から続くとされ、神子の血筋の者が代々神託を受け伝えてきた、というのはキスクも知るところだった。

その神子の一族と暗殺者ジルカースに、一体どんな関係性があるのか。

さらに探りを入れようとしたキスクを片手で制して、ジルカースはため息混じりに言った。

「少し考えたいことがある、独りにしてくれ」

「つったって……今日は受けてた依頼があるでしょう」

「後に回せ」

急な物言いにキスクはやれやれと頭を抱えたが、これも別段珍しいことでは無かった。

堅物気分屋のジルカースであったから、依頼主の対応が気に入らないなどの理由で軽率に依頼を蹴ることも時にはあった。

そのぶん暗殺者としての腕は確かであったので、どこの地にいても依頼は途絶える事はなかったのだが。

「分かりましたよ、俺は依頼主と情報屋に伝えて来ます、旦那はしばらくゆっくりしてて下さい」

物憂げなジルカースを部屋に置いて、キスクは依頼主らの元へ向かうべく、ひとり宿屋を出て行った。


ジルカースはといえば、失っていた記憶が少しずつ思い出されて来た今、昨晩感じたような不安や恐れは無くなっていた。

彼女は、テオは敵ではないと、それが分かったからであろう。


それが分かると同時、昨晩テオにあんな対応をしてしまった事がひどく申し訳なく思われた。

何者かに追われてひどく震えていた彼女を、ジルカースは「近寄るな」と一蹴し、「何者だ」と問い詰めたのだ。

(可哀想な事をしてしまった)

そう思う度に思い起こされる不安げな表情は、ジルカースの記憶から呼び覚まされた、水鏡の向こう側に見えた神子の姿と重なった。今朝方の夢にも見たその姿。

(テオ、水鏡の神子​)

空白となっていた記憶領域に引き出された、彼女”テオ”との記憶は、どれも温かで今のジルカースには縁遠いものばかりだった。

物心ついた頃から水鏡に映し見ていた彼女の姿は、当時のジルカースと共にとしかさも同じく成長して行った。

神託の儀を行うことを定められていた一方、テオは大人たちに悟られぬよう、水鏡越しにジルカースと他愛ない会話を重ねていた。

人間で言うところの幼なじみのような、親友のような関係性に近かったなと、ジルカースは珍しく笑みを浮かべて思い起こす。

幼い頃のテオがふと見せた不安げな表情は、当時の大人たちに気取られぬよう気を配っていたからであり、昨晩のそれとは違う理由であると、ジルカースは不意に気付かされる。


何者かに追われている様子だった。

国外で出会うということはつまり、神子という立場が揺らぐ何がしかがあったのか。

ジルカースは途端にテオの現状が無事であるのか、強い不安にかられた。

(テオ、君はいま何処へ消えた?無事で居るのか?)

ふわり、ジルカースの中に甦ったテオの姿は、過去の面影と昨晩の面影とを重ね、微かな胸苦しさを余韻に残してゆく。

何故だろうか、名も知らぬはずの、澄んだ水辺に咲く雪色の小花が、ジルカースの脳裏に思い出された。

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