第10話 『お兄様』

 国境をこえるには証書が必要なのでした。


 それは神殿で発行してもらうか、役場で発行してもらうか、とにかく公的・国際的ななにかに発行してもらうという手段でしか手に入りません。

 では私たちが国境をこえた時に関所で見せた証書がなにかといえば、それは『冒険者登録証』なのです。


 私はこの雪と山々の国に入ってから正体の発覚をおそれて冒険者稼業にさえ取り組まないほどではありましたが、国に入る時にどうしようもなく冒険者証書を見せてしまっていて、関所の役人がよほど怠惰でない限り、私が国境をこえた記録は残っているのでした。


 オデットもそこはわかっていたとは思いますが、それでも、なんの縁もない北の国に私が入っていると予測される可能性は低く見ていたのでしょう。

 記録があっても、その記録にアクセスする理由がなければ、調べられることはないのですから。


 ところがシンシアは私の居場所をつきとめ、誘拐しました。


 てっきり公爵のもとか、あるいは昼神教の神殿に連れ去られると思っていた私はしかし、シンシアがいっこうに私をどこにも連れ出さないのに困惑することになります。


「お兄様は、すごいおかたですから、私などではおよびもつかない深謀遠慮があり、このような行動に出たのだと思います」


『なぜ、私をどこにも突き出さないのか?』という問いかけに対する第一声がこのようなものでした。

 なにかの前置きであることは明白なのですが、シンシアの中の私はとてもとても偉大な存在であり、それは現実の私とはかけはなれているため、居心地が悪く、私は「僕はそんな立派な者じゃない……」と、すねたようにつぶやいてしまいました。


 ここで、シンシアの金銀の瞳が不機嫌そうに細められたのを見たのですけれど、私は発言の撤回をしませんでした。


 私の命脈を握っているのは、オデットからシンシアになりました。

 しかし、私はオデットほどには、シンシアをおそれていなかったのです。


 冒険者としての功績や、それにともなう組合内での権力、そして戦闘能力で言えば、オデットよりもシンシアのほうが圧倒的に上です。


 それでも私は、シンシアを妹だとわかっているからか、彼女には気安く反論めいたことや、不満めいたことを言えるのでした。


「お兄様は、立派なかたです」


 シンシアの発言は断固としていて、彼女の言う『お兄様』が私とは別におり、その人のことを述べているのかと、そのような気持ちになりました。

 しかし、シンシアの語る『お兄様』は間違いなく私のことなのです。

 こうなると私は、私とあまりにも違う『私』がシンシアの口から出てくるのを、困惑し、黙り、聞いていることしかできません。


「お兄様は、私を助けてくださいました。私が冒険者に向いていると見抜き、知識と方向性を与えてくださいました。お兄様は、立派なかたです。深いお考えがあり、その判断は正しい、私の所有者こそが、お兄様なのです」


 それはいったい、誰のことなのか。


 シンシアの『お兄様』は、今もってなお、立派で、賢く、未来を見抜き、勇気があり、シンシアの理想のお兄様のようなのですが、彼女の口から出てくる『お兄様』について聞くたび、『それは私ではない!』という、必死の叫びが腹の底から上がるのでした。


「お兄様は、逃げません」


 私は逃げています。逃げ続けています。けれど、シンシアの『お兄様』は違うようでした。


「きっと、精霊信仰という正しい信仰のために雌伏なさっているだけなのですね。シンシアにはお兄様のお考えのすべてを察することはできませんけれど、お兄様は立派なことをなさるのです。きっと、苦しむ多くの人を救うのです。だって、シンシアのお兄様ですから。けれど、一つだけ、不満があります」


 私は『お兄様』と『私』があまりに乖離かいりしているのをいちいち否定するのに疲れてしまっていて、黙って話の続きを聞いていました。


 するとシンシアは十三歳の少女らしい、いたいけな表情でほおをふくらませ、こんなことを述べるのです。


「お兄様が、シンシアを頼ってくださらなかったこと、それがシンシアの唯一の不満です。どうしてあんな女を頼るのですか。どうしてルクレツィアなんかと結婚なさったのですか。シンシアのほうがお兄様のことを理解しているのに、どうして」


 ここで私の知らない情報が出てきたので、血のつながった関係の気安さもあり、私はつい、たずねてしまいました。


 ルクレツィアとの結婚。


 私には覚えがなかったのです。なにせ私は公爵家にずっと監禁されていただけで、結婚式も、調印も、こなしていないのですから。

 それに公爵からは『娘を邪教に引き込んだ詐欺師』と思われていたはずですから、私とルクレツィアの結婚など、許されるはずがありません。


 だからなにかの間違いではないかとシンシアにたずねると、シンシアは「なるほど」とひどく腑に落ちたようにつぶやきました。


「おかしいと思ったのです。お兄様がルクレツィアと結婚なんか、するはずがないですよね……だってルクレツィアはお兄様のことをまったく理解していないし……そう、そうだったのですね。お兄様は監禁され、流言によって結婚したことにされていた……そう考えればすべてに説明がつきます。きっと、あの女……赤毛で、日焼けした、あの……」


 シンシアはオデットと接点がなかったようなので、ここで私はオデットのことを紹介する必要性にかられました。

 なんとも奇妙な他者紹介もあったものだなと、こんな時なのに、みょうにおかしくなってしまったことを覚えています。


「……オデット。へえ。オデット。シンシアのお兄様だと知ってさらったのかしら。……とにかく、あの女にも、卑怯な手段で誘拐されたのでしょう? お兄様の意思を無視して監禁したり、誘拐したり、本当に許せません。お兄様の尊いお考えの影も踏めない連中が、いったいなんの権利でお兄様を手許に置くというのか。これからはシンシアがお守りしますから、お兄様はどうか、ご心配なさらないで」


 力強い、というよりは、こわい、という印象が先に立ちます。


 シンシアは、『お兄様』のこともそうですが、どこか思い込みが激しく、事実を誤認しているような、そういう印象を抱かせる様子だったのです。


 彼女の語る『お兄様』は私ではないのです。

 しかし、たしかに私はルクレツィアの家に監禁されていたし、オデットには誘拐されたと言えないこともないし、シンシアの『お兄様』は私ではないのだと、否定するほど断固とした反対要素が見つからないのでした。


「美しい国ですね」


 シンシアは唐突に話題を変えました。

 そして、その話題転換の意味がわかる前に、こう続けました。


「全部、シンシアにお任せください。きっとお兄様の思うようにしてみせます」


 呼び止める暇もなく、シンシアは部屋……というか小屋を出て行き、外から鍵をかけて、どこかへ去っていってしまったのです。


 私は物理的に閉じ込められたのをしばし呆然としながら認識し、そして待っているしかないことをようやく察すると、シンシアの言葉の意味を考え始めました。


 彼女は私の思うようにしてみせると述べましたが、『私の思う』ものなど、なにもないのです。

 私は信念も覚悟もなく、流されるままこの土地に逃れてきただけなのですから。


 私に思うところがあるとすればそれは、私のうかつさと小心さが引き起こしたすべての問題が、最初から発生さえしていなかったかのように片付いて、すべてが私の精神にじわじわとした痛手を与えないよう推移してほしいというものぐらいなのです。


 シンシアの『お兄様』は、いったいなにを望んでいるのか?


 ほどなく、判明しました。


 シンシアは、この土地で精霊信仰を広めていたのです。

『私』の思うことを達成するために。

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