第17話 路地裏の語らい

「少し、話をしたい」


 そう言われて私に断る度胸があろうはずもありません。

 私とルクレツィアは、彼女の私兵に囲まれながら、雪深い街の寒々しい裏路地で、立ち話を始めることになったのでした。


 久々に見るルクレツィアは、わずかだけあった幼さがすっかり抜けて、一部のスキもない、大人の女性に変化していました。

 蜂蜜色の長い髪が風に揺れた時にのぞいた耳飾りは生まれた時からそこにあったかのようになじんでいて、けれど、学生時代の彼女にはなかったものでした。


 本当に、久々なのです。

 我々は結婚したことになっているらしく、また、公爵によっていずれ結婚式をあげる話が進んでいるようではありましたが、私たちがこうして顔を合わせて言葉を交わすのは、あの精霊礼拝堂以来の、実に数年ぶりのことなのでした。


「急に足取りがつかめなくなったので、心配していた。どこに行っていたんだ?」


 私はオデットの名前を出すのを避けるべく、考え込まねばなりませんでした。


 問題に直面した時に逃避するのは私の悪癖ではありますが、それは、よくしてくれた人に迷惑をかけて気にしないという意味ではないのです。

 むしろ私は、人に迷惑をかけることを極度におそれ、他者の力でしか生きていけない現状に悶えるほどの申し訳なさを覚えながら、そうとしか生きていけない自分に絶望しているのですから。


「……まあ、言いたくないなら、それでもいい」


 私が黙りこくっていると、ルクレツィアのほうが引き下がりました。

 これが意外で、私はおどろき、ようやく、ルクレツィアのほうを直視することになったのです。


 彼女は私をじっと見ていました。

 きらめく蜂蜜色の瞳に捉えられ、私はもちろん目を逸らしたくなりましたが、それも失礼なような気がして、目を逸らすことさえ、できませんでした。


 彼女への気遣いではないのです。私はこのごに及んでルクレツィアの怒りを受けるのがおそろしく、そして彼女からの叱責や罵倒、不興をかうことを避けられると、心のどこかで思っていたのでした。


 だから、少しでも彼女の機嫌を損ねるような行為はしたくなかったのです。

 すでに手遅れと頭ではわかっていても、私の心はその現実を認めることができていなかったのでした。


 しかし私を見るルクレツィアの瞳は穏やかで、表情は平時のごとく、きまじめそうで、固いものでした。


 私はそこに怒りを押し殺しているような気配を感じてしまいましたが、のちに彼女がとった行動まで加味するなら、この時は本当に、私に対して怒りなどはなく、『きっと強い感情を押し殺しているに違いない』という私の見立ては勘違いだった可能性も、あるとは思います。


「城に戻ろう。私との挙式がまだだったろう?」


「……君は、それでいいの?」


 人生で初めて、そしておそらく唯一となる、私からルクレツィアへ疑問を呈した瞬間なのでした。


 私は彼女が怒りをあらわにせず、糾弾するでもなく、ただ城に連れ戻そうとすることが、おそろしかったのです。その理由を知らずにはとてもいられないほど、こわかったのです。


 ところがこの質問こそが彼女の精神を逆撫でしたようでした。


「それでいい、とは?」


 ルクレツィアというのは、私にとって、完璧で、自他に厳しい、歳上のまじめな女性という存在でした。

 ところが私がそれまで彼女に感じていた『厳しさ』は、まったくもって本気のものではなく、今、私をにらみつけるように目を細める彼女の表情と、裏返るのをつとめて抑えるような声からにじむ激しい感情こそが、彼女の発揮できる『本気の厳しさ』なのだと、思い知らされるような心地でした。


 この時点で私は発言を撤回し、平謝りしたくなったのです。


 しかし、それさえ許される雰囲気ではありませんでした。

 公爵兵たちも『お嬢様』の剣呑さにあてられて剣の柄に手をかけ、いつのまにかルクレツィアの横にいたメイドのリリーが、いつでも飛び出せるように脱力しているのが見えます。


 しかも、公爵兵やリリーが備えている相手は、あきらかに私ではないのです。

 彼女らは、ルクレツィアが私に害をなさないように臨戦態勢に入ったのだと、その視線の方向から、わかりました。


 なにかあれば、殺される。


 それは私にとって願ってもないことのはずでした。なにせ今日、こうして久々に外に出たのだって、死ぬためだったはずなのですから。


 しかし、いざ目の前に『自分を殺すだろうもの』が現れると、私の決意はすっかり霧散し、情けなく足が震え、どうにか生き残る道がないものかと頭が勝手にめぐるのです。


 小心。


 私の人生はいつだって、小心ゆえに初志を貫徹することがかなわないものだったような気がします。

 せめて、一度決めたことを覆さない度胸や覚悟があれば、私の人生はもっと『自分のもの』だったでしょう。

 しかし現実の私は、自分の死ぬ日さえ、自分では決められないのです。死のうと思い立ち、人を巻き込んで行動を開始してなお、いざ目の前に現れた死の気配にはおそれおののき、簡単に自分の決定を覆す、死にたがりを標榜ひょうぼうするだけの狂言者きょうげんものなのでした。


「僕なんかと、君みたいな人が結婚するということに、君は不満を抱いているんじゃあないかと……」


 私の発した言葉は文頭から非常に小さな声だったにもかかわらず、文末にいたるごとにどんどん小さくなっていき、最後には雪の積もる音にさえかき消されるようなありさまでした。


 それに対してルクレツィアの声は堂々としたものです。


「かまわない」


「……しかし」


「そもそも、あなたとの婚約は、私から申し込んだものだ」


 初耳でした。


 というよりも、私は、私とルクレツィアとの婚約の経緯について誰かにたずねるのを、ずっと避けていたような気がします。

 たとえば公爵に謁見を求められた時……使節団が城に来た時……あるいは両親の安否をたずねる手紙に……いつだって、ルクレツィアと私が婚約にいたった経緯を聞く機会はあったように思います。


 それでも私が、ルクレツィアとの婚約の経緯について誰かにたずねたことは、なかったのです。


 聞きたくなかったのでした。

 どのような回答をされても、なにかそこにおそろしい陰謀みたいなものがあるのではないかと……

 たずねたことで、そのおそろしいものが私の眼前にくっきりと現れるのではないかと、そう思い、避けていたのでした。


 貴族同士の婚約なのですから、そこにはなにかの意図、陰謀、政略があるに決まっています。

 そもそも、私とルクレツィアとは婚約まで面識がなく……少なくともこの当時の私はそう信じきっていたものですから、我々のあいだには、政略以外の接点など、あろうはずもないのです。


 だから私は、見たくないものに蓋をしたのです。


 直視すればそこには『私にとっておそろしいもの』が詰まっているに違いないから、蓋をして、覆いをかぶせて、見ないようにしたのでした。

 知ってしまうまでは、たとえどのような問題がそこに潜んでいたとしても、それが私に害をなさないのだと信じて、『公爵令嬢ルクレツィアと子爵令息でしかない私』の婚姻について、いっさいの思考と興味を放棄していたのです。


 それが今、心の準備を許さないタイミングで、突きつけられている。


 逃げ出すことができたなら、きっと、逃げ出したでしょう。


 しかし、私はルクレツィアに背を向けて走り出すことはできないのです。

 そんなことをすれば、きっとルクレツィアやその私兵にとりおさえられ、無惨な死を迎えるものと信じきっていて、ちっとも動けなくなってしまっていたのでした。


「あなたはきっと覚えていないだろうが、私はずっと昔から、あなたを知っている。幼い日、あなたがご両親に連れられて我が家の社交パーティーに来たことを覚えているか?」


 貴族の社交界入りは学校卒業後の十八歳時点と決まっていますが、それまでに親や兄、姉などにくっついて『仮社交界入り』をするのが常です。

 我が家は子爵家とはいえ、特別なお役目を陛下直々にいただいておりますから、おそらくその縁で公爵家に招かれることもあったのでしょうが……

 なにぶん記憶にないほど幼い日のことのようですから、記憶を探っても、気の利いた思い出話が出てくることは、なかったのです。


「そうか。だが、あなたが知らないあなたの記憶を、私はよく知っているのだ」


 その口調はルクレツィアのものと思えないほど得意げで、私はこの時初めて、彼女も『完璧で己に厳しい、鋼のような女性』ではなく、『一つだけ歳上の少女』であると認識できたような気がします。


「ついて来てほしい。私があなたに詳しいことを……その一端を、あなたにご覧いただけると思う」


 断るという選択肢はなく、オデットといっしょに来ているのだと明かすことも、できません。


 こうして私はまた、流されました。


 オデットも、ルクレツィアも、シンシアも、私にとってはどうしようもないほど大きく強いもので、それに抵抗してどうにかなるなどと、この時の私はすでに、ちっとも思っていなかったのです。

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