第18話 展示室
真っ白な美しいレンガで作られた、雪に迷彩するような建物があります。
公爵邸、あるいは『公爵館』などと呼ばれる、私の国にある隣国大使館なのでした。
私がルクレツィアに連れられてこの建物に入る際に、少しばかり足を止めてしまったのは、この建物の敷地内が『隣国』……ようするに、私が精霊王として君臨する国ではなく、私の故郷たる国の法が適用される場所だったからです。
私自身相応と思っていなくとも、私は、この国の国家元首なのでした。
いちおう法治を目指して整備をしている最中ではありましたが、王というものの一声はまだまだ法を飛び越えてしまうほど大きく、私が『私の国』で仮になにかをして罪に問われても、精霊王であることを証明できれば、その罪はなかったことになる可能性も、おおいにあるのです。
ところが、隣国の法に基づいた裁きを適用されてしまうと、私の一声はとたんに力のほとんどを失います。
もちろん国家の関係というものがありますから、私のような立場の者を軽々に裁いたりはしないでしょうが……
私には後ろ暗いところがいくらでもあったため、巡回の兵や、街頭演説、それに城だの大使館だのという、いかにもいかめしい感じのする公的な建物に近付くたび、なにかひどい罪を言い渡されて、拷問を受けるのではないかという、焦りとも恐怖ともつかないものに襲われるのでした。
しかし、その感情は、ルクレツィアと彼女の私兵を振り切って逃げるほどのモチベーションにはなりえません。
私は目に見えないものをよくおそれ、それによりいくらか人生の決断を誤ってきました。
しかし、それでもなお、『すぐそこにいる、甲冑をまとって剣を帯びた、自分の味方ではない人たち』のほうを、『目に見えない、存在しないかもしれないもの』より下におくほどには、狂っていないつもりでした。
抜かれてもいない刃の鋭さに背を押されるようにして公爵館へと入ると、蜂蜜色のじゅうたんを進んだ先で、ルクレツィアが人払いをしました。
もちろん逃げる好機だなどとは考えず、私はただただ、おそれていたのです。
「こうして二人きりになるのは、久しぶりだね」
私がこのような言葉をつい発してしまったのは、ルクレツィアと二人きりにされてしまったことへの恐怖からでした。
これまでなにかの間違いで縄にくくられずにいた小動物が、いよいよ台所が近付いてきて自分が『肉』とされることを予感し、精一杯の愛想を振りまいて食べられないようにする……私の言葉も、表情も、そういうたぐいのものだったのです。
これはルクレツィアに存外無視できない効果を発揮したようで、ここまで剣呑と言えるほどに固かった彼女の表情が、おどろいたように、一瞬やわらいだのです。
「……ああ、その、なんだ……私は……あなたとうまく話せたことがなかったなと、反省しているんだ」
逃げるように背を向けて、部屋の扉に手をかけたまま、ルクレツィアは独白を始めました。
私は、彼女の言葉を聞き漏らさないように、耳をそばだて、意識を集中します。
そこに私の生命を長らえさせる命綱が隠れているものと、この時の私は考えていたのです。ルクレツィアが私をここに連れ込み、なにをしようとしているのかまったくわからなかったものですから、私はやはり、保身を第一にし、生き残り、逃げ帰るための努力を欠かすことはできませんでした。
「思えば、あなたに対して言葉足らずだった……いや、言葉足らずなのは、私の性分というか……しかし、それを差し引いてもなお、あなたの前ではぎこちなくなっていたと思う。まさか、あなたとの婚約が叶うとは、思っていなかったし……戸惑っていたというか……」
この当時の私が知る『ルクレツィア』は、このように言い淀んだり、意図のはっきりしない言葉をいくつも連ねたりしない人でしたから、ためらう口調になられた私は、大変に恐怖していました。
話している相手の様子が明らかに平時と違うと、その原因が自分にあるのではないかと思ってしまうのです。しかも、悪い原因が、自分にあるのではないかと、そういう方向で考えてしまうのが、私の常でした。
人の不機嫌さの原因は自分にあり、人が上機嫌だときっと私と関係ないどこかに理由があって、それを少しでも損ねないように黙り込み、愛想笑いを浮かべ、真正面にいる人の意識から自分の存在が消えてほしいと願う、私にはそういう性質があったのです。
「公爵邸にあなたが初めておとずれた時、あなたは二歳で、私は三歳だったな」
覚えていません。
それはこの記録を
しかしルクレツィアはまるで昨日あったことのように、言葉を続けます。
それはこの時もそうでしたが、現在も、彼女は私とのあらゆる思い出を昨日あったことのように鮮明に語り、しかし私のほうはどれだけディティールを積み上げられても彼女の話にあった出来事を思い出すことができず、いつでも申し訳ない気持ちでいっぱいになるのです。
この時も、彼女の語る思い出を記憶していない申し訳なさに胸を押しつぶされそうになりながら、それはそれとして、『そんな幼いころのこと、覚えているわけがない』と、やはり心中では自分を許すための言い訳をつらねていたのでした。
「あなたはご両親に言われるまま、私に精一杯のあいさつをしてくれたな。その時の愛らしさといったら、まるで神がこの世に降臨なさったのではないかと感じたほどだ。実際、あなたの背後に真昼の輝きが見えたような、そういう衝撃さえ、あった」
それはまあ、公爵邸でのパーティーに私を連れて行ったなら、両親は私を公爵にあいさつさせるでしょう。
年齢の近い子が公爵にいたのであれば、顔をつながせる努力もするかと思います。
しかし、ルクレツィアの衝撃は、どれだけ私が記憶をさかのぼろうとも、共有できないのでした。
「それから私は、あなたに夢中になった。あなたがどこにいて、なにをしているか、常に調べさせた。あなたの肖像をひと月ごとに描かせ、部屋に飾った。あなたの落としたもの、使ったものを集めさせ、それを保管した。あなたが神に祈ることが増えたと聞き、魔道学校への進学をとりやめて、神学校に通うことにした。あなたのご両親にも、それとなく、あなたの神学校への進学を勧めたりもしたな」
この時点で私は、ルクレツィアがなにを言っているのか、理解できなくなってきていました。
述べている内容はわからなくもないのですが、彼女の行動にはつねに大きな『なぜ』がつきまとっており、私の理解を拒むのです。
「思えば大冒険だったよ。あなたとは顔を合わせないように気をつけていたというのに、私の通う学校への進学を勧めてしまうなど……ははは。思い切ったことをしたものだ。若気のいたり、というのかな? ……そして実際に目撃したあなたは、幼い日より、描かせたどのような絵画より、ずっとずっと光り輝いて見えた……」
「それは、その」
私がここで口を挟んだのは、なにか言いたいことがまとまっていたというわけではなく、なにかしら声を発さないと、状況に耐えきれないからなのでした。
目の前で懇切丁寧になにかを語っているルクレツィアは、私に対して語りかけているはずなのですが、その私はというと、彼女が言葉を重ねるたび、どんどん彼女から遠のいていくような心細さを感じていたのです。
せめて、こちらを振り向いてほしい。
私は彼女のふわふわした蜂蜜色の髪しか、見えないのです。彼女はずっと部屋の扉に手をかけたまま、私に背を向けたまま、言葉を重ねているのです。
私は人の表情、特に視線に敏感で、それをたいそうおそれているぐらいなのですが、しかしその敏感さは、人がなにを考えているのか察するのに役立ってもいるようなのでした。
だから、こうして背を向けられたまま話されると、話の内容もあいまってルクレツィアの考えがちっともわからず、私は心細さのあまり、彼女の肩をつかんで振り向かせようかとさえ、思ってしまったのです。
いっそ、そうすべきでした。
自分で行動を起こしたほうがまだ、心の準備ができて、その後のおどろきが少なくなったように思います。
いきなり肩越しに振り返った彼女の面相は、薄い微笑みが浮かび、しかし目はこわいくらいに開き、蜂蜜色の瞳には輝きがなく、よどんでいました。
あごを上げながら振り返るものですから、髪が落ちて、耳にある飾りがよく見えました。
それはよくよく見れば、内部になにか、細長いものを封じた、クリアガラスの特注品の耳飾りなのでした。
「これがなにか、わかるかな」
ルクレツィアは話の流れを無視するようにそう述べましたが、私にはなぜだか、彼女の問いの対象が、耳飾りであること……それ以上に、耳飾りの中に封じられている『細長いなにか』であることを、理解しました。
しかし、なにかはわかりません。
私が考えるひまもなく、ルクレツィアは扉を開き、私を中へ招くように手で指し示しました。
この時点で私の頭の中では『逃亡』という選択肢がかなり上位に存在しましたが、『外国』であるこの館で、『外国の要人』であるルクレツィアから逃げ出す度胸もなく、けっきょく彼女の求めに従って、部屋の中へと入ることになったのです。
部屋は壁の色もわからないほどの暗闇でした。
窓はあるかと思われるのですが、厳重にカーテンが閉じられ、そもそも光さえも入り込まないほど、機密性の高い作りのようなのです。
入った瞬間に重苦しい空気が肺にとびこんできて、私は一瞬、気を失いそうになったのを記憶しています。
私が完全に部屋に入ると、ルクレツィアが無駄のない動きで部屋に入り、扉を閉じて、二回、施錠したのが音でわかりました。
「私があなたのことをよく知っているのは、この部屋を見てもらえれば理解してもらえると思う」
ぱちん、と指が鳴らされ、室内に淡く照明が灯りました。
そして私の目に飛び込んできたのは、壁中に整然と貼られた、『私の肖像画』と……
丁寧にクリアガラスのケースに陳列された、誰かが使い込んだと思しき私物の数々。
その物品にはタイトルと軽い紹介文の書かれたプレートが添えられており、そこには私の名前と、私が何歳の時にどういう用途で使用したものなのかが、書かれているのでした。
「この耳飾りの中身、あなたの髪の毛なんだ」
今もって、私はこの時の感情をもてあましています。
どう反応すればいいのか、ちっともわからないのです。なにを思えばいいのか、まったくわからないのです。
普段は『人に嫌われ、攻撃されないためには』『世間の人がやる、いわゆる普通は、どうすべきなのか』といったことを考えて、どう反応していいかを決めるのですが、この時のルクレツィアの言動に対しては、そういう、正解を考えるための指標となるべきものが、一切見いだせないのでした。
だから、私は、この時、彼女が発した言葉についてどう答えるべきだったのか、今もわかりません。
「……はしたないところを、見せてしまったかな。少し、照れる」
笑えばいいのか、怒ればいいのか、恐怖すればいいのかさえ、わかりませんでした。
だから私は、笑うのです。
困った時に顔に笑みが浮かんでしまうのは、私の数ある悪癖の中でも、もっとも今の状況を作りだし、私を追い詰めるのに寄与した癖なのかもしれませんでした。
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